OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

父の遺した写真 52  船いろいろ

2017年08月28日 | 鉄道
父の遺した写真 52  船いろいろ

 次の写真は、隠岐島への連絡船。

52-1 おきじ丸 別府港 1968.6.06

 おきじ丸は1963年に就航し、1979年まで境港・別府港間を3時間で結んでいた。別府(べっぷ)港は島前の西ノ島町にある。写真は接岸する直前だろう。父は6月5日に境港から隠岐にわたり、翌6日か7日に松江付近に戻ったようだ。

52-2 水中翼船 鳥羽港 1963.10.25

 鳥羽港に入ってくる水中翼船。港域では水中翼によって水面から持ち上げる「翼走」状態にできないので普通の船のように見える。名鉄海上観光のPT-50という型の船。現在、同社は水中翼船を用いていない。この船は鳥羽と伊良湖を結んでいたのだろうか。

52-3 石山駅港 1958.8.28

 桟橋に大きな文字看板があって、「琵琶湖汽船石山駅港のりば」と記してある。琵琶湖汽船は琵琶湖の客船を数多く運航する会社で、現在も活躍している。JTB時刻表に現在(2017年3月号)掲載されている琵琶湖の水上交通は、港から出て巡回するものと、竹生島・多景島・沖島への連絡船があるが、対岸に渡るような船便は長浜港と今津港を結ぶ「琵琶湖横断航路」たった一つが残っている。大津港から琵琶湖博物館のある烏丸半島まで近年まで定期船が就航していたが現在はチャーター便などの運行しかない。私は2003年に乗船した。

52-4 大津港と烏丸半島を結んでいたLansing号 2003.3.25

「石山駅港」というのはネットでは出てこないが、別の「石山寺港」というのがある。坂本・大津・石山寺・南郷の各港を結ぶ「湖南航路」というのが1968年まで運行されていたようだ。石山駅(東海道本線)と石山寺駅(京阪石山坂本線)とは、ずいぶん離れている。写真52-3は石山駅に近いところ。右に見える築堤は国道一号線の瀬田川大橋のためのもの。琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川を横切る国道一号線は、当初瀬田唐橋を使っていたが、京都草津間の迂回を避けるため、1959年(写真の翌年)に瀬田川大橋を唐橋の約500メートル上流に渡した。現在は更に2キロ上流に近江大橋がある(国道一号線ではない)。写真の奥に見える木造の橋は瀬田唐橋。視点がやや高いので、東海道本線の車窓から撮影したのだろう。父は前日名古屋を出て滋賀県のどこかに宿泊し、この日は京都に向かって移動していた。
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 写真の転載はご遠慮いただきたい。

1990年の韓国恐竜足跡見学旅行 その14 脊椎動物化石

2017年08月25日 | 昔の旅行
1990年の韓国恐竜足跡見学旅行 その14 脊椎動物化石
Trip to Korea to observe dinosaur footprints, 1990: No. 14 fossils of vertebrates


14-1 露頭を見て回る 1990.10.19
Looking for fossils

 10月19日、柳樹里の運河掘削地の露頭をさらに見ていくと、一つの層準に脊椎動物の骨が点々と見られる。断面だけしか見えないから、種類が分るものは少ないが、カメ類の甲羅が多い。どうやらAdocusのようだ。

14-2 骨化石 1990.10.19
A fossil bone 1990.10.19

14-3 上の化石の拡大 1990.10.19
Enlarged picture

 この柳樹里の見学を最後として、ほとんど記憶がない。おそらく疲れて車内で寝ていたにだろう。この日に釜山に着いて夜行のフェリーで帰国した。

14-4 帰途の私 1990.10.19
Waiting the ship

 上の写真の場所の記録がないが、おそらく釜山のフェリーを待っているところだろう。私の向かって左にあるのが私のリュックで、初日に釜山で買ったものであるから、いかにも「韓国色」である。その左にあるのが、巻き取った足跡の型。10月20日朝、無事に下関港に到着。「1990年の韓国恐竜足跡見学旅行」シリーズはこれで終了。

クマゼミの産卵痕

2017年08月22日 | 今日このごろ
クマゼミの産卵痕

 庭の植木が伸びすぎたので剪定していたら、トネリコの枝に見慣れない痕があった。クマゼミの産卵痕と考えた。

産卵痕 以下いずれも 2017.8.21 小倉南区自宅

 産卵痕は、昨年剪定してできた枯れた部分で、直径1センチぐらいのところに限られている。上の写真では、左右二本の枯れ枝に見られ、左側では100か所以上、右の枝では50か所ぐらいの場所がささくれだっている。ささくれは、長さ3ミリ程度、幅0.8ミリぐらいで、どれも上方から差し込んだ産卵管で外に向かって樹皮を剥いたようになっている。ささくれの陰に産卵の穴がある。穴の配列には規則性は無さそう。

