OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

私の使った切符 その123 特殊な途中下車印 2

2020年09月28日 | 鉄道

 次の下車印も長方形。

304 「湧別」下車印 1974.8.29発行 北海道周遊券

 1979年の北海道旅行で中湧別に宿泊したのが9月9日。前夜は札幌から釧路まで夜行急行「狩勝4号」で移動してきた。記録が不完全だが、おそらく釧路から網走に出て、湧網線で中湧別に来たのだろう。中湧別から湧別まで短い名寄本線の支線が突き出ていた。この支線に乗車して終点で下車印をもらい、さらに湧別から中湧別までの乗車券を購入した。

305 湧別から中湧別 乗車券 1974.9.9(再掲)

 中湧別の印も、途中下車印として用意されたものでない可能性がある。
 途中下車印の中で最も特徴的なのが、米原駅の印。

306 「米原」下車印 1972.3.11発行 能登・加賀温泉ミニ周遊券

 外形は正方形というか、それを45度傾けた「ひし形」の印で、縦書きで米原と書いてある。ここに示したのは1972年に能登半島へ写真撮影のために行った帰途3月13日に米原で途中下車した時のもの。

307 米原駅 1972.3.13

 米原では、中山道の宿場の写真を目指した。この時、3月の時刻改定の直前で、米原駅ホームの時刻表掲示板の付け替えを行っていたところのスナップ。なお、湖西線の開通は1974年のこと。
 米原の下車印はこの時の他1965年の二条駅から熱田駅の乗車券にも捺されているが、同じものである。

古い本 その26 宇宙

2020年09月25日 | 50年・60年
古い本 その26 宇宙

ジャンル:50年・60年

 前回は昆虫好きだったころに関連する本を紹介したが、中学生から友人の影響とそのころのできごとのために、宇宙関連にも興味を持った。ただ、そのころ読んだ本はあまり保管していない。あるのは大学生時代に読んだと思われる本が少しだけ。

24 シュテルンフェルト・著 金光不二夫・訳 「人工衛星」 岩波新書 1958

 岩波新書「人工衛星」については、昨年(2019年)7月20日の当ブログ「月面着陸50年」のときに記した。シュテルンフェルト・著 金光不二夫・訳 岩波新書 1958 というものである。
 1957年にソビエトは突然「人工衛星の打ち上げに成功した」と発表した。直径58センチのアルミ製の球体で、2メートルほどのアンテナが4本付いていた。アンテナは、やや開いた一方向に向いていたから、まるで飛んでいるときにアンテナがたなびくように後ろに向いていたような印象を受けるが、そういう意味は全くない。機能は(今から考えると)おもちゃのようなもので、本体の温度変化を0.3秒ごとに発信していたにすぎない。近地点215km、遠地点939kmの楕円軌道で、近地点が低いから(ちなみに現在の有人衛星・国際宇宙ステーションの近地点・遠地点とも約400km、ひと月に2kmほど「落ちて」くるそうだ。)空気抵抗が大きく、打ち上げから3か月ほどで大気圏に落ちた。名前をスプートニクといった。
 原著はスプートニクより前の発行、日本語版は1958年1月25日初版発行で、1957年10月4日のスプートニク打ち上げから113日後であるから、スプートニクの大気圏再突入の11日後である。「訳者まえがき(1957年12月付け)には、そのあたりを記してある。さらにまえがきの追補というものが1958年10月付けで短く記入してある。本文210ページまでが原著の翻訳で、211ページから224ページまで「人工衛星第一号・第二号」として宮地政司氏の文が追加されている。さらに225ページから「ツィオルコフスキーから人工衛星(スプートニクとルビがふってある)まで」と題する訳者金光不二夫の文が追加されている。これには、スプートニク1号(1957年10月4日打ち上げ)、同2号(1957年11月3日:実験動物としてライカ犬を載せていた)、同3号(1958年5月15日)の記録が加えられている。
 私の持っている本は、1961年8月29日付の第4刷となっている。従って、1957年の末に宮地氏の寄稿と、訳者まえがきの付いたものを初版として発行し、後(1958年5月以降)に訳者の追加文章とまえがきの追補が加えられたことになる。そうなると初版と別の第2版といった名前になるのがふさわしいと思う。
 私がこの本を購入したのはずっと後のことだと思う。というのは内表紙に私の蔵書印が捺してあるのだが、その蔵書印を作ったのは1970年ぐらいだったから。とは言っても、蔵書印を捺したのは入手した時とは限らない。いずれにしても、中学・高校時代に宇宙・天文関係の大きな出来事が続いたのが、私の興味を引いていたのは間違いがない。この本の存在と、有人M君の影響、そしてガガーリンと握手したことが大きな影響をくれた。
 アリ・アブラモビッチ・シュテルンフェルトArio Abramovich Shternfel’d(1905−没年不明)は、ポーランド生まれ。ソビエトで宇宙旅行に関する研究を行った。
 金光不二夫(1927−2000)は東京出身のロシア語翻訳家。
 宮地政司(1902−1986)は、広島出身の天文学者。東京天文台長や日本地図センター長を務めた。

