OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

最後の蒸気機関車たち その68 1972年9月

2013年11月30日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その68 1972年9月
The last steam locomotives in Japan. No. 68 (Sep. 1972)


手違いで投稿が一日遅れてしまった。おわびする。
名寄駅で宗谷本線の普通列車から下車して乗ってきた324列車が出て行くところを撮影。


356N 宗谷本線名寄駅 1972.9.5 C55-47 324列車
356-360: Soya line, Nayoro Station, Hokkaido.


357N 宗谷本線名寄駅 1972.9.5 C55-30 321列車


358N 宗谷本線名寄駅 1972.9.5 C55-30 321列車

C55-30は流線型に改造されたのをもどしたもの。運転室の屋根部分が丸くなっているのと、炭水車側面が高いのが特徴。この写真で、運転室窓の上辺より高い所に、炭水車側面の上辺があるのがわかる。そのためにC55-30は保存される計画だったのだが、1975年2月に廃車後手違いで!解体されてしまい、流線型改造機は現在一両も残っていない。一時小樽にC55-30として保存されていたものは実はC55-50であり、銘板などを偽っていたのだが、現在はC55-50として保管されている。


359N 宗谷本線名寄駅 1972.9.5 49651


360N 宗谷本線名寄駅 1972.9.5 49651

名寄駅で1時間待って、深名線に乗車。深川経由で札幌へ。深名線の景色はただ広くて人気(ひとけ)がなく、後に(1995年)廃止されてもしかたないかな、と思わせるものだった。49651としてあるが、実は最後の数字が読めない。49650台の番号の機関車で、1972年に北海道で動いていたのは、49651(名寄)49655(岩見沢)49658(滝川:7月廃車)だけ。従って49651でよさそうである。49651は、1975年6月に廃車。

登場蒸機 C55(写真356~358)9600(写真359・360)

2020.6.18 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

私の化石組標本(その18:追加・改訂)

2013年11月26日 | 鉱物・化石組標本
私の化石組標本(その18:追加・改訂)
My set of fossil specimens, part 18: revised

キリガイダマシ標本の交換

昨日投稿した化石組標本18 のキリガイダマシ標本が、記述したようになさけないものだったので、これを廃棄し、今年(2013年)10月1日採集のものからずっと良いものを取り出したので交換する。前の記述のうち、「港から反時計回りに少し行った岩棚のノジュールの中のものが保存がいいので、この組標本もそれに代えたい。いい標本が採れたら考えよう。」を変更して「港から反時計回りに少し行った岩棚のノジュールの中のものが保存がいいので、そこのものを使った。」に改訂する。


55.5 キリガイダマシ 藍島産 スケールは5cm
 
標本は少し小さめだが、ら脈がきれいに保存されている。

私の化石組標本(その18)

2013年11月25日 | 鉱物・化石組標本
私の化石組標本(その18)
My set of fossil specimens, part 18

新生代の二回目。


52 標本53-56  scale: 5cm
Specimen 53-56: Negaprion, Glycymeris, Turritella, plotopterid

標本53 レモンザメの一種 Negaprion 馬島産 漸新世 軟骨魚類
芦屋層群に産するサメの内、最も数が多いのがこの種類。鋸歯のないのが特徴。この標本は馬島の北岸でみつけたもので、そのあたりから出てくる脊椎動物化石は、砂岩の固結が弱いので、クリーニングがしやすく、時に大変細かい所まで剖出できるので、好きな場所の一つ。でも最近は少なくなった。私が採り尽くしたのかな。


53 サメの歯を産する馬島北岸(2011年4月撮影)

54 発見した時のようす(2011年4月撮影)

Negaprionは Whiteley = Gilbert Percy Whitley 既出=、1940年の命名。現生のlemon shark =Negaprion brevirostris (Poey) の属名。Lemon shark は大西洋の西岸とアフリカ、メキシコからエクアドルあたりの太平洋岸に生息する。化石種では、Negaprion eurybathrodon が知られる。始新世(アメリカとパキスタン)中新世(コスタリカ・イタリア・サウジアラビア・ベネズエラ)からの報告がある。現生の種類は日本の八重山諸島などに生息するが、比較的最近になって生息することが確かめられた。なお、レモンの名は、背側が黄色味を帯びることから。
 Negaprionの語源はネットでは出てこない。Prionはギリシャ語で「のこぎり」の意味だから、この鮫の歯の縁に鋸歯がないことを言っているのだろうか? でも否定接頭語にNegaなんてつけるかな?。

