九州大学医学部解剖学教室の標本に出会ったところまで記した。まず「松ケ枝洞窟」から書いていこう。この洞窟があったのは現在の北九州市門司区吉志新町4丁目付近である。大正11年(1922年)測量の2万5000分の一地形図を見ると、松ケ江村(松ケ枝ではない)下吉志から北西にやや登ったところに複数の石切り場が表示されている。洞窟があったのはそのうちの一番奥の付近らしい。
38-6 松ケ枝洞窟(青丸)周辺の地形図 左は1922年測量 右は最近
下吉志は西に周防灘を望み、西から流れ込む小河川「相割川」の河口南(右岸)に同村恒見集落が、左岸に下吉志の小さな集落がある。直良氏の著作では「松ケ枝洞窟」「恒見洞窟」などの表記が混じっているが、いずれもこれらの石切り場を言っている。なお、松ケ江村は1889年に吉志村・恒見村・他の6村が合併して成立、1942年に門司区に編入された。直良氏の松ケ枝洞窟の「枝」の字は誤りであろうが、洞窟名として文献上この名がずっと使われてきたので、ここではそのまま使う。1889年以前の村の境界を考えると、「恒見」という地名は相割川の南にあるが、恒見が最大の集落だったことでその名は旧恒見村よりも広く使われる。例えば現在の恒見郵便局は相割川よりも北に位置している。ついでに記しておくと、日豊本線に「豊前松江駅」があるが、恒見とは30kmほど離れているし、なんといってもこの駅の読みは「ぶぜんしょうえ」であって、無関係。こういうことを記している理由は最近の論文でこういう事実を間違っているものが見られるからである。
ここで松ケ枝洞窟から離れるが、徳永(1930)に先立って、荻原武平(1925)「企救半島の象の化石」という短い文章がある。この記事は地質学雑誌の「雑報」にある1ページのもので、「松ケ枝村大字恒見は…恒見字浦中より出でたる象牙の化石を送らる。周囲は完全なる筒形にして約18糎長さ12糎位の一破片なり。…これ等は目下東北大学松本博士にご教示を仰ぐべく…」と記している。この文中には他の地点に関しても言及があって、「この所より東方約2粁餘に吉志という地あり、こゝも石灰岩の地にして哺乳類の骨片及び歯等の化石を多く産す。」としている。「東方2キロ」というと周防灘の海中になってしまう。吉志というからには「北方」の誤りだろう(浦中集落から吉志集落まで北北西に約2.1km)。ここからは他にも化石を産したが、廃棄されたとしている。
荻原武平は、当時企救中学校校長ということである(春成, 2017)。しかし、企救中学校は1947年に小倉市立第六中学校として創立、企救中学校に改称されたのは1951年であるから、もちろんこの記事よりも後の事である。県内の天然記念物調査報告(1943)などにその名が見られるから、1925年頃にも教師をつとめていたと推測される。
この標本は、現在東北大学総合博物館に保存されていると春成(2017)はしていて、その根拠は松ケ江村恒見(裂罅堆積物)と鹿間時夫が記したということである。ただし、春成の洞窟名に関する判断には疑問というか誤判断があるのでこの産地の推定も問題がある。東北大学の標本は長さ11.1cm、径は太いほうが5.5×5.3cm、細いほうが5.0×5.0cm(春成, 2017)となっている。直径5.4センチの円の周囲は約18センチであり、サイズはおおむね合致するからこれが正しいかもしれない。
38-7 春成(2017)の東北大学標本スケッチ(上の3 figs)。
荻原(1925)に採集場所は「海に南面し、汀線より約2丁(218m)はなれ、海面より約200米の高さにありて…」となっている。ところが、南面する斜面の最高部の標高は196mで、そこは海岸線から600以上離れるから、文章に該当する場所は存在しない。可能性があるのは、著者が方向を90度誤解していた場合で、それなら松ケ枝洞窟の記述(東方2km、実は北方)とつじつまが合うのかもしれない。もしそうなら象牙の産出地は浦中集落の西方で、現在もわずかに石灰岩が存在する。
38-8 浦中周辺の地形図 左は1922年測量 右は最近
上の地図は左が当時のもので、小規模な石灰石採集場が点在している。南面する海岸線の石切り場はすべて低い位置にあって合わないが、浦中よりにはもう少し高いところにもある。それでも200mには達しない。右が最近の地形図で、南面する斜面が大きく削られている。青い線が石灰岩の分布の北限および西限を示す。
ここからは私自身の松ケ枝洞窟との関わりを記す。1990年に九州工業大学の地学標本が北九州市立自然史博物館に寄託された。その中に恒見産の哺乳類化石が数点あった。中型哺乳類の四肢骨数点とともに、歯根側だけが見えるサイの上顎臼歯2本があった。剖出してみて、咬耗のある乳臼歯と判断した。上顎歯は初めてだが、やはり幼いサイという点は共通する。これで現存する「マツガエサイ」標本は3点あることになった。
38-9 松ケ枝洞窟産サイ上顎臼歯 九州工業大学標本
2002年頃までに、石灰岩の露頭はすべて破壊されて、現在は大規模な住宅地が広がっている。最後の姿を撮影してあるのでここに示す。
38-10 松ケ枝洞窟のなごり 2001.9.29
1997年に春成秀爾博士は、直良信夫著として「日本および東アジアの化石鹿」を発行した。直良氏の遺稿を編集したもので、いくつかの「新種」を提唱するなどの問題があるが、未公表の興味ふかいデータがある。その巻頭写真ページの15に「門司区松が枝町恒見洞窟跡」という二葉の写真が示されている。そのうち上の写真のバックに見える山容は、2001年の私の写真と良く合っている。下の写真は採集風景で、直良信夫氏と弟の直良勇二氏が写っている。この写真の撮影日時は記してないが、「日本舊石器時代の研究」の127ページに、次の記述がある。「昭和24年の暮、私は再度この地を踏む機會を得、朝日新聞関西本社在勤中の義弟勇二と共に両3日實査した。」1997年の「化石鹿」掲載の写真がこの時のものであれば、1949年12月の撮影ということになる。服装は暮れにふさわしい。
ところで、この「朝日新聞関西本社」というのは正しくない。同じ「旧石器時代の研究」巻末の謝辞には直良勇二氏の所属が「朝日新聞西部本社写真部」となっている。朝日新聞の大阪の本社は「大阪本社」であって「関西本社」ではない。1937年から小倉市砂津にあった社屋で、1940年以降は「朝日新聞西部本社」が正しい。当時この会社には、現在の誰もが知っている有名人がいたはず。
39 「石の骨」を収録する新潮文庫 表紙
直良信夫をモデルにした「石の骨」は1955年発表で、松本清張の著作である。『或る「小倉日記」伝』に収録されている。私の持っている本は1994年発行の51刷(!)。松本氏は終戦を戦地で迎え、1944年朝日新聞西部本社に復職、1953年末に朝日新聞東京本社へ転職したという。直良勇二氏が直良信夫氏と一緒に松ケ枝洞窟に採集に向かったときには、松本清張が勇二氏と同じ職場にいたのだ。最近の文で春成(2005)は、「内容から判断すると、この作品(「石の骨」)を書くために清張が取材したのは、直良信夫一人からだけであった。」としているが、どうだろうか。
直良信夫(1902−1985)は明石原人などの発見であまりにも有名。ここで改めて経歴などを記すのは畏れ多い。