OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

近況

2016年10月31日 | 今日このごろ
近況
 以前何度かこのブログで報告したように、大腸癌とそこから転移した肝臓の癌を4月に取り除き、抗がん剤治療を継続している。12回の計画で、先日10回目を終ったので、出口が見え出したところ。今私の体に肉眼サイズの癌はない。あと2回の抗がん剤治療が待っていて、12月前半で終わりそう。年末のCT検査で異常がなければ、3カ月毎の検査に移行するのだろう。次回は血小板数などの数値が下りそうなので治療が二週間遅れる事が予想される。今のところ副作用は少ない方のようだ。味覚障害(おいしくないものが多い)・胃腸の不調・手足のしびれ・頭の脱毛(今回は以前より抜けなくなった)などが見られるが、生活にはほとんど支障がない。皆様にご心配をおかけしている。お見舞いのメールやコメントに感謝する。

抗がん剤の点滴用具

 48時間にわたって非常にゆっくりと点滴するので、携帯できる容器を用いる。風船のような仕組みになっている。ポケットに入るので、点滴中も行動がしやすいから、昼間は帰宅もできる。

父の遺した写真 20 滋賀県

2016年10月28日 | 鉄道
父の遺した写真 20 滋賀県

 今回は滋賀県の車窓風景。

20-1 伊吹山 1958.8.27

 名古屋から東海道本線を下ると、伊吹山で気候の違いを感じる。冬は雪景色がここだけで見られることも多い。伊吹山も金生山と同じように石灰岩の採掘が続いているが、山体が大きいだけに、地形の変化は気づかないほどである。

20-2 醒ケ井養鱒場 1961.11.21

 当時有名な観光地の一つだった。鉄道から見えるわけではなく、醒ケ井駅からバスで10分ほどのところにある。現在も営業している。

20-3 安土城からの展望 1960.11.6

 安土城は東海道本線から見上げる丘の上にある。信長の時代には周りをほとんど水面で囲まれていたが、現在は水田のある平地の中にある丘である。

20-4 瀬田唐橋 1958.11.15

 瀬田唐橋は、琵琶湖から流れ出る瀬田川にかかっている。東海道本線はこのあたりで最も上流側にかかる橋を渡るが、その200m ほど下流に国道1号線の橋があり、さらに500m ほど下流に唐橋がかかっている。この写真当時は木造だったが1979年にコンクリート造りに架け替えられた。

 このシリーズ第20回までに示した写真の撮影地点を掲載しておく。近い点は省略した。

20-map 1-20までの写真の撮影地点

 写真の転載はご遠慮いただきたい。


京都大学グリークラブ創立 1 創立前

2016年10月27日 | 50年・60年
京都大学グリークラブ創立 1

 京都大学グリークラブ(以下グリー)は、創立50年の合唱団である。昨年(2015年)4月25日に盛大に「グリー創立50周年の事業が行われたが、これは1年半以上の大幅なフライイングであった。実際にいつ創立されたのかは、ちょっと記録があやしい。京大合唱団(混声)内での議論がもとで、脱退した団員を中心として11月終り頃には活動を始めたのだろう。議論の中心はおもてむき「京大学歌」を演奏会で歌うべきかという問題だったが、政治的団体の合唱団への侵入をきらった面も強く、合唱そのものを楽しみたいというメンバーがグリーを作った。その動きとして、記録のある最初の楽譜は、1966年9月4日付のもので、「男声グループのために」と 記入されたガリ版刷りのものである。

1966年9月4日発行の楽譜

同上 折り目の書き込み

 このピースは16頁あって5曲の四部合唱曲が収められている。The mermaid, As Off to the South’ard We Go, A-Roving, Swansea Town, Haul Away, Joe。発行元に関しては、楽譜の折り目余白に「‘66. 9. 4. 男声グループのために T. H.」(H.は楽譜には完記。)と書いてある。実は1曲(Haul Away, Joe)を除いてこれらを歌った記憶がない。当然この頃は京大合唱団の中で配布されたもので、「グリー」の名は出てこない。
 次いで1966年10月27日付けの楽譜がある。