標本54 グリキメリス Glycymeris 藍島産 漸新世 軟体動物・二枚貝類
藍島で化石層をつくっているグリキメリスは、馬島の大部分のものとはサイズが違っている。馬島の種類G. cisshuensis Makiyama1926ならとてもこの組標本の小部屋には入りきらない。藍島の種類はG. nagaoi Matsukuma 1979なのだそうで、サイズと外形に違いがある。通常砂岩との分離が悪いのでなかなかいい標本が得られないが、海中にながくあった転石が打ち上げられた時などにうまく分離するものがある。この標本もそうしたものの一つで、藍島の西岸で採集した。


55 藍島のグリキメリス化石層(標本とは別の場所)(2013年3月撮影)

 グリキメリス属解説はすでに中生代に出てきたので、ここでは省略。なお、G. cisshuensis の語源は現・北朝鮮の吉州であるから、和名は「キッシュウタマキガイ」がよい。ネットでは「シシュウタマキガイ」とか「キッシュタマキガイ」が出てくるが、不適当。G. nagaoi の方は北九州の古第三紀層の層位学的研究をまとめられた北海道帝国大学長尾巧教授(1891-1943)の名である。

標本55 キリガイダマシ Turritella 藍島産 漸新世 軟体動物・巻貝類
この種類も、芦屋層群の代表的なもの。「アシヤキリガイダマシ」とか「インフラリラータ・キリガイダマシ」と呼ばれる。砂岩中にも泥岩中にも散在的に産するが、藍島には、これの密集した化石層がある。そのやや上位の地層で分離が良いところがあって、標本を採集するのだが、なかなかいいのが見付からない。むしろ、港から反時計回りに少し行った岩棚のノジュールの中のものが保存がいいので、この組標本もそれに代えたい。いい標本が採れたら考えよう。
 Turritella の命名は1799年Lamarck = Jean Baptiste Lamarck 既出= による。英語の「turret」が装飾的な建物の小塔を意味するらしい。ラテン語ではこれをturres というのでこれが語源。でも、現在turretと言えば、軍艦、戦闘機の銃座、砲塔、とくに使われるのが戦車の回転砲塔のことである。平和な古生物学にもそんなものに関連する語が出てくる。
 種類は前に書いたようにTurritella infralirata Nagao である。螺管の筋が多いことが語源だろう。


56 現生キリガイダマシ:フィリピン産? Scale 5cm

標本56 ペンギンモドキ plotopterid 藍島産 漸新世 鳥類
北部九州の漸新世地層に特徴的に産するペンギンモドキは鳥類化石として日本でも最重要な種類。潜水性の飛べない海鳥である。標本は百個以上が知られ、いくつかの骨が関節状態で保存されている標本から研究に着手された。すでに三種類が記載されているが、他に十種類くらいがあるだろうと言われている。北部九州・山口以外では、岐阜県・福島県・北海道から産出の報告があるが、これらも同一種ではないようなのでさらに種数が多い。現在は頭骨に研究の重点が置かれている。今後四肢骨の検討に進むころには、何種かの新種が設定されるだろう。脊椎骨、ゆびの骨はさらに検討が遅れるだろうし、肋骨に至っては数えるほどしか既知の標本がない。
 この標本は、小型のプロトプテルム類の足のゆびの骨。これらの部分の研究ができるようになるには、何年かかかりそう。でも、博物館にあるべき標本なので、まもなくレプリカに置き換え、実物は寄贈しよう。
 プロトプテルム Plotopterum はアメリカ・カリフォルニア州で発見された標本に対してつけられた属名。命名は1969年、Howard = Hildegarde Howard (1901-1998) アメリカ・女性)= で、Plotoは「泳ぐ」、pterumは「翼」という意味。今から見るとカケラみたいな小さな骨一個で、この鳥の生態まで見通したのには驚きであり、大いなる敬意を覚える。日本のものは別属であるが同一のプロトプテルム科に属するということで、まとめてプロトプテルム類としている。プロトプテルム科には数属が含まれ、アメリカ西岸と日本に産出が知られる。ウなどとともにペリカン目に含められているが、最近脳の形にペンギンとの類似が指摘されている。

