OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

2023年5月のカレンダー

2023年04月29日 | 今日このごろ

5月 Zeuglodon macrospondylus Müller(原鯨類)
文献:Müller, Johannes Peter 1849 Über die fossilen Reste der Zeuglodonten von Nordamerica, mit Rücksteht auf die europäischen Reste aus dieser Famillie. Verlag von Reimer, pp. 1-38, Taf. 1-27. (北アメリカのZeuglodon類の化石について、ヨーロッパのその科の化石に関連して)
 この頃多くの原鯨類化石がAlabama州などで発見されたが、幾つかの個体を混同していたり、さらには見世物とするために意図的に多くの標本を混ぜて巨大に見せる例もあった。この論文は、プロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム四世国王に買い上げられ、ベルリンの王立解剖学博物館が所蔵していた(単行本「未確認動物UMAを科学する」2016. D. Loxton and D. Prothero著・松浦俊輔訳による)Koch収集のアメリカ・アラバマ州産標本を記載したもの。27枚もの着色した図版を伴っている。中にはほぼ完全な頭骨も含まれていた。

Müller 1849. Tab. 22(一部)Zeuglodon macrospondylus 臼歯 この図は着色されていないのでモノクロにして示した。スケールは原図にない。

 Zeuglodon macrospondylus Müllerは、Basilosaurus cetoides (Owen) のシノニムとされる。
 Johannes Peter Müller (1801-1858) は、ドイツの生物学者。
 ブログ「古い本 その72 Kelloggのメモ」で書いたが、インターネットで入手できたMüllerの論文は、スミソニアンの博物館にある原本をディジタル化したもの。このファイルには3枚の紙片が挟まれているのも見ることができる。そのうち2枚目についてはすでにブログで詳しく記した。結論としてKellogg 1936 「The Archaeoceti」の原稿を作る際のメモと推測した。
 残り2枚の紙片を読んでみよう。1枚目は本文の前page iv(別ノンブル)にある「著者による前置き」に挟んである。

紙片 1枚目 冒頭にある

 印刷されたもので、内容は左が1単語ほど欠けているからよくわからないが、製本が手縫いの糸綴じであるから取り扱い注意といったことだろう。図書館が用意したものだろうから、内容とは関わりがない。
 3枚目は、Tab. 7とTab. 9の間に挟んである。これは2枚目と同じくKelloggのメモだろう。

紙片 3枚目 図版の中にある。

ところが、Tab. 8がデジタルファイルで抜けているではないか! いろいろ試みたが、このページは手に入らなかった。紙片は手書きで、左端が欠けている。

紙片 3枚目 解読したもの

 胸骨の図についてのメモに違いない。Müllerの図の説明によると、Taf. 8(pdfで欠如)Fig. 8を、「指骨の末端または最後方の胸骨」とし、Taf. 9, Figs. 3-5が「胸骨?」となっているから、これに対するメモであろう。そうすると上の解読の左端が青字のように推測できる。KelloggはMüllerの骨名と方向を検討して結論を書いたのだ。最後の行にあるStromer 1908に関しては、Kelloggは「The Archaeoceti」の文献目録に二件のStromer 1908を掲載しているが、ページが合うのは次の論文。
参考論文:Stromer, Ernst 1908. Die Archaeoceti des ägyptischen Eozäns. Beiträge zur Paläontologie und Geologie Östrreich-Ungarns und des Orients. Vol. 21: 106-177, plates 4-7.(エジプトの始新世の原鯨類)
 この論文の135ページはZeuglodon Isisについて記してある部分。論文には4枚の図版があるがそのうちのTafel 5, 6に胸骨が出てくるから、それを参考にしたということだろうか。「inverted」は前後が逆ということだろうか。

Stromer 1908. 胸骨の図。図を集めて配置した。

 上はTaf, 5で、Zeuglodon Osirisの、左は最前方の胸骨(manubriumまたはpresternum:腹面)、右は最後方の胸骨(xiphisternum:腹面)、下はTaf. 6で、Zeuglodon Isisの、左は最前方の胸骨(側面)、中は同腹面、右は最後方の胸骨(腹面)。サイズはここに書いてない。胸骨は思ったよりも分厚いものなのだ。ちょっと気になるのは、前後端の胸骨標本が幾つか図示されているのに、中間の胸骨(mesosternum: ヒトの場合4個くらい)の標本の図が見当たらないこと。
 このようにKelloggのメモの意味が分かった。納得!

