OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

庭の針葉樹

2020年11月28日 | 今日このごろ

 2000年に今のところに住み始めた。西側に3本の針葉樹を植えたのだが、陽当たりが良いせいかよく育っていた。2015年8月の台風で中央の一番細い樹が傾いた。以前から根の張りが悪かったらしい。なお、ここの地質は表面の薄い土壌の下に数メートルのかなり締まった段丘堆積物、その下に多分関門層群の硬岩。

2015年の台風で傾いた針葉樹(中央)2015.8.27

 写真の中央の樹が傾いたもの。その右の樹はこの時すでに樹形が悪くなっていたので先端を切り取った後の姿。

傾いた樹を伐採 2015.8.27

 中央の樹は幹が2本で細かったので傾いたのをきっかけに伐採した。その後、2016年に造園業者さんに依頼して大きな樹を伐採した。根元の直径が30センチほどの大きな樹であったが、業者さんにとっては簡単な作業であった。

運ばれていく樹 2016.6.4

 最後に残った樹は、樹形がどんどん悪くなっていった。

樹形の悪い樹 2019.6.14

 写真のように、幹の右側だけに葉が茂って、左側には一本だけの枝しか残っていなかった。カミキリムシでも入ったのかなと思っていたが、あまりにひどいので、今年11月にとうとう伐採した.

伐採した切り株 2020.11.15

切断面 2020.11.15

 ご覧のように、直径は15から20センチ。断面に腐った部分がたくさん見られる。形から考えてカミキリムシではなく、菌類の侵入のようだ。二週間ほど乾燥したのちに割ってみた。

鉈で割る 2020.11.15

断面 2020.11.15

 やはりカミキリムシのような穴はなく、腐ったところも木目の痕跡が残っている。表皮から少し入ったところに途切れたところのある同心円状に傷みが見られる。そのために限られたところにしか枝が残らなかったのだろうか。丸太は意外に軽いものだから、家庭ゴミとして収集に出した。切り株の方は、大汗をかいて地表から10センチ弱ほど下で切断した。根を取るのはあきらめた。
 これで我が家の針葉樹の立ち木は全部なくなった。鉢植えの数十センチのものが2鉢あるだけ。数年かけて他の広葉樹も私の届く高さに短くしたから、手入れの時に脚立がいらなくなった。高齢者は庭の手入れで脚立から落ちることが多いから、自衛のためである。

東京ミネラルショー

2020年11月25日 | 化石

 第29回東京ミネラルショーの開催通知が来た。このブログでは「池袋ショー」と略記して、参加した記録を掲載している。案内状によると今年の池袋ショーは、12月11日から14日まで(10日内覧会)開催されるのだが、CVD-19のために海外の業者の皆さんの参加ができず、国内の30社以上の参加にとどまるという。写真は、上が案内状封筒(持参すれば内覧会も見られる)、他に絵葉書や招待券が写っている。

池袋ショー案内状

 私は、すでに10月初旬頃には参加しないと決めていたが、その後東京の感染状況は悪化する一方で、10日頃には第三波のピークになる可能性がある。基礎疾患のある老人が行くところではない。
 東京で行われる大きなショーは、12月に開催されるこの「池袋ショー」と6月の「新宿ショー」がある。新宿ショーの方が長い歴史があり、開催ナンバーから逆算すると1988年からであろうか。ずいぶん参加したはずだが記録が不完全で、6回ぐらいしか参加日時の記録がない。池袋ショーは1992年ぐらいからの開催で記録のある最初の参加は2001年。2010年頃までは両方に行っていたが、この10年間は池袋だけに行っている。2010年から2019年までの10回のうち2011年と2016年の2回だけ欠席だから出席率は8割。2011年はなんとなく忙しく、2016年はガン治療の最終回頃でともにいかなかった。

池袋ショー入場証

 上の写真は池袋ショーの入場証で、捨ててしまったことも多いから全部は揃っていない。初めの頃はサインペンで自署するようになっていたが、途中からは名刺を挟み込むようになっている。
 当初の目的は、新館の展示作成のための標本の購入のために出張で行き、開館してからも教室開催や、触ってもらう標本の取得などに数回行った。その後は化石を見る眼を養うため自費で参加している。年に一回英会話の実習というあたりを期待して、といったところか。標本も買うことがあるが、大変安いものしか買えないから、交通・宿泊費から見ると標本のコストパフォーマンスは非常に悪い。10万円近くをかけて、3000円ぐらいの化石を買ってくるのだから。
 そんなわけで、今年は行かない。海外からの参加がないから英会話もできないし、「こんにちは」「ありがとう」「また会いましょう」あたりは6カ国語ぐらい?使えるようになったが、それも役立てられない。海外の面白い標本も見られない。毎年会場でお会いする皆さん残念です。来年は行けるようになるのでしょうか?