自分で採集した標本について
標本53 レモンザメの一種
  北九州市小倉北区馬島
標本54 グリキメリス 標本55 キリガイダマシ 標本56 

長年お世話になっています その1

2013年11月21日 | お世話になります
長年お世話になっています その1
撃たれた鴨

急に寒くなって、ダウンジャケットのお世話になる季節になった。ユニクロの有名な軽いのを使っているのだが…。


1 ウルトラライトダウンジャケット

 私のには、ごらんのように肩にワッペンが付けてある。三年ほど前の今ごろのウォーキングで、駐車しているトラックの横をすり抜けた時、立て掛けてあった梱包木枠にわずかに肩をこすった。たちの悪い事に、木枠から釘が出ていてジャケットに傷を付け、ぱっと羽毛が飛び散った。まるで散弾銃に撃たれたカモである。あわてて指で押さえ、近くにあったN日曜大工店で買物をしてレジでセロテープを5センチほどもらって押えて帰宅した。手元にあったニュージーランド土産のワッペンを縫い付けて(もちろん切れ口は閉じてから)なんとか使用できるようにしている。ワッペンがあって不思議でない場所のつもり。肩のワッペンというのは左側に決まっているなんてことはないでしょうね。
 このジャケットを使う前は、冬の外出はずっと革ジャンで過ごしていた。その革ジャンは非常に長く愛用していたし今後も使いつづける。
 そんなわけで、このシリーズでは、長くお世話になっている物を紹介していくつもり。アルバムや記念品などは長く持つのが当り前なので記さない。使いつづけているものが一番面白そう。実は私はたいへん「物持ち」のいい人間で、十年以上使っているものがたくさんある。中でも革ジャンは1990年末の入手だから、24シーズン目にあたる。イタリア製のけっこう高いもの(アルマーニ製:たぶん6万円ぐらい)だが、このくらい使えばお値打ちということになろう。


2 最初のシーズンの革ジャン 1991年1月中国武漢市で

 ごらんのように最初はいいツヤがあって風もよく防ぎ、冬の中国内陸でも暖かいと思ったのだが、大きな欠点があって、首回りから暖気が抜けるのだ。そこで、この旅行の帰途香港で、刺しゅうのある絹製の白いスカーフを購入してみた。りりしい戦闘機乗りのように見えるはずだったのだが、鏡を見るとどう見ても農作業の手ぬぐいにしか見えないので、ついにこのスカーフを使うことはなかった(2011年10月の「こだわり」ブログ記事と重複)。代って、1998年に購入したタータンチェックのスカーフを長く使っている。これについては後で記すことにする。
 革ジャンの手入れについて記す。最近は毎年5月ごろの快晴の日に、次のような作業を行なっている。まず、手首、襟、裾などのニットの部分をぬるま湯で部分洗い。洗剤を使うと、けっこう汚れが出てくる。水洗して陰干し一日。そうすると革の部分に白いシミが出るので、これを濡れタオルでふきとって、再度陰干し数時間。乾いたら、革部分にたっぷりとミンクオイルまたはシープオイルをすり込んで、陰干し。これで、かなりしなやかさを保持できる。

 次回は革ジャンの続き。「お世話になっています」シリーズは、不定期掲載で、「蒸気機関車」シリーズの間に挿入。何回続くか決めていない。

「ヴォーカライズ」に登場する鉄道

2013年11月19日 | 今日このごろ
毎月19日にAKCヴォーカライズ復刻のお知らせを行っている。今月分もすでに投稿したのだが、その折に失敗に気づいた。「ヴォーカライズ」に登場する鉄道 部分に重複があったのだ。10月投稿の鉄道部分に、9月の内容を再び載せてしまった。原稿はすでに1月まで書いてあったのを、コピーし損ねたのだ。そこで、重複した10月分の穴埋めとして、「鉄道」部分だけ投稿する。