私の旅行データ 10 空白域 I

2023年04月25日 | 旅行

 やっと北海道が終わり、東北地方に入る。

20km-13 白神山地
凡例:緑:10km 黄色:20km 青線 私の旅行経路 P(青)写真の撮影場所。
 地名 大文字:町・集落 Aj鯵ヶ沢 Go五所川原 Fu深浦 Hi弘前 No能代 Od大館
    小文字:行政区 fu深浦町 aj鯵ヶ沢町 hi弘前市 ni西目屋村 ow大鰐町 ha八峰町 no能代市 fs藤里町 od大館市

 景色の良い五能線(1970年7月乗車)は、北海道からの帰りに乗車した。この区域の周囲の半分以上を占めるが、乗り通しただけだから車内から撮影した写真があるだけ。
20km-14 五能線の車窓から 1970.7.6

 東側は五能線のほか弘南鉄道大鰐線(2008年2月乗車)と奥羽本線(1970年7月)を通過した。

白神山地のデータ 10km以上の未接近地 [青森] 1市3町1村 [秋田県] 2市2町(これらのうち西目屋村と藤里町には足を踏み入れたことがない)。面積は10km以上 約1100平方km
20km以上 [青森] 弘前市・西目屋村 [秋田県] 藤里町・大館市。約120平方km

 次は、十和田湖周辺

20km-15 十和田湖
凡例:緑:10km 黄色:20km 青線 私の旅行経路
 地名 大文字:町・集落・湖 Hi弘前 To十和田 LT十和田湖 Ha八戸 Od大館
    小文字:行政区 ao青森市 ku黒石市 hi平川市 to十和田市 go五戸町 sg新郷村 sa三戸町 ta田子町 ko小坂町 ka鹿角市 ha八幡平市 ni二戸市

 これもかなり広い空白域で、北側は東北新幹線(2010年12月)が縁取っているが、その途中から入り込んでいるのは、十和田観光鉄道(2008年7月乗車、2012年3月廃止)。東側は東北新幹線と東北本線(1967年7月乗車、のちに青い森鉄道などに)、南側は花輪線(1988年9月)、西側は奥羽本線で通った。弘前付近で中に入り込んでいるのは、弘南鉄道(2008年2月)。このあたりで、ほとんど観光などをしていない。十和田湖を観光旅行すれば、ずいぶん踏破できそうである。

十和田湖のデータ 10km以上の未接近地 [青森] 4市3町1村 [秋田] 1市1町 [岩手]  2市。(これらのうち新郷村・田子町・小坂町には足を踏み入れたことがない)。面積は10km以上 約1800平方km
20km以上 [青森] 平川市・十和田市・新郷村・三戸町・田子町 [秋田] 小坂町・鹿角市。約120平方km

 次は、北上山地の北部。

20km-16 安家
凡例:緑:10km 黄色:20km 青線 私の旅行経路 P(青)写真の撮影場所。
 地名 大文字:町・集落 Ka軽米 Ku久慈 Ko好摩 Mo盛岡 Iw岩泉 Mi宮古
    小文字:行政区 [岩手県] kh九戸村 kj久慈市 km葛巻町 Iw岩手町 iw岩泉町 mo盛岡市

 この空白域の北側は昔自家用車にのせていただいたところ。西側は東北本線(1969年)と東北新幹線である。南側はちょっと複雑で、初めて来たのは1967年7月で、盛岡から山田線で茂市に出て、岩泉線に乗り換えた。その時にはまだ浅内までしか建設されていなかったから、バスに乗り換えて、小本経由で田野畑に向かった。1988年に岩泉まで延伸された岩泉線(2014年3月廃止)に乗車した。だから、細かく言えばバス路線と鉄道の二本の経路を通ったが、この地図では1本で表した。岩泉に少し入り込んだ経路は龍泉洞への道。

