OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

古い本 その162 ドーバー海峡のトンネル 4

2024年02月29日 | 今日このごろ
古い本 その162 ドーバー海峡のトンネル 4

4. イギリスの調査(1872年) 
 最後に、イギリスの文献を当たってみよう。
○ Topley, William. 1872. The Geology of the Straits of Dover. The Quarterly Journal of Science, and Annals of Mining, Metallurgy. Engineering, Industrial Arts, Manufactures and Technology, New series. vol, 2: 208-223, pls. 3-5.(Dover 海峡の地質)
 この論文には、前のフランスのものと違って地質に関することだけが記述されている。各層について、分布と層厚などの側方変化、透水の程度などが順に記載され、結論としてChalk-without-Flint 層だけがトンネルを通すのに適した層であるとした。この結論はそのまま実際のトンネルに適用された。各地層の特徴などの知見は現在もあまり変更されていない。ただ、断層の存在については、フランスの海岸付近のものが見落とされているようだ。文中に3枚の図版ページ(Pls. 3-5)が挟まれている図版3は、地層断面図で、3か所の断面図がある。

606 Topley, 1872. Pl. 3. 地質断面図

 それぞれ、イギリス側の海岸線に沿ったもの、フランス側、それに海峡を横断する線のものである。残念ながら、ディジタル化がうまくいっていないので、細部が読み取れない。
 図版4は柱状図で、イギリス海岸とフランス海岸の地層の重なりを図示している。

607 Topley, 1872. Pl. 4. 地質柱状図

 これもきれいでないので、少々直線を書き直した。Gray Chalk層よりも上は、両海岸でよく一致した層序を見せているのに対して、それよりも下位ではフランス側で急激に層厚が薄くなっていくのが分かる。
 図版5は、海峡付近の地質図である。当時は海面下の部分の地質調査は困難であったから、海の部分の地質は上部層の境界だけが示してある。それに加えて水深が等深線の形で書き込んである。等深線の間隔は10 Fathom(尋)=18 m。さらにトンネルのルートが2本書き込んであるが、しかし北側の線では上部のフリントを伴う白亜層よりも上位の地層中を通ることになり、そこでは地下水が多くなりそう。これに対して南の線では。一番好適なフリントを伴う白亜層よりも下位の層を通ることになり、いずれも本文の主張とは異なる。

608 Topley, 1872. Pl. 5. 地質図とトンネル計画線

 試しに、この図に完成したトンネルのルートを重ねてみた。

609 Topley, 1872. Pl. 5. に1994年完成したトンネルのルートを書き込んだもの。

 ご覧のように、二つの案のちょうど中間に建設されたことがわかる。これであれば、(当時の海底地質の推定と合わせても)深さを選べば好適な地層を通ることができる。いずれにしてもこの100年以上の歴史によってトンネルに必要な条件が変化しているので、その点も興味ぶかい。
 当時の計画と異なる条件については、次のようなことが指摘できる。
1. 鉄道が電車または電気機関車で運行できるようになったこと。
 これによって、勾配の制限がゆるくなったことや、電車であれば路床にかかる重量がずっと少なくなった。さらに大きな利点として、換気の問題が大幅に軽減された。中間に換気口を設ける必要が無くなったので、海峡中程にある浅瀬に関わらずにルートの設定をすることができた。
2. シールド工法が開発されたこと
 これによって工期が短縮できたこと。途中に立坑などを設ける必要がなくなったことで、困難が減少した。
3. (これを先に書くべきだったかもしれない)海底下の地質を調査できるようになったこと
 現在では、海上の船から強い音波を発生させ、その反射から海面下の地質構造を推定できる。当時のように岩石を採取する方法では調査できる地点が限られることや、標本の採取位置や状況に不確定な要素があった。
 William Topley (1841−1894)はイギリスの地質学者で、英国地質学会会長を務めた。全部で16ページほどだからそれほど長い文ではないが、章立てがないから全容が明瞭ではない。
 Topley. 1872 で面白かったのは(内容と無関係なのだが)、活字の中に見たことのない合字があったので紹介しておこう。アルファベットのcとtが続いたときに下のような活字を使っていた。二つの文字cとtが「connect」されているのだ。見たところ、すべてのctの連続場所で使われていた。