私の使った切符 その131 乗継印

2020年11月22日 | 鉄道
 「乗継」という印がある。

339 乗継印 1976.11.12上野駅発行 

 この場合は、本州の東北本線などの特急と、青函連絡船を介して函館本線の特急を乗り継いだので、北海道の特急料金が半額になる、という割引をしたことがわかる。従って、本州側と北海道側の二枚の特急券に「乗継」印が押してある。ところがこの特急券には誤記載があって本州の特急名がなく、北海道の特急「北海」の名前が本州側のチケットにも印字してある。どちらも乗車区間が「上野から札幌まで」となっているのも面白い。
 現在もこれに近い乗継割引制度があって、新幹線から在来線特急への乗継や、サンライズから四国内特急への乗継が適用される。いろいろな条件や範囲があるので、詳しいことは調べていただきたい、

340 乗継印 1968.11.10発行 名古屋から若狭高浜ゆき乗車券

 この場合には、乗車券に「経路」として「東海・京都・綾部」と書いてある。名古屋の実家にいて、舞鶴帯の地質を見学する教室の巡検に参加する際に、新幹線で京都まで行き、翌日の山陰線のたぶん急行列車で綾部あたりまで行ったのだろう。乗継割引は、新幹線から在来線への場合には当日または翌日の特急列車または急行列車に適用される。

341 「青帯券」の乗継印字 2011.7.20発行

 現在も乗継割引の制度がある。「青帯券」ではこの写真のように表示される。この場合には、北九州市内から新幹線で新大阪に行って、そこから特急「こうのとり7号」に乗り継いだ切符。もちろん乗継が適用される条件「一緒に特急券を買うこと」に沿って、小倉駅で発行されている。ゴム印ではなくて機械印字(感熱)。特急券を購入する時間がないときなどには、「乗継請求」という印を捺してもらうという手段があったと思うが、私が保管している切符には例がない。

342 乗継乗車変更 2004.10.5 高山駅発行

 乗車前に列車を変更すると「乗変」という記入をする。この切符は、上宝村(現・高山市に編入)教育委員会の依頼で、展示施設の制作に関わったときの現地からの帰りの特急券。おそらく出発前に往復とも特急券を(もちろん乗継割引で)用意していたのが、仕事が早く終わって早い時刻の特急に変更できたという経緯だろう。

古い本 その34 日本哺乳動物史(下)

2020年11月19日 | 化石
 九州大学医学部解剖学教室の標本に出会ったところまで記した。まず「松ケ枝洞窟」から書いていこう。この洞窟があったのは現在の北九州市門司区吉志新町4丁目付近である。大正11年(1922年)測量の2万5000分の一地形図を見ると、松ケ江村(松ケ枝ではない)下吉志から北西にやや登ったところに複数の石切り場が表示されている。洞窟があったのはそのうちの一番奥の付近らしい。

