日本人の研究が始まると、脊椎動物化石に関する記述も出てくるが、最初はちゃんとした物はなくて「記事」「短報」に類するものばかりである。まずそれにあたるものを列記しておく。いずれも地質学雑誌(JGSJと略記)に掲載された記事である。
A 1894 山崎直方 馴鹿嘗て日本の野に遊ぶ. JGSJ, vol. 1: 241
B 1895 篠元(おそらく二郎) 肥前國北松浦郡江里村江里峠の第三紀砂岩上に印せるPalaeotherium magnum (?) の足跡. JGSJ, vol. 2: 116-117
C 1896 値賀威一郎 第三紀層中より哺乳類の化石出づ. JGSJ, vol. 3: 63-64.
D 1897 神保(小虎) 信濃國第三紀の海獣. JGSJ, vol. 4: 355.
E 1899 吉原(重康) 犀骨の發見. JGSJ, vol. 6: 236.
F 1900 矢部(長克) 布袋石は鯨の耳骨なり. JGSJ, vol. 7: 118-119.
G 1900 横山(又次郎) 海牛の化石. JGSJ, vol. 7: 363.
ここまでが19世紀中に発表されたものだが、現在インターネットで公開されている地質学雑誌の論文中には姿を現さず、いずれも「雑報」などとして扱われている。
まず、A の報告、山崎直方, 1894 「馴鹿嘗て日本の野に遊ぶ」について。「馴鹿」はトナカイで、「じゅんろく」とも読みどちらを意図して書かれたのかは分からない。報文はそれに似た角の化石があることを報じたもの。2か所の標本について記述がある。まず「陸奥国上北郡の沼崎停車場より一里ばかり西北の貝塚村字貝盛の貝墟」を調査した若林勝邦が、人類遺物と共に数多くの鹿角中「一種偉大にして扁平なる馴鹿の角二個を採集して、報告書に記したという。報告書は、「陸奧國上北郡貝塚村貝塚調査報告」として東洋学藝雑誌 No. 146: p584~591(1893年11月発行)に掲載されているという。残念ながらこの原文はインターネットで閲覧できなかったが、標本の図が山崎の論文に再録されている。「扁平」というからには、トナカイではない可能性がある。産出地は沼崎駅(当時日本鉄道東北本線。その後国有化され1959年に上北町駅に改称。場所はJR東日本を経て現在は青い森鉄道に所属)から4km西北の七戸町二ツ森貝塚(縄文時代)。
別の場所の標本がこれと近いものであるとしている。「上毛私記」という書物に、1797年黒岩山(上野)陰に竜骨が出たという記録があって、角や歯などの図を提示しているがその図は不十分だ、というのだ。黒岩の標本については、Shikama and Tsugawa, 1962で英文報告が出された。産出地は群馬県富岡市上黒岩で、文中にある「上野」は「こうづけ」のこと。現在群馬県立自然史博物館のあるあたり。学名はSinomegaceros (Sinomegaceroides) yabei (Shikama) としている。もとの名は、1938年にShikamaが提示したCervus (Sinomegaceros) yabei Shikamaである。また。江戸時代に発見された標本の保管に関する経緯などについては、鹿間・長谷川, 1962 の日本語論文もある。なお、Megaceros 属はヨーロッパのもの、「Sino-」はもちろん「中国の」の意。「yabei」は東北帝国大学の矢部長克教授に献名したもの。またCervus属にはニホンジカなども属している。
229 Shikama and Tsugawa, 1962, Plate 3
そして山崎は比較した図を出している。
230 山崎, 1894の図
左の二つ(一・二)が黒岩山のもの、右の三・四が若林の図から「許諾を得て」写したもの、としている。黒岩の標本は、当然ながら平たい広い部分があることがはっきりしているが、七戸のものがこれと同じとは思えない。前方に分岐する枝(眉枝)が掌状になっていないのだ。角座の大きさを比較すると縮尺が異なる可能性も高い。もしも七戸のものが化石なら、日本人が西欧の学問の形で記した脊椎動物化石として最初のものだったかもしれないが、そうではないだろう。
登場人物を調べてみよう。山崎直方(1870−1929):高知県生まれの地理学者。東京帝国大学教授などを務めた。若林勝邦(1862−1904)は、東京理科大学にいた人類学者で、初期の静岡県蜆塚貝塚の研究などで知られる。鹿間時夫についてはこのブログで何度も登場された大御所であるので、ここでは触れない。Shuichi Tsugawa については論文の中に東京都の住所が記してあるだけで、勤務先などを調べたが分からなかった。津川主一といえば、合唱に関する有名人がいるが、別人だろう。
Bの報告 篠元(おそらく二郎),1895 肥前國北松浦郡江里村江里峠の第三紀砂岩上に印せるPalaeotherium magnum (?) の足跡.