610 cとtの合字

 面白そうなので、機会を改めてこの件を追跡するつもり。

2024年3月のカレンダー

2024年02月25日 | 今日このごろ

 今月はBuckland, 1824の3枚目の図版(Plate 43)を紹介する。図のFigs.の数字は小さくて読みづらいので大きく書き直した。下に2つのスケールがある。どちらも12インチで、右のスケールはFigs.3, 5, 6に対応する。図版説明によると、それぞれの骨名は次の通り。さらにスケールから計算した長さ(Fig. 2は図の縦方向、他は横方向)を記入した。
Fig. 1. 肋骨の上部。二つの関節が見られる。二か所の破断面での断面図が添えられている。43 cm
Fig. 2. 小さな疑肋骨。Fig. 1 と同じように二つの関節を持つ。21 cm
Fig. 3. 腸骨の外側。74 cm
Fig. 4. 非常に小さな個体の恥骨。その横に平らな端部分の断面図が添えられている。13 cm
Fig. 5. 断片的な骨で、おそらく坐骨。周辺は非常に分厚い。30 cm
Fig. 6. 平たい骨の断片で、約2インチの厚みを持つ。肩甲骨の一部か。36 cm
 上の骨名の中で疑肋骨としたのは、原文で「false rib」である。肋骨のうち、その胸骨側が(途中軟骨の部分があるが)胸骨と一対一で繋がるのをtrue ribと区別することがある。それに対して一番後ろのtrue rib の軟骨部に合流して、胸骨に繋がるのをfalse ribと呼ぶ。日本では真肋・仮肋とする場合もある。Fig. 2の肋骨は短いので false ribと考えたのだろうか。
 ここに示したものも、後のOwenの論文に出てくるので、順に見ていこう。

3-2 Owen, 1856, Tab. 4. Megalosaurus. 肋骨など

 この図はOwenのTab. 4で、原本では縦長であるが、ここでは横位置においた。スケールは無かったので、Fig. 3の肋骨の長さから計算して書き加えた。5個の標本がある。図版解説を訳しておこう。ついでに、カッコ内にBuckland. 1824, Plate 43のFig.番号を添える。
Fig. 1. 頸椎肋骨または前方の胸椎肋骨。(Fig.2)
Fig. 2. 後続の肋骨。左の図は肋骨頭と結節の部分を上から見た図。(対応するもの無し)
Fig. 3. 大きな個体の後方の肋骨。(Fig. 1)
Fig. 4. 右の鎖骨。(Buckland, 1824, Plate 44)これについては来月記す。
Fig. 5. 右の坐骨(Fig. 4)
 それぞれの図は、Bucklandの引き写しで、別に描いたというよりも同じもののように見える。このように、骨の判定はBucklandとはかなり異なる。まず疑肋骨とした肋骨を頸椎肋骨かその後ろの胸椎の肋骨とした。爬虫類では頸椎に肋骨があるのが普通。Gilmore, 1920(論文名はこの文末にまとめる)の文中に、最前方の胸椎肋骨のスケッチがあったので示す。

3-3 Gilmore,1920. , p. 303, Fig. 35, Antrodemus (= Allosaurus) の最前方胸椎肋骨 内側

 確かに良く似ている。
 次のFig. 3. 腸骨は74 cmもある大きな骨である。Bucklandは腸骨としたが、これは疑いがない。ところがOwenはこれを烏口骨と判定した。

3-4 Owen, 1856, Tab. 6. Megalosaurus. 烏口骨 上:内側 下:関節側

 では、現在の知見で恐竜類の烏口骨はどんな形をしているのだろう。

3-5 Romer, Fig. 146. (一部)Archosaurの肩帯

 RomerのOsteology of the Reptiles(original:1956、復刻版1997)に爬虫類の各グループの肩帯を比較した図がある。左からGorgosaurus(獣脚類) Alamosaurus(竜脚類) Iguanodon (鳥脚類)Kentrosaurus(剣竜類) Protoceratops(角竜類)で、上に伸びているのが肩甲骨、下の丸いのが烏口骨。どれも似ていない。
 戻って、Owen, 1856, Tab 4, Fig. 5はBucklandが恥骨としたものだがOwenは坐骨だという。確かめてみよう。Bucklandの論文から約30年後のOwenのころ、どのくらいの標本があったのかわからないが、たぶん全部が揃った肉食恐竜の骨盤の標本、などというものはまだなかったのでは? 1920年のGilmoreの本を見ると次のものがある。

3-6 Gilmore, 1920. Fig. 46. Antrodemus (=Allosaurus) valens の骨盤(after Marsh)

