OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

USA行きを見送りました

2013年08月29日 | 今日このごろ
USA行きを見送りました

外出の帰り、小倉駅で見た風景。今日はこれだけの話。


8月21日撮影 小倉駅一階(ホーム階下)コンコース

次の二番線電車は17時35分発USA行き7両編成。ホームにあがると、その電車が発車を待っていた。


8月21日撮影 小倉駅二番線

もちろん電車はアメリカへ行けそうにはなく、日豊本線宇佐(うさ)行の電車。現在の時刻表では宇佐行は三本あるが、朝早くと夜九時すぎの撮影しにくいのを除くと、この夕方のしかない。だから、機会をねらっていた。
 ちなみに、小倉駅から日田彦山線列車に乗って田川伊田駅で乗りかえれば「かなだ」に行くことができる。「かなだ」は、平成筑豊鉄道金田駅。また、小倉駅の前にあるバスターミナルから、西鉄バスで「かなだ経由」というのがたくさんある。「かなだ」は、小倉北区金田バス停。どちらもローマ字にするとKで始まるのが惜しい。

このところ猛暑で引きこもっていた。暑さも峠をこえたので、そろそろ外に出なければ。
そうすれば「シリーズもの」ばかりではなく、「最近のできごと」を記す機会も増えるだろう。

私の化石組標本(その10)

2013年08月25日 | 鉱物・化石組標本
私の化石組標本(その10)
My set of fossil specimens, part 10

古生代の五回目。


29 標本21-24  scale: 5cm
Specimen 21-24: Fenestella, Yatsengia, Yabeina, Parafusulina

標本21 フェネステラ 宮城県寺沢 ペルム紀 外肛動物(こけむし類)
フェネステラの話は、標本11の長安寺のもので述べた。明らかに種類が違っていて、多分別属だろう。
 寺沢は米谷の近くの小川で、ペルム紀の化石を多産する。種類は上八瀬と重複する。1967年7月27日に一度だけ訪れた。北上川東岸にある米谷の町から南へ1.5kmのところにある。米谷付近には、寺沢の他ペルム紀石灰岩の化石が見られる楼台やペルム紀植物化石の産地もあって興味深い。

標本22 ヤッツェンギア 宮城県岩井崎 ペルム紀 腔腸動物
岩井崎は、ペルム紀の石灰岩の海岸で、波食台に穿たれた穴に波が打ち寄せて高く吹き上がる「潮吹き岩」で有名。気仙沼湾の入り口にある。1965年7月22日に気仙沼線の陸前階上駅から歩いて見学に行った。標本はそこのサンゴ化石。写真ではよく見えないので、拡大写真を示す。


30 ヤッツェンギア 宮城県岩井崎産

31 岩井崎の潮吹き岩 1965年7月撮影

Yatsengiaは、1932年にHuang =中国、生年他不明 = がWaagenophyllum属の亜属として命名。Yatsengという人名に由来するのだろう。中国にChao Yatsengという研究者がいて、1929年に若くして亡くなっているのでこの人に献名されたのだろう。漢字表記は趙亞曾。だから、「亚曾珊瑚」で検索すれば、中国の文献も見える(読めないが)。

標本23 ヤベイナ 岐阜県金生山 ペルム紀 原生動物
金生山は、私が初めて化石採集にいったところ。だから、金生山のものを入れよう。金生山はフズリナの研究の歴史が長い。中でも代表的なのがこのヤベイナ。拡大して画像処理をおこなった写真を示す。


32 ヤベイナ

Yabeinaの名は、東北大学の矢部久克先生の名をとったもの。1914年にDeprat = Jacques Deprat (1880-1935) 、フランス = が命名。来年は命名100年になる。


標本24  パラフズリナ Parafusulina 岐阜県丹生川 ペルム紀 原生動物
1975年に、国道158号線の改良工事がおこなわれて、丹生川村(現・高山市丹生川町)日面付近のカッティングに珪化したフズリナが見られた。


33 丹生川のフズリナ産出地1975年か1976年に撮影

34 フズリナの産出状況 1975年か1976年に撮影

個体が分離しているものや、石灰分のぬけた状態の固まったものなどが無数にころがっていた。なにしろ道路際なので、採集に努力がいるわけでもなく、いくらでもとれたが、数年でまったく見られなくなった。
 Parafusulinaは1931年Dumber & Skinner の命名。Dumber = Carl Owen Dunbar(1891-1979)とSkinner = Morris F. Skinner (1906-1989) はともにアメリカの人。フズリナの頭に「横の」とか「副」といった意味の接頭語 para-をつけたもの。Fususはラテン語で糸つむぎのスピンドルのこと。