拡大写真

 内部がどうなっているか、二つに縦割りにしてみた。

枯れ枝を二つに割る(23日・画像を変更した)

 写真は、左が枝先側。スケールは1センチ。下に、上の写真を薄くして、穴の縁(青線)、卵(黄色)を示した。枝の中央を柔らかい木質の部分(黒線)が貫いている。穴は斜めに入って、次第に曲がり、枝の方向に近くなっていく。卵は白色で1ミリよりやや長い米粒型。
 庭から取ってきたこの標本、このあとどうしようか。クマゼミは樹の樹液を吸うから樹木のためにはよくないし、朝方やかましいから返さないのがいいのかなあ。

写真の整理 その2 旅行リスト

2017年08月19日 | 今日このごろ
写真の整理 その2 旅行リスト

 写真を時系列で並べるためには、旅行などの記録が必要。ところが退職時に思い切って捨てたものにメモ用の手帳が含まれていたために、リストの作成は簡単ではなかった。フィルムなどの撮影日時や、鉄道の乗車記録などを使って、大体のリストができたが、不完全。旅行リストに入っているデータは次のような項目である。日付・宿泊地・移動ルート・内容・写真ファイル名・保存してある鉄道切符・講演・pptファイル名・夜行列車・初乗車鉄道線・県の初訪問・鉄道乗車距離と積算・空路カウント・空路の距離と積算・訪問県数。
 フィルムには、年ごとの通し番号を記入してあったから、時系列にはなるが、正確な日付のないものもある。フィルムも以前に劣化の激しいものを大分捨てた。今のスキャナーや、画像処理ソフトなら、相当劣化していても時間をかければ復元できるのだが、捨ててしまったのが残念。フィルムの撮影日付も旅行リストに記入していった。スライドも同様だが、こちらの方では日付が記入してある率がやや高い。

5 フィルムの保管
 スライドは専用の整理箱に入っているが、デジタル化が終われば捨てるつもりである。フィルムも捨ててもいいかな。デジタルデータは時系列でフォルダーを作って整理する予定だが、それだけでは欲しいものを探す手間がかかりそうなので検索のことを検討中。場所とテーマと、それに標本写真では別系列のエクセルの表がいるように思う。

6 スライドの保管

 デジタル化を開始する前に、データの容量を概算した。前回、写真の種類ごとの枚数を概算したから、一枚あたりの容量を決めればわかる。

フィルム・スライド 1,200 dpi でスキャンすると約1MB/枚 約10,000枚 10GB
プリント 800 dpi でスキャンすると約1.5MB/枚 約4,500枚 7GB
デジタル写真 平均2.5 MB/枚 約6,000枚 15GB

これらを年別のフォルダーに入れ、さらに5年ごとにまとめてファイルする。

7 写真の保存

 当初の概算で、合計32GBぐらいとなった。他にエクセルの表がいくつかあるがこちらははるかにサイズが小さい。一枚あたりの容量も誤差があるが、この程度ならコンピュータもバックアップの機器も十分な空きがあると当初考えた。現在、デジタル化率60%で、写真の総容量は19.9 GB であるから、最初の想定(60%で19.2 GB)と比べてあまり誤差はない。

父の遺した写真 51 三角島原フェリー

2017年08月16日 | 鉄道
父の遺した写真 51 三角島原フェリー

 公共交通機関としてのフェリーは、現在のように重要なものではなかった。貨物の運送が主にトラックになった現在は、フェリーの重要性が増している。

51-1 三角島原フェリー 1965.5.26

 写真は三角島原フェリー(九州横断観光フェリー)で、撮影の前年1964年に営業を開始し、島原外港と三角を結んでいた(2006年まで)。撮影場所が記録されていないが、フィルムが「長崎」のブロックに分類されていたから島原外港だろう。船名は不明。

51-2 三角島原フェリー 1965.5.26

 船首から接岸すると、潮の上下に合わせてゲートで傾きを変える桟橋を通じて車を積み込む。最近の船では、船尾側も同じ構造になっていて、車は方向を変えることなく出ていくことができる。この船はそうなっているか不明だが、船橋が前後対称でないから貫通型ではないようだ。

51-3 三角島原フェリー 1965.5.26

 観光バスが積み込まれていく。乗客は乗ったままのようだ。
 写真の転載はご遠慮いただきたい。