20km−17 龍泉洞 1967年7月

安家のデータ 10km以上の未接近地 [岩手]  2市3町1村(これらのうち葛巻町には足を踏み入れたことがない)。面積は10km以上 約1300平方km
20km以上 久慈市・岩泉町・葛巻町・盛岡市。約200平方km

古い本 その140 古典的論文 長頚竜類 6

2023年04月21日 | 化石
 やっとのことで、長頚竜類が終わる。あまり有名ではない3属を紹介する。まず、Brancasaurus
⚪︎ Wegner, Theodor, 1914. Brancasaurus brancai n. g. n. sp., ein elasmosauride aus dem Wealden Westfalens. Branca-Festschrift 235-305, Leipzig.(新属・新種Brancasaurus brancai、WestfaliaのWealden層からのElasmosairus科の一種)(未入手)
 単行本で、インターネットでは公開されていない。著者のTheodor Wegner(1880−1934)は、ドイツの古生物学者。献名されたBrancaという人は、Carl Wilhelm Franz von Branco = Wilhelm von Branca(1844−1928)で、ドイツの古生物学者。記載論文は見られなかったが、標本は最近の文献で見ることができる。

521 Brancasaurus brancai Wegner. holotype (Sachs et al, 2016による)
 
 よく揃った標本で、全身の様子がわかる。図を引用した論文は次のもの。
⚪︎ Sachs, Sven, Jahn J. Homing and Benjamin P. Kear, 2016. Reappraisal of Europe’s most conplete Early Cretaceous plesiosaurian: Brancasaurus brancai Wegner, 1914 from the “Wealden facies” of Germany. Quarterly Journal of the Geological Society. Vol. 78: 285-298, pls. 14-15.(ヨーロッパで最も完全な前期白亜紀の長頚竜類の再評価:ドイツの“Wealden 相”からのBrancasaurus brancai)(一部未入手)
 近年の論文なので、ネットで見ることができるが全部をダウンロードするのは差し控えた。Brancasaurus属についてまとめておこう。

Brancasaurus Wegner, 1914. 模式種:Brancasaurus brancai Wegner, 1914.
産出地:Westfalia, ドイツ ”Wealden層” ジュラ紀

 最後は1922年の二つの属が掲載された論文。
⚪︎ Andrews, Charles William 1922. Desceiption of a New Plesiosaur from the Weald Clay of Berwick (Sussex). The Quarterly Journal of the Geological Society of London. Vol. 78: 285-298, pls. 14-15.(SussexのBerwickのWeald粘土層からの新種Plesiosaurの記載)
 この論文の中にEurycleidusLeptocleidusという二つの属が記載されている。294ページにEurycleidusが提唱され、模式種としてEurycleidus arcuatusが記されていて。肩帯のきれいなスケッチが295ページにある。

522 Andrews, 1992. P. 295. Eurycleidus arcuatus肩帯

 図の上は鎖骨弓(clavicular arch)の下面観となっているが、おそらく前面観。下は上面(背面)観である。
 Leptocleidus属は296ページに現れ、Leptocleidus superstesが模式種としてあるようで、二枚の図版はこの種類だけ。本文では新属新種の主張はされていないが、図版説明では、Plales 14-15にLeptocleidus superstes, gen. et sp. nov.となっている。