今回もすべて自分で採集した標本。
採集した標本について
標本21 寺沢
 宮城県登米市東和町米谷寺沢
標本22 岩井崎
 宮城県気仙沼市波路上岩井崎
標本23 金生山
 岐阜県大垣市赤坂町金生山
標本24 丹生川
 岐阜県高山市丹生川町日面

今回で古生代が終了。自分で採集した標本は、15件。属名が不明なのが3件あるので、残り21属(Fenestella重複)だが、勉強が足りないので包括的な属名を使ったから、命名の古い属名が多い。一番古いのは1816年のFavosites属。出てきた属の命名年の平均値は1874.5、明治7年。そのため、命名者にはラマルクを初め有名人が多く、その業績を記すとさらに長くなりそうなのでやめた。日本人はまだ出ていない。
古生代の全体はこんな感じ。


35 古生代の段


最後の蒸気機関車たち その61 1972年9月

2013年08月21日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その61 1972年9月
The last steam locomotives in Japan. No. 61 (Sep. 1972)


大夕張鉄道から離れて、次に撮影したのは夕張鉄道。まず28号機が写っている。場所の記録が無いが、おそらく地形から鹿ノ谷駅だろう。(後で若菜駅に訂正)


319N 夕張鉄道鹿ノ谷駅(若菜駅) 1972.9.2 28
319-322: Yubari line (private) †, Shikanotani Station, Hokkaido.


320N 夕張鉄道鹿ノ谷駅(若菜駅) 1972.9.2 28

28号機は9600型を夕張鉄道で改造したもの。次に出てくる26号機も同じである。


321N 夕張鉄道鹿ノ谷駅(若菜駅) 1972.9.2 26


322N 夕張鉄道鹿ノ谷駅(若菜駅) 1972.9.2 28


323N 夕張線清水沢・鹿ノ谷間 1972.9.2 D51-241 5794単行
Yubari line, between Shimizusawa and Shikanotani Stations, Hokkaido

D51-241は、1976年3月に最後のものの一つとして廃車されたが、保存される直前に火災に遭い、動輪だけが二ヶ所(安平町:追分駅の近く:と旭川市)に保存されている。


324 夕張鉄道 継立付近? 1972.9.2 26?
Yubari line (private) †, near Tsugitate Station†, Hokkaido.

札幌に帰ったのだが、バスを利用したようだ。この写真の手前がぶれているので、動くバスから撮影したものだろう。1978年の弘済会道内時刻表で調べると、鹿ノ谷駅前から札幌ターミナルに行く中央バスがあるので、これを利用したのだろうか。鹿ノ谷から継立・由仁駅前・中央長沼経由となっているので、継立あたりでこんな写真が撮れそう。

登場蒸機 9600(写真319~322・324)D51(写真323)

2020.6.17 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

AKCヴォーカライズの復刻 61-70号

2013年08月19日 | 今日このごろ
AKCヴォーカライズの復刻 61-70号


音楽部バッジ

愛知県立旭丘高等学校音楽部同窓会紙「Vocalize」(ヴォーカライズ)を復刻していくプロジェクトを進めています。今回はその第四回で、同紙の61号から70号までの復刻について記します。
 今回の部分は、1962年4月から1663年3月に発行されたものです。復刻を行った私は17期ですから、中学校3年から旭丘高校一年の頃ということになります。
今回の復刻分はN先輩のファイルから行いました。


今回復刻した各号について。


61号 1962年4月2日 16ページ 会員の随筆6編・旭丘高校文化祭(1961.10)報告(随筆集は、以前「アカペラ」という題で別編集だったもの。文化祭の主役は15期生で、オペレッタの上演を行なった。)
62号 1962年4月20日 20ページ 浜名湖の旅(1962.3)報告記・15期生の修学旅行記(ヴォーカライズでは、一年に二度くらい宿泊旅行を企画した他、日帰りのハイキングもたびたび行なったが、参加人数は意外に少なかった。)
63号 1962年5月10日 14ページ 都築先生の異動(長く指導してこられた都築先生が明和高校に異動され、後任として森下先生が着任された。)
64号 1962年6月10日 12ページ 37(1962)年度役員選挙結果報告(六期にわたって会長を務めた浅井先輩に代わって、Mさんが会長に就任した)
65号 欠号 Vocalize初の欠号
66号 1962年11月1日 12ページ 「十年後の会」の開催(五,六期生の「十年後に会おう」という言葉を実現した集まりが盛大に開催された。)
67号 1962年12月1日 16ページ 旭丘高校文化祭(1962.10)報告・同座談会(この年の文化祭の主役は16期生。私も一年生として出演したはず。浅井先輩が副会長として復帰している。)
68号 1962年12月25日 8ページ クリスマスのつどい(1962.12)報告(AKC恒例のクリスマス会は、卒業生と在校生の数少ない交流の場。私も一年生だったが、参加者の名簿に無い。68号の発行はつどいのわずか2日後。)
69号 1963年1月25日 20ページ ヴォーカライズ昭和37(1962)年の大きなニュース
70号 1963年3月17日 20ページ 15期生におくることば(卒業生一人一人に先輩Sさん(12期)が送る言葉を記している。3期も上の卒業生が在校生をみんな知っているということは、現在ではちょっと考えられない。)