 この項目を記すにあたって、獣脚類の骨盤の古い図を探したのだが、そういうときに一番見つけ易いのが、すぐ上の図を引用したRomerの本でその323ページに「主竜類の骨盤」というFig.がある。そこに「after Gilmore」と引用してあった。 Romerの巻末の文献表には3件のGilmoreの竜脚類に関する論文が掲載してあった。それらの中で、たぶんこれだろうと思ってGlmore,1920を探し出した。ところがこれまた引用でとしてあるではないか。Romerは(after Marsh)と書くべきではないのか? もとのMarshの論文はあまりに多いのと、表題の書き方がはっきりしない時代なので見つからなかった。そのかわり、Gilmoreの図版に獣脚類の坐骨の図があったから、それを参考にしよう。

3-7 Gilmore,1920, Plate 12. Antrodemus (=Allosaurus) valensの坐骨 Yale University Museum 所蔵

 図の数字を大きく書き直した。1は両側の坐骨を後ろから見たところ、2は前から。3と4は、左の坐骨のそれぞれ外側と内側。あちこちの突起や関節頭のどれも図の標本と似たところはない。この坐骨の絵は、あとで別の骨のときに使う。
今回の参考文献
○ Buckland, William, 1824. Notice on the Megalosaurus or great Fossil Lizard of Stonesfield. Transactions of the Geological Society, London. 2nd Ser., vol. 1, Pt. 1: 390-396, Plates 40-44. and their explanation in 2 pages. (StonesfieldのMegalosaurus, または巨大な化石トカゲに関する報告)
○ Gilmore, Charles Whitney, 1920. Osteology of the Carnivorous Dinosauria in the United States National Museum, with special reference to the Genera Antrodemus (Allosaurus ) and Ceratosaurus. Smithsonian Institution, United States National Museum, Bulletin 110: 1-159, Plates 1-36. (U. S. National Museum の肉食恐竜の骨学。Antrodemus (Allosaurus ) と Ceratosaurus に関連して)
○ Owen, Richard, 1856. Monograph on the Fossil Reptilia of the Wealden Formations, Part 3. Megalosaurus Bucklandi. Palaeontological Society, London. Monograph. Vol. 9; 2-26, tabs. 1-12. (Wealden層の化石爬虫類モノグラフ)
○ Romer, Alfred Sherwood,(original:1956、復刻版1997). Osteology of the Reptiles. Krieger Publishing Company, Malabar, Florida. 772 pp. (爬虫類の骨学)

私の旅行データ 31 鉄道乗車 1

2024年02月21日 | 鉄道

 旅行データを記録するようになったのは、学生時代の旅行記録の一部として、とくに北海道の国鉄の乗りつぶしを試みたことだった。すぐに日本全体を対象として、乗車した区間を記録し、乗車した区間の合計距離と、全線の距離に対する「未乗車率」を記録した。残念ながらその頃のノートが失われたが、仕事に就いた頃の未乗車率の変化をグラフにしたものが残っている。ただ、その基になる数字の表がないので、図を清書してみたが精度は悪い。

旅63 昔の国鉄未乗車率のグラフ

 ノートによると、国鉄未乗車率が50%を切ったのは1969年の8月に北海道からの帰途、上越線の上り、小千谷を過ぎたあたりだった。1986年には10%を切ったことがグラグでわかる。場所は釜石線の柏木平と宮守の間。そのころから、乗車しにくいところが残ったために未乗車区間がなかなか減らなくなった。一方で、目標を国鉄(このころJRに引き継がれた)だけではなく、全鉄道に移した。JR完乗は2008年7月で、場所は大湊線の終点であった。その時にはまだ私鉄などが9線残っていたが、1年ほどですべて乗車した。最後になった私鉄は北九州市のやまぎんレトロラインだった。
 その後、開業や延長されるごとに少しずつ乗りつぶし、完乗状態と数カ所の未乗車の場所がある状態を繰り返している。東日本大震災の直後に開通した九州新幹線と名古屋の地下鉄延伸に乗った後、震災の影響で新しい鉄道の建設がストップしたため、1,000日以上も「完乗」の状態が続いた。これより後で、最も多数の未乗車線のあったのは、2019年末で7か所もあった。
 現在は4か所の鉄道が未乗車となっている。北から富山駅の富山港線延伸部分、福井駅の福井鉄道延伸部分、広島電鉄宮島駅の変更部分、それに沖縄モノレール延伸部分。北陸の二か所は駅に直結する非常に短い部分の延長で、乗りに行くのはコスパが非常に悪い。沖縄もそれだけのために行く気がしない。
 ここからが本題。この「鉄道」の範囲は、はっきりしたものではない。次のような条件で自己流に決めている。
1 毎日定期列車が走る。季節運行路線も含める。
2 モノレールも含めるが、ケーブルカー・ロープウエイ・リフトは含めない。
3 トロリーバス・バスレーンは含めない。
4 入場券で入る施設内の交通機関は含めない。(ディズニーランドの周囲を走るディズニーリゾートラインは含めるが、施設内のウェスタンリバー鉄道は含めない。上野動物園内の上野懸垂線(休止中)も含めない。)
5 鉄道連絡船は含まれていたが、現在ほぼ消滅した。唯一残っていた宮島連絡は除外した。
 これらの鉄道は、基本としてJTB時刻表に営業距離が掲載されているから、前に書いた「未乗車率」などの計算も可能である。これが実態と違う距離になっているものも多い。各地の新幹線がその例であるが、いちいち調査するのは手数がかかるのでしかたなく営業距離を用いている。
 「乗車した」というのにはいくつかのことを決めている。
1 複線区間でも片道乗車すればクリア。
2 並行増設線や、複々線も同様。また駅などで複数のレールがあっても一つ通過すればクリア。
3 なるべく夜間乗車を避ける(努力目標)。なるべく居眠りをしない(努力目標)。
4 工事などによって、複線化・立体化・橋梁の付け替えなどレールがわずかに上下・左右に移動してもOK。
5 工事によって線路の位置が大きく変わったら、その区間は未乗車となる。