25 畑中武夫・著 「宇宙と星」 岩波新書 1958

 この本も入手時期などはわからない。蔵書印も捺してある。本の構成は、巻頭写真4pp、まえがき、第1章「夜空の星」第2章「星はすべて太陽だ」第3章「銀河系の構造」第4章「流転する宇宙」、追補、といったもの。全部で183ページである。初版発行は1956年であるが、所持している本は1970年8月発行の第25刷!というもの。いずれにしても、宇宙の年齢が50億年としていたころの本であり、相対性理論は取り込まれているし、中性子星も概念が書かれているが、ブラックホールやもちろんダークマターや重力波はない。
 畑中武夫(1914−1963)は和歌山出身の天文学者。東京天文台天体電波部長などを務めて、電波天文学の研究を拓いた。

理科年表 丸善出版

26-1 理科年表2014 表紙

 高校生の最後頃から、毎年理科年表を購入していた。最初の一部分は捨ててしまったが、博物館退職頃までの約40年間のうち数年分欠如があるがほとんどの号を所持していた。退職時に博物館に寄贈したが、2011年から2014年のものを手元に残してある。各種のデータを調べるのに便利で、例えば海外旅行に行く際にその都市の平均気温などをすぐに調べることができた。現在はネットがあるので使わない。
 時々見た表の例を挙げると、各惑星の衛星の表がある。最初の頃はかなり少なくて覚えようかと思ったぐらいだったが、惑星探査機が訪れるようになるとたちまち増えていまや数え切れない。例えば、木星と土星の衛星の数は、20世紀末頃にどちらも18個ぐらいだったのが、2014年の理科年表にはそれぞれ67個・65個としてある。これらの数字は怪しいものや、いったん「発見」されたものの、その後観測されていないものまであるから、まさに「数え切れない」というのがふさわしい表現。

26-2 理科年表2014 地磁気偏角

 上のページは偏角を表すもので、北磁極・南磁極がよくわかる。南アメリカ大陸あたりの異常も見える。地磁気はこういった地球物理学関連のデータの中で最も変化の激しいところだろうから、すでに今年の図は変更されているに違いない。逆に言えば、昔のデータを調べるのに「理科年表」が揃っていれば便利。各地の卓越風向など気象統計なども面白い。川内原発付近の卓越風が、理科年表と九州電力の表が随分違っているのも気になる。少し古いのしか持っていないから、こちらのデータは地磁気と違って長い年月の統計だから、現在のものが全く異なることなどありそうにない。

私の使った切符 その122 特殊な途中下車印

2020年09月23日 | 鉄道

 楕円形・円形以外の下車印もある。

299 「仙台」下車印 1969.7.21発行の北海道周遊券A券

 周遊券のA券に捺してあるから北海道旅行に行く途中で、仙台で下車したらしい。A券に下車印があることは多くない。普通はB券を見せて区域内を旅行するから、B券に多数の下車印が捺される。この券の場合も、A券の下車印は仙台だけ、B券には24の下車印が捺されている。下車印は上下の辺が直線で陸上のトラックのような形である。
 北海道への往路は、名古屋の実家から7月23日に出発して、夜行東名高速バスで東京に行ったことが記録されているが、24日の仙台の行動の記録はない。

300 「三段峡」下車印 1984.3.4発行の広島・宮島周遊券B券

 仙台の下車印と近いが別の形。当時三段峡駅は可部線の終点であったが、2003年3月に可部駅から先が廃線となった。後に一部(可部・あき亀山間)が復活したというが、2003年の廃止区間は46.2km(21駅)であるのに、2017年の復活区間は1.6km(2駅)、3.5%にすぎない。一旦廃線となったのを復活した唯一の例だそうだが。
 ところで、この三段峡駅の下車印は、周遊券(たて73mm)の下辺近くに上下逆に捺してある。下車印は普通小さなホッチキスのような器具についていて、切符の縁を差し込んで捺す。だから下辺に押すと上下が正しくなるのだが、券の下辺が混んでくると右端に(左端は表紙に止めてある)横向きの駅名となるが捺し、さらに上辺に上下逆に捺す。だから下辺に逆に捺してあるのが不思議。