ちょうど50年前に発行された楽譜

同上 京都大学学歌の部分 左上の書き込みは、初期の上演日付。

 表題は「Choral Piece No. 1 (for Male Chorus)となっていて、内容は、「京都大学学歌」と「琵琶湖周航のうたによる3つの変奏曲」の2曲であり、先の議論と関連した発行物であろう。さらに奥付には「京都大学男声合唱擁護協会」とあって、かなり気の入ったもので、脱退への気持が出ているように見える。特に学歌を示したことで、演奏会でこれを歌うことを可能にした意義は大きい。これら二つの楽譜には、編曲やガリ切りなど発行に携わった人物の名があるが、いずれも後のグリーの中心人物である。
 今日このブログを記したのは、この発行日からちょうど50年目にあたるから。いずれにしても50年前にはまだグリーは発足していない。


1993年のニュージーランド研究旅行 その20 アワホコモ

2016年10月25日 | 昔の旅行
1993年のニュージーランド研究旅行 その20 アワホコモ
Research trip to NZ, 1993: No. 20 Awahokomo

 クロウから少しワイタキ川をさかのぼると、二つの人工湖がある。その内の下流側のワイタキ湖の右岸にアワホコモ(Awahokomo)という所がある。一か所だけ第三紀層が露出しているのが目を引く。

20-1 アワホコモの露頭 1993.2.6
Outcrop at Awahokomo

 登って行くと、ワイタキ湖が遠望され、景色が良い。いくつかの露頭があるから、トレーラーを外した車で見て回る。

20-2 アワホコモ 1993.2.6

20-3 沢を渡る車 1993.2.6

20-4 車で移動 1993.2.6
Awahokomo

 ところどころで、尖塔に登って化石を探す。私もここで鯨の化石が出ているのを見つけた。この時には採集する時間がなかったが、後で採るとのこと。新種だったら私の名を付けてくれるのだそうだ。

20-5 化石を探す 1993.2.6
Fossil hunting at Awahokomo



父の遺した写真 19 岐阜県

2016年10月22日 | 鉄道
父の遺した写真 19 岐阜県

 岐阜県の車窓風景の写真を紹介する。

19-1 岐阜の傘 岐阜市加納 日時不明

 岐阜市加納では傘(和傘)が名産品で、民家の庭先に干してあるのを見かけた。1955年頃までは多くの業者があったというが、現在は数件だけが残っている。

19-2 大垣市金生山 1958.8.27

 大垣市赤坂の金生山はペルム紀化石の有名な産地である。石灰岩でできた金生山は、採掘とともに年々小さくなって、この写真と現在とは全く違った外観となってしまった。

19-3 近年の金生山 新幹線から 2012.12.15撮影

 すでに昔の稜線はなく、悲しい限り。現生陸貝が天然記念物になっていたはずだが、保護は行われているのだろうか?化石の方も、風化の及んでいない岩層に採掘が進んだせいか、すばらしいものにお目にかかれなくなっている。
 写真19-1に戻って。その撮影日時から考えると、おそらく夏休みの自由研究のために小学校6年の私を連れていった時のものだろう。その時は、近鉄養老線の沿線で、断層地形や扇状地、輪中などの見学をして最後に大垣市の湧き水などを見たと思う。その前年1957年に同じように父に連れられて化石採集に金生山に行った記憶がある。この5年生の時の金生山が、私の初めての化石採集。二度目が中学1年生の時の瑞浪である。1957年に採集した化石の内の一個は現在も保管している。ただ、父の写真には1957年の金生山の写真はなく、代りに1956年に金生山山上から撮った写真がある。

19-4 金生山山上から見た美濃赤坂駅 1956.8.21

 記録と記憶のいずれかがまちがっているのかもしれない。金生山神社まで登った山上はツクツクボウシがやかましいほど鳴いていたから、8月21日ではなかろう。美濃赤坂までは国鉄を利用した。ディーゼルカーの音の記憶がある。通称美濃赤坂線(東海道本線の一部)の電化は1958年。石灰石の輸送に活躍した線であった。
 写真の転載はご遠慮いただきたい。