523 Andrews, 1992. Pl. 14. Leptocleidus superstes

 Pl. 14で図示されているのは、上が頭骨後部で、左が右側面、右は口蓋面。中列は二個の頚椎、下は後部頚椎から腰椎の脊椎列の右側面である。

524 Andrews, 1992. Pl. 15. Leptocleidus superstes

 Pl. 15は、左が肩帯で、右の一番上と一番下に同じ肩帯の前面観と右側面観が示されている。中央は右上腕骨、その右は二本の腹肋骨。なお、Wikipediaにこれら二枚の図版が引用されているが、そのキャプションの骨名。方向にはいくつかの誤りがある。
 模式種のうちEurycleidus arcuatusは、Owenが記載した種類で、文献は次のもの。
⚪︎ Owen, Richard, 1840. Report on British Fossil Reptiles. Report of the Ninth Meeting of the British Association for the Advancement of Science 1840: 43-126.(イギリスの化石爬虫類の報告)(既出)
 ずいぶん長い文章で、Part 1. としてEnaliosauria(つまりPesiosaur + Ichthyiosur)という見出しがあるが、Part 2以下はない。つまり、後で続編があるとしてもここではこの二つのグループだけを扱っている。それぞれは単一の属で、Plesiosaurus(16種:Owen記載が13種、Conybeare 2種、Cuvier 1種)Ichthyosaurus (10種:Owen記載が5種、Conybeare 4種、Könich 1種)がリストアップされている。もちろんPlesiosaurus arcuatusが出てくる。
 これらとは別に、SeeleyがPlesiosaurus arcuatusを1892年に図示しているので、それを示しておく。

525 Seeley, 1892. Figs. 2,3. Plesiosaurus arcuatus= Eurycleidus arcuatusの鎖骨弓

 上の図はPlesiosaurus arcuatusの鎖骨弓で、上が腹側、下が内側である。両側の鎖骨の間を間鎖骨が繋いでいるのがわかる。ところでこの「内側」を表すのに、visceral aspect(内臓側観とでもいうべきか)という珍しい用語を用いている。配置の関係で、キャプションの位置と方向をアレンジした。

 以上をまとめておく。

Eurycleidus Andrews, 1922. 模式種:Eurycleidus arcuatus (Owen)(=Plesiosaurus arcuatus Owen)
産出地 Gloucestershire Bitton(イギリス)のLias層
Leptocleidus Andrews, 1922. 模式種 Leptocleidus superstes Andrews, 1922.
産出地:SussexのBerwick(イギリス)のWeald粘土層 

 以上で長頚竜類の1924年までに記載された属の調査結果を終わる。Seeleyの活躍が目立つ。ここで紹介した14属のうち6属に名前をつけ、この類の分類の重要な形質が肩帯にあることを記して研究のスタンダードを作った。

私の旅行データ 9 空白域 H

2023年04月17日 | 今日このごろ
 大雪山の続き。
 私の経路は、北側が「大雪国道」とも呼ばれる国道30号線(1969年8月)、東側は池北線(1969年8月:「ふるさと銀河鉄道」を経て2006年4月廃止)、南側は根室本線(1969年7月)、西側は富良野線(1970年6月)をそれぞれ通った。内部に向かっては、士幌線(1970年7月:1987年3月廃止)のほか、白金温泉(1970年6月)・トムラウシ(1974年9月)・然別(1970年6月)へのバス・層雲峡ロープウエイ(1978年4月)などで入り込んだ。

20km-8 層雲峡ロープウェイ黒岳駅付近 1978年4月

20km−9 トムラウシ温泉付近の渓流 1974年9月

 上の写真は、大雪山塊の中央に深く入り込む定期バス路線で行ったトムラウシ温泉付近のもの。新得駅前から出発したバスは夕刻トムラウシ終点に着き、そこで運転手さんらも宿泊して、翌日朝8時頃の便で帰ってくる。私も一泊したが、周りを見る時間はなく、宿から出ると「熊に注意」という看板が目立つから、ほんの少し歩いて帰ってきた。浴場の湯の量の多さだけが記憶に残っている。
 このコースや、旧士幌線、それに糠平・然別・鹿追のような、能率の良さそうなところはすでに踏破したから、残りの空白を埋めるとしても、少しずつになりそう。

大雪山のデータ:10km以上の未接近地 [北海道]  2市15町(これらのうち東神楽町と東川町は訪問したことが無い)。面積は10km以上 1「十勝岳南」約360平方km 2「旭岳西」約470平方km 3「喜登牛山」約440平方km 4「本別西」約42平方km 5 「幕別北」約0.1平方km 
20km以上 [北海道] 3「喜登牛山」足寄町。約2.9平方km