301 「気仙沼駅」下車印 1967.7.19発行の東北周遊券
 長方形の枠の中に横書きである。ちょっとはっきりしないが、「気仙沼」の文字は明確。その後ろの一文字はおそらく「駅」だろう。駅の文字の入った下車印は唯一のもの。下車印として用意されたものでない可能性もある。
 私の二度目の化石採集旅行の時の切符。7月30日に岩井崎を見学して気仙沼線の陸前階上から北上し、気仙沼で下車宿泊して上八瀬のペルム紀化石産地に行った。翌日は大島に渡ってジュラ紀化石の採集を試みた。

302 上八瀬産三葉虫 1967.7.30採集

303 気仙沼港 1967.7.31 大島渡船から

 この写真のあたりは大震災で大きな被害を受けたところ。大島への橋ができて、行きやすくなっていることだろう。宿泊した駅前の七重旅館は津波が達したところらしく、今はその名前は地図にない。気仙沼駅はいまや鉄道としては終点になってしまった。

古い本 その25 古い昆虫図鑑

2020年09月19日 | 50年・60年

 ここからは、論文類ではなく一般書を記す。カテゴリーは本に応じて「50年前・60年前」・「化石」などいろいろ。紹介する本はまず、高校生までに読んで、影響を受けた本で、最初は昆虫図鑑。父の本で、小学生頃に譲り受けたもの。「東京博物學研究會編輯 集成昆虫圖鑑」というもので、発行は昭和6年(1931年)12月5日という古い本。

22-1 集成昆虫図鑑 内表紙

 父は教職に就いていたからそのためにずいぶん若い頃に買ったものだったろう。父が教職に就いたのは昭和7年3月であった。定価は3円!その横に赤いゴム印が捺してあって「特価2円50銭」としてある。私の所有している本で、金銭単位の「銭」が出てくるのはたぶんこれ一つだろう。発行所は修教社書院となっている。この会社は、戦前に物理関係の図書をたくさん出しているようだが、終戦頃からは発行の記録がない。著者は「東京博物學研究會編」となっている。横に代表者として村越三千男と記してある。村越三千男(1872−1948)は、植物学者で多くの植物図鑑を編集している。昆虫の図鑑は多分これ一つだが、ネットに出てくる昆虫図鑑と、発行社などに食い違いがあって、はっきりしない。本は縦17センチ、横9.5センチの縦長。本文が411ページもあって、厚さ2.4センチほど。各ページ上半に昆虫のスケッチがあって、下に種名・その漢字表記・大きさ・特徴・分布などが記してある。

22-2 集成昆虫図鑑 最初の図版

 目(もく)ごとに通し番号が振ってある。鱗翅目・蝶が215種類類類類、同・蛾が310種、膜翅目…と進んで、最後の弾尾目(トビムシ)の9種で終わる。ただし、この「種類」は、春型などを別番号にしているのもあって、生物学的種数より多い。その後に採集や標本作成などの記事が付いている。スケッチは美しく、ときどき幼虫などの図も加えられている。
 1931年の発行だから、分布に朝鮮とか支那・台湾・樺太などの地名も見える。種類についても現在の日本に産しないものがいくつか含まれている。写真22-2は、種の説明の最初の見開きで、キアゲハとアゲハチョウの図。残念なことに左の図がキアゲハなのだが「アゲハテフ」としていて、右が「キアゲハ」となっている。私の、または父の字で訂正してある。
 小学生頃に、見かけた昆虫の名をこの本で調べていたのだが、キャプションが難しいこともあって、なかなか利用が難しかった。蝶はともかく蛾の種類数が310というのでわかるように、全部を網羅するというのには程遠いものだったし、何と言っても昆虫の種類を知るのに図版がカラーでないというのは、小学生には致命的だった。
 後におなじみの「保育社の原色図鑑」が出版され、買ってもらった。初期に発行されたのは全24巻であった。