38-6 松ケ枝洞窟(青丸)周辺の地形図 左は1922年測量 右は最近

 下吉志は西に周防灘を望み、西から流れ込む小河川「相割川」の河口南(右岸)に同村恒見集落が、左岸に下吉志の小さな集落がある。直良氏の著作では「松ケ枝洞窟」「恒見洞窟」などの表記が混じっているが、いずれもこれらの石切り場を言っている。なお、松ケ江村は1889年に吉志村・恒見村・他の6村が合併して成立、1942年に門司区に編入された。直良氏の松ケ枝洞窟の「枝」の字は誤りであろうが、洞窟名として文献上この名がずっと使われてきたので、ここではそのまま使う。1889年以前の村の境界を考えると、「恒見」という地名は相割川の南にあるが、恒見が最大の集落だったことでその名は旧恒見村よりも広く使われる。例えば現在の恒見郵便局は相割川よりも北に位置している。ついでに記しておくと、日豊本線に「豊前松江駅」があるが、恒見とは30kmほど離れているし、なんといってもこの駅の読みは「ぶぜんしょうえ」であって、無関係。こういうことを記している理由は最近の論文でこういう事実を間違っているものが見られるからである。
 ここで松ケ枝洞窟から離れるが、徳永(1930)に先立って、荻原武平(1925)「企救半島の象の化石」という短い文章がある。この記事は地質学雑誌の「雑報」にある1ページのもので、「松ケ枝村大字恒見は…恒見字浦中より出でたる象牙の化石を送らる。周囲は完全なる筒形にして約18糎長さ12糎位の一破片なり。…これ等は目下東北大学松本博士にご教示を仰ぐべく…」と記している。この文中には他の地点に関しても言及があって、「この所より東方約2粁餘に吉志という地あり、こゝも石灰岩の地にして哺乳類の骨片及び歯等の化石を多く産す。」としている。「東方2キロ」というと周防灘の海中になってしまう。吉志というからには「北方」の誤りだろう(浦中集落から吉志集落まで北北西に約2.1km)。ここからは他にも化石を産したが、廃棄されたとしている。
 荻原武平は、当時企救中学校校長ということである(春成, 2017)。しかし、企救中学校は1947年に小倉市立第六中学校として創立、企救中学校に改称されたのは1951年であるから、もちろんこの記事よりも後の事である。県内の天然記念物調査報告(1943)などにその名が見られるから、1925年頃にも教師をつとめていたと推測される。
 この標本は、現在東北大学総合博物館に保存されていると春成(2017)はしていて、その根拠は松ケ江村恒見(裂罅堆積物)と鹿間時夫が記したということである。ただし、春成の洞窟名に関する判断には疑問というか誤判断があるのでこの産地の推定も問題がある。東北大学の標本は長さ11.1cm、径は太いほうが5.5×5.3cm、細いほうが5.0×5.0cm(春成, 2017)となっている。直径5.4センチの円の周囲は約18センチであり、サイズはおおむね合致するからこれが正しいかもしれない。

38-7 春成(2017)の東北大学標本スケッチ(上の3 figs)。
 荻原(1925)に採集場所は「海に南面し、汀線より約2丁(218m)はなれ、海面より約200米の高さにありて…」となっている。ところが、南面する斜面の最高部の標高は196mで、そこは海岸線から600以上離れるから、文章に該当する場所は存在しない。可能性があるのは、著者が方向を90度誤解していた場合で、それなら松ケ枝洞窟の記述(東方2km、実は北方)とつじつまが合うのかもしれない。もしそうなら象牙の産出地は浦中集落の西方で、現在もわずかに石灰岩が存在する。

38-8 浦中周辺の地形図 左は1922年測量 右は最近

 上の地図は左が当時のもので、小規模な石灰石採集場が点在している。南面する海岸線の石切り場はすべて低い位置にあって合わないが、浦中よりにはもう少し高いところにもある。それでも200mには達しない。右が最近の地形図で、南面する斜面が大きく削られている。青い線が石灰岩の分布の北限および西限を示す。
 ここからは私自身の松ケ枝洞窟との関わりを記す。1990年に九州工業大学の地学標本が北九州市立自然史博物館に寄託された。その中に恒見産の哺乳類化石が数点あった。中型哺乳類の四肢骨数点とともに、歯根側だけが見えるサイの上顎臼歯2本があった。剖出してみて、咬耗のある乳臼歯と判断した。上顎歯は初めてだが、やはり幼いサイという点は共通する。これで現存する「マツガエサイ」標本は3点あることになった。