20km-10 寿都/瀬棚
凡例:緑:10km 黄色:20km 青線 私の旅行経路
 地名 大文字:町・集落 Iw岩内 Su寿都 Se瀬棚 Ku黒松内 Os長万部
    小文字:行政区 iw岩内町 ra蘭越町 su寿都町 sh島牧村 seせたな町 im今金町

 北海道半島部の長万部より北では函館本線が半島の中央を走るので、やや海岸の空白域が狭くなる。ここは旧岩内線と旧瀬棚線の間の海岸で、寿都には行っていないが函館本線が黒松内駅付近で海岸にすこし近づくから南北二つの空白域に分かれる。三本の鉄道の乗車はそれぞれ函館本線(1969年7月)・岩内線(1974年9月乗車、1985年7月廃止)・瀬棚線(1974年8月乗車、1987年3月廃止)。
 この部分の海岸には幾つかのバス路線があるようだが調べていない。

寿都/瀬棚のデータ:10km以上の未接近地 [北海道]  5町1村(これらのうち島牧村は訪問したことが無い)。面積は10km以上 約550平方km  岩内/寿都 約84平方km
20km以上 [北海道] 島牧村。約120平方km

 次の空白地も北海道の半島部。

20km-11 江差/松前
凡例:緑:10km 黄色:20km 青線 私の旅行経路 P(青)写真の撮影場所。
 地名 大文字:町・集落 Ka上ノ国 Ki木古内 Ma松前 Fu福島
    小文字:行政区 ka上ノ国町 ma松前町

 これも半島部で、一番南の部分。北縁は江差線。東の線は直線的なのが北海道新幹線(2017年5月乗車)、曲がっているのが松前線(1972年9月乗車、1988年2月廃止)。
 松前線を通った頃は、青函トンネルの工事が進んでいて、福島のあたりに工事の作業基地があった。

20km-12 青函トンネル作業基地 1972.9.12 松前線福島付近

江差/松前のデータ 10km以上の未接近地 [北海道] 2町(どちらも訪問済み)。面積は10km以上 約270平方km
20km以上 [北海道]  上ノ国町・松前町。約35平方km

古い本 その139 古典的論文 長頚竜類5

2023年04月13日 | 化石

 次に記載された長頚竜類の属はCryptoclidusで、論文はこれ。
⚪︎ Seeley, Harry Govier. 1892. The Nature of the Shoulder Girdle and Clavicular Arch in Sauropterygia. Proceedings of the Royal Society of London vol. 51: 119-151.(Sauropterygiaの肩帯と鎖骨弓の性質)
 30ページ以上の長い論文で、4章からなる。I章「骨の用語」(§1. In Ichthyosauria、§2. In Sauropterygia、§3. 鎖骨弓の骨名用語)II章「Plesiosaurus科の鎖骨弓」(§1. Plesiosaurus科の範囲と特徴、§2. 鎖骨弓)III章「Elasmosaurus 科の鎖骨弓」(§1. Elasmosaurus 科の範囲と特徴、§2. 発見されたElasmosaurus類の鎖骨弓)IV章「分類」である。Seeley はこの論文で、Plesiosaurでは肩帯の形態を主な分類の目安にするという方法論を確立した。
 Plesiosaurの肩帯は三対の骨で構成される。前から鎖骨・肩甲骨・烏口骨。肩甲骨と烏口骨の接する線の最も外側の側面に、上腕関節窩がある。長頚竜類では肩甲骨と烏口骨の間には窓が開いている。この類の特徴は、これらがすべて正中線でぶつかっていること(鎖骨は通常中央に間鎖骨を伴う)。
 145ページにCryptoclidus platymerusの命名が出てくる。しかし、文中ではMuraenosaurus属の亜属としている。Fig. 13のキャプションでは、この種類をMuraenosaurus (Cryptoclidus) platymerusと表記している。その特徴は、左右の鎖骨が中央で関節で接していて、間鎖骨が見当たらない、というもの。