次回は9月19日に、51号~60号の復元をお知らせする予定です。その後も、一月ごとに十号をさかのぼって復元していくつもりです。全部できれば、約1000ページ、100万字ぐらいです。現在82%ぐらい(ページ数比)・84万字まで進んでいます。最近の頁当たり字数から推定した残り字数は約17万字です。
この復刻版ヴォーカライズのデジタルファイルは、同窓会のホームページからダウンロードできます。「カラスの広場」HPの中に同窓会HPが入っていますが、 ID、パスワードが必要です。
または、この下にあるコメント欄に記して、ご請求下さい。当方からも関係する方々にお送りすることができます。関係者とは、旭丘高校音楽部・およびその同窓会に入っている(または入っていた)方、そのご家族などです。「など」としましたが、なるべく多くの方に読んで頂きたいと思っています。



「ヴォーカライズ」に登場する鉄道 その2

旭丘高校音楽部同窓会紙「ヴォーカライズ」の復刻についてのお知らせをしていますが、同紙の内容は同窓会ホームページからダウンロードして頂くとして、ここでは、同紙に現われた当時の鉄道に関わる記事について、いくつか記しておくことにします。

私の一期後輩のN君の修学旅行記がNo.81の7ページにある。1965年3月の中国・四国旅行の紀行文である。
「行きの十二時間程、夜行に揺られて小郡まで行った。」
現在新幹線を使って名古屋から小郡(現・新山口)まで行くとすると、例えば8時52分発の「のぞみ9号」が11時38分につくから、3時間を切る。夜行列車は停車時間が長いとしても、大きな違い。この区間には、現在夜行列車がない。途中まで電車寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」があるが、上り、下りとも名古屋は停車しない。昼行の優等列車はないから、普通列車で10時00分に名古屋を出ると、大垣(1032/1042 着時間/乗継列車の発時間、以下も同じ)、米原(1117/1120)、姫路(1346/1404)、相生(1423/1426)、三原(1711/1719)、岩国(1925/2005)、と乗り継いで、新山口に22時02分に着く。12時間02分かかることになる。奇しくも、当時の夜行(急行列車)と同じ時間がかかる。暇と健康のある方は、トランプでもしながら乗り通してみては?
旭丘高校の修学旅行は、秋芳洞・広島・屋島・琴平・鷲羽山・小豆島あたりのうちのいくつかを組み合わせて行った。三泊四日が基準で、うち一泊は夜行列車の車内泊。私の修学旅行のときに、どの列車に乗ったか記憶・記録が無いが、同窓生にそのときの小冊子を保管している人がいるそうなので機会を見つけて聞きたい。二期後の19期の修学旅行(1966年3月)の行き(下り)の夜行に私が同乗した記録があって、その列車名は「せと」と写真に書いてある。たぶん正しくは漢字の「瀬戸」で、瀬戸一号なら名古屋を深夜三時前に出て、朝宇野につく。修学旅行の行動時刻としてはちょっと変で、何か違っているのかもしれない。17期の旅行(1964年)帰途は、急行さつまを使って朝9時に小郡を出て、夜の9時に名古屋に着くから、夜行でない急行でも12時間車中にいることになる。旭丘ではトランプが流行していて、居眠り以外はほとんどナポレオンをしてすごした。


写真は、夜行急行「瀬戸」で、19期生とトランプをする私。眼に線を入れたら「少年A」みたいになってしまった。1966年3月9日。

「宇野から宇高連絡船にのって高松へ行き、…」
 修学旅行コースには四国の屋島や栗林公園、年によっては琴平が含まれたから、宇高連絡船や他の船便を必ず利用した。ずっと後、1988年4月10日に、瀬戸大橋線が開通し、その前日、最後の宇高連絡船が運航された。同年3月に青函連絡船もトンネルに道をゆずったから、1988年は日本の線路が全国につながった年である。なお、国鉄の分割は1987年なので、宇高連絡船は一年間だけJR四国の運営だった。
 宇高連絡船の廃止後、約二年間は高速艇が宇野・高松間を往復していたが、それも廃止された。ちなみに、私は宇高連絡船、同高速艇、瀬戸大橋線のいずれも利用したことがあるが、高速艇を利用した時は家族で乗った。ずっと乗客数の少なかった同船だったが、このときの乗客は、私の家族だけだった。