これについては、古い話だが当ブログに現地を訪問して探した(結局なかったが)記録を掲載した。2012年3月21日から4月7日までのうち3回の連載だった。文献の詳細と場所の現状についてはそれをご覧いただきたい。
231 江里峠付近の転石 2012.3.19 足跡は発見できなかった
文中に足跡の写真はなく、サイズは前後径が4寸5分(15センチ弱)で、全形は前方に0を左右に三つ並べ、後方にもう一つの0を活字で並べて形容している。足跡は1個ではなく「群れをなして歩行したるものゝ如く・・夥しき印痕」があったという。表題には「Palaeotherium magnum (?) の足跡」となっているが、文中では「右足跡印痕の如きは果して表題に於ける動物に属するや否未だ詳かならざれば」と言っている。
Palaeotherium magnum は1804年にCuvier が提唱したバクに近い奇蹄類で、ヨーロッパ(フランス・ギリシャ・ポルトガル・スペイン・イギリス)の始新世の地層から化石が知られる。ずっと後の1980年に、Ellenberger (1980) がこの類の足跡として「Palaeotheriipus」というichnigenusを提唱した(Ellenberger, Paul, 1980. Sur les Empreintes de pas Gros mammiferes de l’Eocene Superieur de Garrigues-ste-eulalie (Gard). Palaeovertebrata, Montpellier, Mém. Jubil. R. Lavocat: 37-78,14 fig., 2 pl. (フランス ガリーク・サン・デュアリーの始新統上部の大型哺乳類足跡について)。ここでは新(生痕)種 Palaeotheriipus similimedius を提唱した(p. 59)が、図示された後ろ足の足跡は丸を4つ(3つ+ひとつ)並べたようには見えない。
232 Ellenberg, 1980 60ページの図(図番号なし)一部 Palaeotheriipus similimedius
日本でもいくつかのバク類足跡(またはそれに近いもの)の報告があるが、中新世のものが多い。
A 1894 山崎直方 馴鹿嘗て日本の野に遊ぶ. JGSJ, vol. 1: 241
B 1895 篠元(おそらく二郎) 肥前國北松浦郡江里村江里峠の第三紀砂岩上に印せるPalaeotherium magnum (?) の足跡. JGSJ, vol. 2: 116-117
C 1896 値賀威一郎 第三紀層中より哺乳類の化石出づ. JGSJ, vol. 3: 63-64.
D 1897 神保(小虎) 信濃國第三紀の海獣. JGSJ, vol. 4: 355.
E 1899 吉原(重康) 犀骨の發見. JGSJ, vol. 6: 236.
F 1900 矢部(長克) 布袋石は鯨の耳骨なり. JGSJ, vol. 7: 118-119.
G 1900 横山(又次郎) 海牛の化石. JGSJ, vol. 7: 363.
ここまでが19世紀中に発表されたものだが、現在インターネットで公開されている地質学雑誌の論文中には姿を現さず、いずれも「雑報」などとして扱われている。
まず、A の報告、山崎直方, 1894 「馴鹿嘗て日本の野に遊ぶ」について。「馴鹿」はトナカイで、「じゅんろく」とも読みどちらを意図して書かれたのかは分からない。報文はそれに似た角の化石があることを報じたもの。2か所の標本について記述がある。まず「陸奥国上北郡の沼崎停車場より一里ばかり西北の貝塚村字貝盛の貝墟」を調査した若林勝邦が、人類遺物と共に数多くの鹿角中「一種偉大にして扁平なる馴鹿の角二個を採集して、報告書に記したという。報告書は、「陸奧國上北郡貝塚村貝塚調査報告」として東洋学藝雑誌 No. 146: p584~591(1893年11月発行)に掲載されているという。残念ながらこの原文はインターネットで閲覧できなかったが、標本の図が山崎の論文に再録されている。「扁平」というからには、トナカイではない可能性がある。産出地は沼崎駅(当時日本鉄道東北本線。その後国有化され1959年に上北町駅に改称。場所はJR東日本を経て現在は青い森鉄道に所属)から4km西北の七戸町二ツ森貝塚(縄文時代)。