516 Seeley, 1892. Fig. 14. Cryptoclidus platymerus 肩帯

517 Seeley, 1892. Fig. 14. Cryptoclidus platymerus 中央の丸い面は関節面

 この図は、前の図の上端(前端)の鎖骨の対を示したもの。おそらく二図とも背側(内側)であろう。関節面が向き合うためには、この二つの骨は相当内側にカーブした形で対応していたのだろうか? それとも間鎖骨が挟まっていたのだろうか? この図は産状を示しているのであろうか? 
 Cryptoclidusについてまとめておく。
Cryptoclidus Seeley, 1892. 模式種:Cryptoclidus platymerus Seeley, 1892.
産出地:Oxford Clay? In the Leeds Collection. イギリス Late Jurassic

 同じ年に、Seeleyはもう一つの属を記載しているという資料がある。それはPicrocleidusというもので、1892年の記載となっているのだが、この年の論文が見つからなかった。ここに引用した1892年の論文では、Picrocleidusの模式種としているP. beloclisが、もとのMuraenosaurus beloclisとして出てくるので、別の論文があることになるが、ここでは誤りの原因を推理した。その年に当たる1909年のところで述べる。

 次の属はDolichorhynchopsで、論文は下記のもの。
⚪︎ Williston, Samuel Wendell, 1902. Restoration of Dolichorhynchops osborni, a new Cretaceous plesiosaur. Bulletin of ths University of Kansas, Science Bulletin. vol. 1, No. 9: 241-244, pl. 11.(白亜紀の長頚竜類新種 Dolichorhynchops osborni の復元)
 記載は短くて、はっきりいえば特徴を記した部分はあまりない。論文ではこの全身骨格を復元したことが強調されている。

518 Williston, 1902. plate 11. Dolichorhynchops osborni 復元骨格

Dolichorhynchops Williston, 1902. 模式種:Dolichorhynchops osborni, Williston, 1902.
産出地:Kansas州西部 アメリカ のチョーク層(白亜紀)

 次の属は、Tricleidusで下記の論文で記載された。
⚪︎ Andrews, Charles William. 1909. On some new Plesiosauria from the Oxford Clay of Peterborough. The Annals and Magazine of Natural History. Vol. 4: 418-429,(PeterboroughのOxford Clayからの新種長頚竜類について)
 Oxford Clayからすでに何種類もの長頚竜類が報告されていた。ここではその中のElasmosaurus科にすでに知られていた3属:MuraenosaurusPicrocleidusCryptoclidusCryptocleidusと間違って綴られている)に加えて、新属新種を報告している。

519 Andrews, 1909. Fig. 1. Tricleidus seeleyi holotype: 肩帯、背側

 新種名はSeeleyに献名されているぐらいだから、主な分類上の着目点である肩帯の図が真っ先に示されている。
 Tricleidusの記載に続いて、Picrocleidusを新属として記載している。前に記したように、この属はSeeley. 1892の命名としている資料があるが、疑わしい。Seeleyの論文をよく読んでいると思われるAndrews が、ここで新属としている以上、この情報が正しそう。模式種は P. beloclisで、SeeleyがMuraenosaurus beloclisとして1892年に記載した。これが間違って属の命名とされたのでは?

520 左:Seeley, 1892 右Andrews, 1909. いずれもPicrocleidus beloclis (Seeley)(=SeeleyのMuraenosaurus beloclis)の肩帯 上面

 Andrewsは見ている方向として、「from above」を使っている。正しく記載するなら「背側」となる。
 Charles William Andrews (1866-1924) は、大英博物館で古脊椎動物学の担当をした。 Fayumの始新世古脊椎動物の記載で有名。繰り返すが、アメリカのRoy Chapman Andrews(インディー・ジョーンズのモデルの一人)とは別人。
 まとめておこう。
Tricleidus Andrews, 1909. 模式種:Tricleidus seeleyi Andrews, 1909.
産出地: Oxford Clay イギリス Jurassic
Picrocleidus Andrews, 1909. 模式種:Picrocleidus beloclis (Seeley, 1892)(=Muraenosaurus beloclis Seeley)
産出地: Oxford Clay イギリス Jurassic