AKCヴォーカライズの復刻 61-70号
音楽部バッジ
愛知県立旭丘高等学校音楽部同窓会紙「Vocalize」(ヴォーカライズ)を復刻していくプロジェクトを進めています。今回はその第四回で、同紙の61号から70号までの復刻について記します。
今回の部分は、1962年4月から1663年3月に発行されたものです。復刻を行った私は17期ですから、中学校3年から旭丘高校一年の頃ということになります。
今回の復刻分はN先輩のファイルから行いました。
今回復刻した各号について。
61号 1962年4月2日 16ページ 会員の随筆6編・旭丘高校文化祭(1961.10)報告(随筆集は、以前「アカペラ」という題で別編集だったもの。文化祭の主役は15期生で、オペレッタの上演を行なった。)
62号 1962年4月20日 20ページ 浜名湖の旅(1962.3)報告記・15期生の修学旅行記(ヴォーカライズでは、一年に二度くらい宿泊旅行を企画した他、日帰りのハイキングもたびたび行なったが、参加人数は意外に少なかった。)
63号 1962年5月10日 14ページ 都築先生の異動(長く指導してこられた都築先生が明和高校に異動され、後任として森下先生が着任された。)
64号 1962年6月10日 12ページ 37(1962)年度役員選挙結果報告(六期にわたって会長を務めた浅井先輩に代わって、Mさんが会長に就任した)
65号 欠号 Vocalize初の欠号
66号 1962年11月1日 12ページ 「十年後の会」の開催(五,六期生の「十年後に会おう」という言葉を実現した集まりが盛大に開催された。)
67号 1962年12月1日 16ページ 旭丘高校文化祭(1962.10)報告・同座談会(この年の文化祭の主役は16期生。私も一年生として出演したはず。浅井先輩が副会長として復帰している。)
68号 1962年12月25日 8ページ クリスマスのつどい(1962.12)報告(AKC恒例のクリスマス会は、卒業生と在校生の数少ない交流の場。私も一年生だったが、参加者の名簿に無い。68号の発行はつどいのわずか2日後。)
69号 1963年1月25日 20ページ ヴォーカライズ昭和37(1962)年の大きなニュース
70号 1963年3月17日 20ページ 15期生におくることば(卒業生一人一人に先輩Sさん(12期)が送る言葉を記している。3期も上の卒業生が在校生をみんな知っているということは、現在ではちょっと考えられない。)
次回は9月19日に、51号~60号の復元をお知らせする予定です。その後も、一月ごとに十号をさかのぼって復元していくつもりです。全部できれば、約1000ページ、100万字ぐらいです。現在82%ぐらい(ページ数比)・84万字まで進んでいます。最近の頁当たり字数から推定した残り字数は約17万字です。
この復刻版ヴォーカライズのデジタルファイルは、同窓会のホームページからダウンロードできます。「カラスの広場」HPの中に同窓会HPが入っていますが、 ID、パスワードが必要です。
または、この下にあるコメント欄に記して、ご請求下さい。当方からも関係する方々にお送りすることができます。関係者とは、旭丘高校音楽部・およびその同窓会に入っている(または入っていた)方、そのご家族などです。「など」としましたが、なるべく多くの方に読んで頂きたいと思っています。
「ヴォーカライズ」に登場する鉄道 その2
旭丘高校音楽部同窓会紙「ヴォーカライズ」の復刻についてのお知らせをしていますが、同紙の内容は同窓会ホームページからダウンロードして頂くとして、ここでは、同紙に現われた当時の鉄道に関わる記事について、いくつか記しておくことにします。
私の一期後輩のN君の修学旅行記がNo.81の7ページにある。1965年3月の中国・四国旅行の紀行文である。
「行きの十二時間程、夜行に揺られて小郡まで行った。」
現在新幹線を使って名古屋から小郡(現・新山口)まで行くとすると、例えば8時52分発の「のぞみ9号」が11時38分につくから、3時間を切る。夜行列車は停車時間が長いとしても、大きな違い。この区間には、現在夜行列車がない。途中まで電車寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」があるが、上り、下りとも名古屋は停車しない。昼行の優等列車はないから、普通列車で10時00分に名古屋を出ると、大垣(1032/1042 着時間/乗継列車の発時間、以下も同じ)、米原(1117/1120)、姫路(1346/1404)、相生(1423/1426)、三原(1711/1719)、岩国(1925/2005)、と乗り継いで、新山口に22時02分に着く。12時間02分かかることになる。奇しくも、当時の夜行(急行列車)と同じ時間がかかる。暇と健康のある方は、トランプでもしながら乗り通してみては?
旭丘高校の修学旅行は、秋芳洞・広島・屋島・琴平・鷲羽山・小豆島あたりのうちのいくつかを組み合わせて行った。三泊四日が基準で、うち一泊は夜行列車の車内泊。私の修学旅行のときに、どの列車に乗ったか記憶・記録が無いが、同窓生にそのときの小冊子を保管している人がいるそうなので機会を見つけて聞きたい。二期後の19期の修学旅行(1966年3月)の行き(下り)の夜行に私が同乗した記録があって、その列車名は「せと」と写真に書いてある。たぶん正しくは漢字の「瀬戸」で、瀬戸一号なら名古屋を深夜三時前に出て、朝宇野につく。修学旅行の行動時刻としてはちょっと変で、何か違っているのかもしれない。17期の旅行(1964年)帰途は、急行さつまを使って朝9時に小郡を出て、夜の9時に名古屋に着くから、夜行でない急行でも12時間車中にいることになる。旭丘ではトランプが流行していて、居眠り以外はほとんどナポレオンをしてすごした。
写真は、夜行急行「瀬戸」で、19期生とトランプをする私。眼に線を入れたら「少年A」みたいになってしまった。1966年3月9日。
「宇野から宇高連絡船にのって高松へ行き、…」
修学旅行コースには四国の屋島や栗林公園、年によっては琴平が含まれたから、宇高連絡船や他の船便を必ず利用した。ずっと後、1988年4月10日に、瀬戸大橋線が開通し、その前日、最後の宇高連絡船が運航された。同年3月に青函連絡船もトンネルに道をゆずったから、1988年は日本の線路が全国につながった年である。なお、国鉄の分割は1987年なので、宇高連絡船は一年間だけJR四国の運営だった。
宇高連絡船の廃止後、約二年間は高速艇が宇野・高松間を往復していたが、それも廃止された。ちなみに、私は宇高連絡船、同高速艇、瀬戸大橋線のいずれも利用したことがあるが、高速艇を利用した時は家族で乗った。ずっと乗客数の少なかった同船だったが、このときの乗客は、私の家族だけだった。