別の場所の標本がこれと近いものであるとしている。「上毛私記」という書物に、1797年黒岩山(上野)陰に竜骨が出たという記録があって、角や歯などの図を提示しているがその図は不十分だ、というのだ。黒岩の標本については、Shikama and Tsugawa, 1962で英文報告が出された。産出地は群馬県富岡市上黒岩で、文中にある「上野」は「こうづけ」のこと。現在群馬県立自然史博物館のあるあたり。学名はSinomegaceros (Sinomegaceroides) yabei (Shikama) としている。もとの名は、1938年にShikamaが提示したCervus (Sinomegaceros) yabei Shikamaである。また。江戸時代に発見された標本の保管に関する経緯などについては、鹿間・長谷川, 1962 の日本語論文もある。なお、Megaceros 属はヨーロッパのもの、「Sino-」はもちろん「中国の」の意。「yabei」は東北帝国大学の矢部長克教授に献名したもの。またCervus属にはニホンジカなども属している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/3d/43aa565149e36cc19a9224575eb05b1f.jpg)
229 Shikama and Tsugawa, 1962, Plate 3
そして山崎は比較した図を出している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/d4/4e5a7b75c13318a8e9fcbed15b7ac761.jpg)
230 山崎, 1894の図
左の二つ(一・二)が黒岩山のもの、右の三・四が若林の図から「許諾を得て」写したもの、としている。黒岩の標本は、当然ながら平たい広い部分があることがはっきりしているが、七戸のものがこれと同じとは思えない。前方に分岐する枝(眉枝)が掌状になっていないのだ。角座の大きさを比較すると縮尺が異なる可能性も高い。もしも七戸のものが化石なら、日本人が西欧の学問の形で記した脊椎動物化石として最初のものだったかもしれないが、そうではないだろう。
登場人物を調べてみよう。山崎直方(1870−1929):高知県生まれの地理学者。東京帝国大学教授などを務めた。若林勝邦(1862−1904)は、東京理科大学にいた人類学者で、初期の静岡県蜆塚貝塚の研究などで知られる。鹿間時夫についてはこのブログで何度も登場された大御所であるので、ここでは触れない。Shuichi Tsugawa については論文の中に東京都の住所が記してあるだけで、勤務先などを調べたが分からなかった。津川主一といえば、合唱に関する有名人がいるが、別人だろう。
Bの報告 篠元(おそらく二郎),1895 肥前國北松浦郡江里村江里峠の第三紀砂岩上に印せるPalaeotherium magnum (?) の足跡.
これについては、古い話だが当ブログに現地を訪問して探した(結局なかったが)記録を掲載した。2012年3月21日から4月7日までのうち3回の連載だった。文献の詳細と場所の現状についてはそれをご覧いただきたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/b6/45d71420d51954fcad88698a28c78694.jpg)
231 江里峠付近の転石 2012.3.19 足跡は発見できなかった
文中に足跡の写真はなく、サイズは前後径が4寸5分(15センチ弱)で、全形は前方に0を左右に三つ並べ、後方にもう一つの0を活字で並べて形容している。足跡は1個ではなく「群れをなして歩行したるものゝ如く・・夥しき印痕」があったという。表題には「Palaeotherium magnum (?) の足跡」となっているが、文中では「右足跡印痕の如きは果して表題に於ける動物に属するや否未だ詳かならざれば」と言っている。
Palaeotherium magnum は1804年にCuvier が提唱したバクに近い奇蹄類で、ヨーロッパ(フランス・ギリシャ・ポルトガル・スペイン・イギリス)の始新世の地層から化石が知られる。ずっと後の1980年に、Ellenberger (1980) がこの類の足跡として「Palaeotheriipus」というichnigenusを提唱した(Ellenberger, Paul, 1980. Sur les Empreintes de pas Gros mammiferes de l’Eocene Superieur de Garrigues-ste-eulalie (Gard). Palaeovertebrata, Montpellier, Mém. Jubil. R. Lavocat: 37-78,14 fig., 2 pl. (フランス ガリーク・サン・デュアリーの始新統上部の大型哺乳類足跡について)。ここでは新(生痕)種 Palaeotheriipus similimedius を提唱した(p. 59)が、図示された後ろ足の足跡は丸を4つ(3つ+ひとつ)並べたようには見えない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/1d/2220799fa944e58eb5adc4b6bc993894.jpg)
232 Ellenberg, 1980 60ページの図(図番号なし)一部 Palaeotheriipus similimedius
日本でもいくつかのバク類足跡(またはそれに近いもの)の報告があるが、中新世のものが多い。