「ヴォーカライズ」に登場する鉄道 その5

87号 15ページ「室生寺への遠足」1965年10月7日(木)
私と同期のM君の手記である。私は前日の夜行列車で京都から福井(京都・福井間を夜行列車!)に向かい、福井市の鮎川で第三紀化石を採集していたから、参加できなかった。内容は鉄道マニア向けで、はやりの言葉で言えば「実におもしろい!」。
「八時発の近鉄急行で中川まで行き、ここで九時半発の名張行各停に乗り換えた。」
「十一時に、室生口大野着、」
「帰りは、関西線回りで帰ったところ、予備知識不足のため、いたるところでヘマをやり、結局大野から名古屋まで四時間二十七分もかかり」
というのが、本文の鉄道関連の部分である。まず地理関係から説明すると、近鉄名古屋線は、伊勢中川で同大阪線と連絡し、そこから大阪方面に行くと、トンネルを抜けて伊賀神戸、名張と進む。室生口大野駅は、名張の四つ先(大阪寄り)にある。だから、名張行き各駅停車に乗った一行は、名張でもう一度乗り換えたことになる。
 帰途は、伊賀神戸から近鉄伊賀線(現在は伊賀鉄道)に乗り換え、北に向って伊賀上野で関西本線に移って、亀山・四日市を通って多分最後まで関西本線で名古屋に帰った、というのだ。
 では、現在の時刻表を使って、このルートをたどってみよう。使用したのは、近鉄時刻表2009年号、それにJTB時刻表2013年3月号、平日ダイヤを使った。
 行き: 
近鉄名古屋901発 急行伊勢中川行き 1016伊勢中川着
伊勢中川1021発 急行大阪上本町行き 1118室生口大野着
驚いたことに、当時とほとんど同時刻に室生口に着く。伊勢中川から急行を使ったが、このあたりの青山トンネルを抜ける所は、地勢的にも生活的にも「山越え」で、便数も少なく、普通電車との時間的な違いもあまりない。また、名古屋を900に出る大阪難波行きの特急に乗って、三重県内一つだけ停車する津で降り、松阪行きの急行で伊勢中川、さらに特急で名張、急行と乗り換えれば、1052に室生口大野に着くことが可能ではある。いずれにしても、二時間かかるのは、今と同じくらいと考えていい。
 ところで、この5年前の1959年、伊勢湾台風(9月)の復旧を好機ととらえて、近鉄は名古屋線の軌間を大阪線と同じ1435mmに変更した(11月)。それまでは名古屋~伊勢中川間は狭軌1067mmであったから、大阪・名古屋をつなぐ特急の運転は不可能であったのが、これによって実現したし、名古屋から鳥羽に向かう場合も乗り換えが不要になった。大阪・名古屋間の旅客運送に、新幹線と戦って、善戦しているのもこの軌間変更が成功したから。一時はこの間の特急に愛称を付けたりしていた。中でもユニークなのは一時的にだが名古屋行最終便に「おわり」と付けたのは傑作?かな。旧国名で列車愛称に使われなかったのは、尾張と越中だけだ、と言った人がいた(他にもありそう、たとえば「三河」は聞いたことがない。)が、「おわり」はあったのだ。
 さらに、1961年に「中川短絡線」が設置されて、名古屋大阪間を運行する特急は伊勢中川駅を通らないで(方向転換せずに)直通できるようになった。2012年には短絡線はさらに改良された。
 現在、伊勢中川駅を経由して、名古屋線と大阪線にまたがって運行されるのは原則的に特急だけ。ただし、早朝一本だけ、名張発名古屋行きの急行がある。

 では帰りのルートはどうだろう。「大野から名古屋まで四時間二十七分」とあるが、時刻の記録が無い。室生口大野発を17時頃と考えて、現在の時刻表をたどってみよう。
室生口大野1712発 急行宇治山田行き 1734伊賀神戸着
伊賀神戸1748発 1818上野市着
上野市1852発 1859伊賀上野着
伊賀上野1900発 1953亀山着
亀山1955発 2119名古屋着(途中快速に乗り換えれば2111着)
 快速に乗り換えて3時間49分。昔(4時間27分)よりも38分早く着くけれども、近鉄で行きと同じ径路をもどれば、1925に名古屋に着く(2時間13分:室生寺帰途の半分!)から、この選択は失敗。ネックは伊賀鉄道部分で、ひとつづきの路線でありながら上野市で二つに分かれて運行されるため、通過だけするには不便にできているから。それに、近年は関西本線の列車数は非常に少なくなって、事実上関西本線の統一はないも同然で、現に時刻表の関西本線の載っている所をみると唖然とする。名古屋・亀山間 亀山・加茂間 大阪・加茂間 の三つに分けて掲載されている上に「大阪近郊区間」にも載っている。そのくらい、区間によって運行頻度が異なるのだ。
 この遠足に私が参加していたとしても、当時の私は鉄道マニアではなかったから、S君のいいなりに大回りしたことだったろう。今なら、逆に大回りの方が趣味的だとして喜ぶかも知れないが、4時間半はちょっと長すぎる。