38-9 松ケ枝洞窟産サイ上顎臼歯 九州工業大学標本

 2002年頃までに、石灰岩の露頭はすべて破壊されて、現在は大規模な住宅地が広がっている。最後の姿を撮影してあるのでここに示す。

38-10 松ケ枝洞窟のなごり 2001.9.29

 1997年に春成秀爾博士は、直良信夫著として「日本および東アジアの化石鹿」を発行した。直良氏の遺稿を編集したもので、いくつかの「新種」を提唱するなどの問題があるが、未公表の興味ふかいデータがある。その巻頭写真ページの15に「門司区松が枝町恒見洞窟跡」という二葉の写真が示されている。そのうち上の写真のバックに見える山容は、2001年の私の写真と良く合っている。下の写真は採集風景で、直良信夫氏と弟の直良勇二氏が写っている。この写真の撮影日時は記してないが、「日本舊石器時代の研究」の127ページに、次の記述がある。「昭和24年の暮、私は再度この地を踏む機會を得、朝日新聞関西本社在勤中の義弟勇二と共に両3日實査した。」1997年の「化石鹿」掲載の写真がこの時のものであれば、1949年12月の撮影ということになる。服装は暮れにふさわしい。
 ところで、この「朝日新聞関西本社」というのは正しくない。同じ「旧石器時代の研究」巻末の謝辞には直良勇二氏の所属が「朝日新聞西部本社写真部」となっている。朝日新聞の大阪の本社は「大阪本社」であって「関西本社」ではない。1937年から小倉市砂津にあった社屋で、1940年以降は「朝日新聞西部本社」が正しい。当時この会社には、現在の誰もが知っている有名人がいたはず。

39 「石の骨」を収録する新潮文庫 表紙

 直良信夫をモデルにした「石の骨」は1955年発表で、松本清張の著作である。『或る「小倉日記」伝』に収録されている。私の持っている本は1994年発行の51刷(!)。松本氏は終戦を戦地で迎え、1944年朝日新聞西部本社に復職、1953年末に朝日新聞東京本社へ転職したという。直良勇二氏が直良信夫氏と一緒に松ケ枝洞窟に採集に向かったときには、松本清張が勇二氏と同じ職場にいたのだ。最近の文で春成(2005)は、「内容から判断すると、この作品(「石の骨」)を書くために清張が取材したのは、直良信夫一人からだけであった。」としているが、どうだろうか。
 直良信夫(1902−1985)は明石原人などの発見であまりにも有名。ここで改めて経歴などを記すのは畏れ多い。

私の使った切符 その130 手荷物印

2020年11月16日 | 今日このごろ

 次は手荷物印。

334 手荷物印 1968.2.26発行の関西方面ゆき周遊券

 鉄道を使って荷物を委託運送する制度があった。一つは、乗車券を持っていてその区間の運送を委託するもので、「手荷物」と呼ばれた。もう一つは切符の有無にかかわらず運送を依頼するもので、「鉄道小荷物」と呼んでいた。いずれもちょっと大きな駅に荷物専用の窓口があって、そこで発送の手続きをとった。配送は宛先まで届けてくれるのと、「駅止め」といって、あとで駅まで取りに行くのがあった。手荷物は切符を持っているのだから安かったのだが、切符の裏にこの「手」の印を押して何度も送れないようになっていた。一個だけではなかったような気がするが、何個までだったかまでは覚えていない。私は化石採集をしていたから、「大漁」だった時には家まで送った。今と違って、段ボール箱もめずらしく、ガムテープもなかったから、いろいろな工夫をした。

335 「チ」の穴 1965.12.19二条駅発行熱田行き乗車券

 実はこの穴が何なのかは分からない。たぶん、上の「手」印の前の形ではなかろうか。たしか手荷物のことを「チッキ」と呼んでいたと思う。この時は、近畿北部の化石産地を回ったので採集標本も多かった。

336 手荷物印 1967.7.19発行 東北周遊券裏面

 例えば1967年の東北化石採集旅行について、2011年4月に3回にわけてこのブログで記した。その1回目に切符や荷物の送付について書いた(4月21日)化石標本は4回にわたって送付したと書いてある。送付した場所は久慈・気仙沼・陸前高田・米谷(仙北鉄道)だが、それぞれの送付の際に控えとして次のような書類を受け取った。

337 手荷物切符 1967.7.30 気仙沼駅

338 小荷物切符 1967.8.2 陸前高田駅

 縦13cmの複写用紙で、非常に薄い。手荷物と小荷物で少し違っていて、まず手荷物は緑色、小荷物は青で印刷されている。手荷物は18kgで180円、小荷物は25kgで720円と、やはり手荷物が安い。他に配達料70円は同額。小荷物の方には品名欄があって、ちゃんと「化石」と書いてある。気仙沼の標本は、上八瀬のペルム紀化石など、陸前高田の方には、雪沢の石炭紀産サンゴ類などが入っていたに違いない。駅名のハンコの後ろの「盛」は、大船渡線終点の盛(さかり)駅のことだろう。盛駅は大震災で不通となって、2020年にJR大船渡線の気仙沼から先がBRT化された。