23-1 保育社の原色図鑑シリーズのリーフレット

 上の写真は、原色図鑑シリーズの宣伝リーフレットで、B6の大きさ。二つ折りでその最初のページを写したもので、蝶類図鑑にはさんであった。ここでは「全24巻」となっている。リーフの2から3ページに外箱の写真がモノクロでそろえてあって、次のものが見られる。1 原色日本蝶類図鑑. (以下では「原色」と「図鑑」を省略)2・3 日本昆虫(上下) 4日本貝類 5日本魚類 6日本鳥類 7日本哺乳類 8日本海岸動物 9・10花卉 11薔薇洋蘭 12日本高山植物 13岩石 14鉱石 15-17日本植物(上中下) 18日本海藻 19日本樹木 20熱帯魚 21・22 日本蛾類(上下) 23日本菌類 24日本羊歯植物。これらのうち、日本植物図鑑の中巻と下巻は写真がなく「近刊」「続刊」となっているから、この宣伝のときにはまだ発行されていなかったことになる。このリーフレットは、たぶん蝶類図鑑を買ってもらった1960年頃のものと思う。この図鑑シリーズは後にほとんどのものが改訂されたり、内容を増やして別の構成にしたりされている。
 私が「原色日本昆虫図鑑」を買ってもらったのがいつだったかわからない。しかし、中学二年の夏に蓼科の夏の合宿に行ったときにはすでに所有していたような記憶がある。このときには、初めて山のチョウを見たから記憶に残っている。とくにクジャクチョウとスジボソヤマキが印象的だった。もう一つ印象的だったのは、いつも見ているキアゲハが、クジャクチョウなどと一緒に飛んでいたこと。
 昆虫好きの友人たちと、保育社図鑑をもとにして日本産の蝶の種類を競って覚えた。今はもう忘れえしまったが。この版には、199種の蝶が掲載されている。前に記した集成昆虫図鑑では215種だったから、合計はそんなに変わらないが内容はずいぶん異なる。とくにアゲハチョウ科は「集成」で多く、現在日本でなくなったところに産する種(例えばアサクラアゲハ)を掲載していることや、クロアゲハの無尾型を「ヲナシクロアゲハ」として別型として数えていたりするため。

23-2 原色日本蝶類図鑑 函の裏表 

23-3 カバー(左)と表紙(右)

 「原色日本蝶類図鑑」は1954年保育社発行。私の持っているのは1960年8月発行の11刷である。私が蓼科に行ったのは1960年7月で、これより1か月早い。私の記憶違いだろうか? それとも11刷の発行日付に先行して書店に並んでいたのだろうか。著者は横山光男、江崎梯三校閲、定価は850円となっている。面白いのは、本に図書カードが挟んであること。つまり、図書館に置くことを強く意識していたことになる。

23-4 図書カード

 函の写真は、クジャクチョウとミヤマカラス、カバーはギフチョウ、表紙はヒオドシチョウ。なお、コムラサキに対してクロコムラサキは種より下位のforma扱い。キマダラヒカゲの二型はまだ認識されていない。もう一つ、Parnassius 属の和名は「ウスバシロチョウ」・「ウスバキチョウ」がつかわれている。この類はアゲハチョウ科に属することが古くから認識されているが、「シロチョウではない」という理由で、現在「ウスバアゲハ」という名前を用いる場合がある。分類上の位置を名前に反映させるのは望ましいとはいうものの、すでに命名されているのを変えるのはいかがなものか。(専門分野が違うので、この部分の意見に異論があるかもしれない。)
 横山光男については、経歴などが記されていない。本書にA6ぐらいの印刷物が挟んであって、著者が「教育家でも専門学徒でもなき、趣味の本道にひたすら専念する一介の野人」であるとしている。その文末に「1898年9月9日生まれ」と記されている。校閲者の江崎梯三(1899−1957)は九州帝国大学・九州大学の教授を務めた。九州大学農学部が発行していた(2014年休刊)昆虫学研究紀要「ESAKIA」は江崎梯三博士にちなむ。

オオミノガ再び(臨時投稿)

2020年09月16日 | 今日このごろ
 2019年3月1日の当ブログで、オオミノガを見つけたことを記した。その個体は博物館に持参したが、春に羽化してオスが出てきたということである。記録を博物館の友の会誌に掲載した。興味ある方は探してください。
 今回その近くでまた見かけた。前回のところから250メートルほど西北に離れている。旋回は冬だった(2019.2.16)が、今度は初秋だから活発に葉を食べていた。樹はシャリンバイ(だと思う)。

オオミノガ幼虫 2020.9.12 志徳公団

 オオミノガと判定した理由は、サイズが大きいことと、蓑の表面に小枝がなくて大きな枯葉を使っていること。近くの樹にはたくさん(少なくとも30個体)以上のチャミノガが見られた。サイズも外形も全く異なる。チャミノガは主にキンモクセイに付いていた。珍しくないが、比較のため写真を掲載する。

チャミノガ 2020.9.7 志徳公団

 今回は採集しないで様子を見ることにした。採集すれば絶滅に加担することになるから。