私の化石組標本(その9)

2013年08月17日 | 鉱物・化石組標本
私の化石組標本(その9)
My set of fossil specimens, part 9

古生代の五回目。


27 標本17-20  scale: 5cm
Specimen 17-20: Pleuronectites, brachiopods, Leptodus, Derbya

標本17 プレウロネクティテス 宮城県上八瀬 ペルム紀 軟体動物・二枚貝類
表面の彫刻が特徴的な二枚貝で、古いタイプのペクテン類。
 気仙沼市の上八瀬には1965年と1967年の二回行った。前日に気仙沼の営林署許可を得て、「たき火禁止」などの注意をもらい、バスで訪れた。このバス路線は現在もあって、終点バス停の名が「上八瀬」である。1965年に訪れた時には、おめあての三葉虫になかなか恵まれず、同行者の協力をいただいて、やっと採集できた。二度目はちょうど樹木を伐採した後で、明るく開けた「茂路沢」で採集を行なった。たくさんの三葉虫を採集できたが、すべて尾部ばかり。当時は頭部の形さえよく知らなかったからしかたがない。標本17から20までは同じ上八瀬で採集したもの。


28 明るい茂路沢。人物は私。1967年8月

 Pleuronectitesの命名は、Schlotheim = Ernst Friedrich Baron von Schlotheim (1784-1832)、ドイツ = によって1820年にされた。ところで、よく似た名前のPleuronectesは、魚類のツノガレイ属で、1758年にLinnaeusが命名しているから、語尾変化させたのかな(Schlotheim が1820年に名づけたのはPleuronectis(-tes) だったのかもしれない。)。Pleuro- は側方の、という意味だが、-nectes はわからなかった。

標本18 腕足類 宮城県上八瀬 ペルム紀 腕足動物・有関節類
腕足類は、上八瀬で最も多く採集されるもの。ただ、この標本のように特徴がはっきりしないと、種類は決め難い。

標本19 レプトダス 宮城県上八瀬 ペルム紀 腕足動物・有関節類
上八瀬の腕足類でも目立つ種類。殻の内部の肋骨状の構造がこんな珍しい形になって残る。上八瀬の化石は、凝灰岩質の泥岩で、石灰分が溶けているものが多いから、雌型が残っていることになり、直感的にはわかりにくいことがある。
 Leptodusの命名は1882年Kayser = Emanuel Kayser (1845-1927) 、ドイツ = による。当初魚類化石と考えられたらしいが、どう見たら魚類にみえるのだろうか。貝類食の魚類のクラッシュする平たい歯と考えたのだろうか。Leptoは劣るとか少ないとか低いといった意味、dusは歯かな? ところで、1883年にWaagenはペルム紀腕足類にLyttoniaという属名を与えた(Lyttonは人名)。が、もちろん先に命名されているLeptodusが有効名。
 ところで、1900年頃に中国の地理・地質学的研究を行なったドイツのRichthofenは「絹の道」という言葉を初めて用いたとされる。(だから絹の道の原語は、シルクロードではなく、ドイツ語のザイデンシュトラーセンがいいのかな)中国に「Lyttonia」を産することを、大著「China」(ドイツ語だから「ヒーナ」と発音するのが良いのだろうか、それとも「シナ」かな、暴走老人みたいだ。)の第5巻(1911)に記したが、その折に日本にも「Lyttonia」を産することを記した。それは、1900年に矢部久克が地質学雑誌に「陸前からの「Lyttonia」産出」(英文)を記したのを引用したのだろう。
 ところが驚いた事に、1882年Kayserの論文には種名としてLeptodus Richthofeni が出てくるらしい。Richthofenの中国研究はそれより前から行なわれてきたから、彼に献名して名づけたのはわかる。Richthofenも自分に献名された種類を「China」に記して印刷公表した。しかし、属名は変えたのだ。Leptodusを魚類と考えていたことが、影響したのだろうか。このあたり、「だろう」とか「らしい」を連発した。原文を見たわけでないので、推測が多く含まれている。正確さは保証しない。
 長くなってしまったが、現在の上八瀬の種類はLeptodus richthofeni とされる。いろいろあって、結局古い名前にもどったわけ。人名由来の種小名頭が大文字から小文字になっただけのちがい。

標本20  Derbya? 宮城県上八瀬 ペルム紀 腕足動物・有関節類
腕足類は数多く産するが、勉強していないので、属名はかなりあやしい。ここでは何も記さないことにする。Derbyaは1884年Waagen = Wilhelm Heinrich Waagen (1841-1900)、ドイツ = の命名。

採集した標本について
標本17-20 上八瀬の化石
 宮城県気仙沼市上八瀬

訂正:「その7」のFenestellaの綴りが違っているところがある。おわびして訂正する。