 このくらい細かく決めておいても、たくさんの問題が出てくる。ここでは次の3つのジャンルの「距離の示されていない路線」について記す。定期列車が運行している(またはしていた)所に限定する。ただし、このリストは不完全だろう。

A. 異なる会社の路線を列車が直通する区間
 直通列車の運行のために、設置されたところを「連絡線」と表記する。文中で「渡り線」としたのは、複線区間などで、上り線と下り線をつなぐような形で作られた線路。形状にはいろいろあるが、「N字型」と「逆N字型」、それにこれら二つを重ねた「シザーズ型」が主な形態である。
A-1 特急「日光」「きぬがわ」がJR東北本線と東武日光線を直通する栗橋。(埼玉県)
 2006年3月に、JRと東武をつなぐ連絡線が設置された。現在1日に6列車が通る。連絡線は単線で、栗橋駅の北側でつながっている。

旅64 栗橋駅線路接続図

 この図は、googleマップから描いたもので、縦方向に大幅に縮めてある。以下に出てくる地図では線の色分けは右枠の「凡例」に従う。東京方面から来た下り特急は、JR栗橋駅でたぶん運転停車をし(旅客の乗降はできない)、Bの連絡線を渡る。途中に長さ80メートルのデッドセクションがある。両方とも直流1500Vであるが、「混触を防ぐため」のしくみという。細かいことを言えば、電気代にも関わりそう。この部分はたぶん東武鉄道に所属する。連絡線は東武鉄道日光線の上り線につながっているから、下りの特急はAのN字型渡り線を通って東武の下り線に入る。上り特急は、渡り線を通った後CのN字型渡り線を介してJR下り線を横切り、JRの上り線に入る。Cの渡り線はずいぶん南にあって、東武線が立体交差する地点よりも東京寄りにあるようだ。
 連絡線はJR・東武の栗橋駅の構内にあり、上の「乗車した」条件では、別線とするにはあたらないとした。営業距離は設定されておらず、地図上での延長距離は100メートル以下である。私はここを通ったことはない。
通過列車(資料:JTB時刻表2022年9月号)
下り「日光1号」新宿〜東武日光(p.575)・「スペーシアきぬがわ3号」「きぬがわ5号」「スペーシアきぬがわ7号」新宿〜鬼怒川温泉(p.577−580)
上り「スペーシアきぬがわ2号」「きぬがわ4号」「スペーシアきぬがわ6号」鬼怒川温泉〜新宿(p.576〜580)・「日光1号」新宿〜東武日光(p.575)。なお、新宿から田端の手前までは山手貨物線を通る。田端の山手線・東北本線連絡線については後で記す。  
 不思議なことに、JTB時刻表巻末の「私鉄有料特急」ページ(東武鉄道:p.718にはこれらの特急の記載が無い。
関係年表
JR栗橋駅 1885年7月16日 日本鉄道大宮-宇都宮間開業・栗橋駅開業
東武栗橋駅 1929年4月1日 東武鉄道杉戸駅・新鹿沼駅間開業
JR・東武渡り線 2006年3月18日 「日光」「きぬがわ」運行開始
私の国鉄東北本線乗車(栗橋付近) 1967年8月4日
私の東武鉄道日光戦乗車(栗橋付近) 2008年2月2日

恐竜200年(臨時投稿)

2024年02月20日 | 今日このごろ

 1824年2月20日に開催されたイギリスの地質学会(Geological Society, London)で、Megalosaurusという名称が発表された。これが恐竜に対して名付けられた最初の名称。だから今日(2024年2月20日)は恐竜研究の記念日である。そこで、この記事を投稿するのだが、すでに記したことの再録がほとんどである。
 発表したのは、オックスフォード大学の教授、バックランド(William Buckland:1784-1856)で、同学会の会長に任命され、この日会長として初めての会合で講演を行った。
 彼の発表では、二名法を用いていないから、「Megalosaurus」という名前は属名ではなかった。この講演記録は同年中に印刷されて残っている。
○︎ Buckland, William, 1824. Notice on the Megalosaurus or great Fossil Lizard of Stonesfield. Transactions of the Geological Society, London. 2nd Ser., vol. 1, Pt. 1: 390-396, Plates 40-44. and their explanation in 2 pages. (StonesfieldのMegalosaurus, または巨大なトカゲに関するノート)
 現在の命名法では、印刷・発行された日時がその名称が有効となる時であるが、このジャーナルの発行日は印刷物を探したが見つからなかった。1824年内に発行されたのは間違いない。当時の学会誌では、講演後にその内容を文章にまとめることはよくあることであった。

Buckland, 1824. タイトル部分

 上のコピーは論文のタイトル部分で、最上段がタイトル、次が講演者で、Rev,というのは牧師(Reverend), F. R. S. は王立学会会員、F. L. S. はリンネ学会会員。次に肩書きが書いてあって、地質学会会長、オックスフォード大学鉱物学・地質学教授・他とかいてある。その下が口述された日付で、1824年2月20日としてある。したがって、その最初の単語「Read」は過去分詞、レッドということになる。

Buckland, 1824. Plate 41. (一部) Megalosaurus 下顎

 この名称は二名法ではなかったので1827年に、種名Megalosaurus Bucklandii が記載された。その論文は次のもの。
⚪︎ Mantell, Gideon, 1827. Illustrations of the geology of Sussex : containing a general view of the geological relations of the South-Eastern part of England : with figures and descriptions of the fossils of Tilgate Forest. Xii+92pp. L. Relfe, London. (Sussexの地質学図解:イギリス南東部の地質学的関係の概要と、Tilgate Forestの化石の図と記載を含む)
 種名に人の名前をつけるのを献名という。当然自分自身に献名することはない。最初の恐竜名に最初の名称の提案者の名前が出てくるのは、こんなわけである。記載したGideon Algernon Mantell (1790-1852)はイギリスの産科医で、1825年にIguanodonを二番目の恐竜名として発表した。この時も二名法は用いられず、後に属名として他の人が記録した。記録された種名の中に、Iguanodon Mantelli というのもあったが、シノニムとされる。
 ところで、1824年はベートーベンの交響曲「第九」初演の年である。1824年5月7日にウイーンで演奏されたという。「恐竜200年」のついでに。私事だが。実は私は「第九」の合唱に出たことがある。1966年12月14日に、京都大学グリークラブの最初のステージとして、ほかの合唱団と一緒に「第九」のステージに立った。場所は京都会館第一ホール。指揮は岩城宏之氏、ソリストは伊藤京子・長野羊奈子・金谷良三・大橋国一だった。終了後、プログラムにソリストのサインをいただいた。残念ながら岩城氏と大橋氏のサインは頂くチャンスがなかった。

1966.12.14 京響第90回定期演奏会 第九シンフォニーの夕べ ソリストのサイン

 この催しは翌15日にも「京響第九の夕べ」という名称で、さらに大阪でも開催された。

エミュー

2024年02月17日 | 変なもの

 エミューの卵殻が手に入った。
 前から欲しかったのを、家族が手に入れてくれた。鳥の卵の色としては想像を超える色と模様で、思った以上に存在感がある。

 販売元の牧場で、丸い方の先端に小さな穴を開けて、中身を出して洗ったものを送ってくれた。長径約13.5センチ、短径8センチ。暗い緑色で小さな明るい緑の斑点があり、表面には浅い凹凸がある。鶏の卵よりも尖った先端と丸い先端の形の差が少ない。厚さは1ミリよりも少し厚い。

拡大写真 2024.2.16

 どのように保管または飾るか、思案中。