OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

私の化石組標本(その22)

2014年01月29日 | 鉱物・化石組標本
私の化石組標本(その22)
My set of fossil specimens, part 22

新生代の最後。


67 標本69-72  scale: 5cm
Specimen 69-72: Isurus, Glycymeris, Ailuropoda, Hexapus

標本69 アオザメ Isurus アメリカ・ノースカロライナ州産 中新世 軟骨魚類
購入標本。最近はチリ産のもっと大きなイスルスが手に入るが、当時はこれくらいのサイズが普通であった。


68 イスルス 

 Isurus の命名はAgassiz = Jean Louis Agassiz 既出= で、1843年。語源は、ギリシャ語Isos「同一の」、oura「尾」だそうだ。アオザメ類は尾ひれの上と下の差が少ないからだろうか。
 この標本の種は、Isurus hastalis (Agassiz)。種小名hastalis は槍の穂先といった意味。

標本70 グリキメリス Glycymeris 神奈川県二宮産 更新世 軟体動物・二枚貝類
いただきもの。神奈川県の南部に分布する二宮層の標本。鮮新世が抜けてしまった。私は古いタイプの古生物研究者で、いろんな地質年代の化石を扱った。論文ともいえない雑文を入れると次の年代のものがある。シルル紀・デボン紀・ペルム紀・三畳紀・ジュラ紀・白亜紀・始新世・漸新世・中新世・鮮新世・更新世・完新世。これらの内、鮮新世はゾウなど脊椎動物ばかりであるから、個人コレクションには何も無い。掛川層群にはほんの一時間ぐらい採集に行っただけ。
 二宮層から報告されているGlycymeris 属は5種類ぐらいで、いずれも現生種。この標本はエゾタマキガイG. yessoensis (Sowerby)となっている。ベニグリガイ G. rotunda (Dunker) かもしれない。

標本71 パンダ Ailuropoda 中国・四川省産 更新世 哺乳動物・食肉類
購入標本。いつかの新宿ショーで台湾の業者さんから購入。少々法的な問題があるかもしれない。四川省産であるので、どこかで中国から輸出されていることになるが、中国の国内法でそれが許されているか不明。現在はたぶん禁止されているが、輸出年代によっては問題がない。私は国内の売買なのでその法律とは関係がないが、倫理的には少々問題があるかもしれない。国際法である「ワシントン条約」は絶滅の危機にある動物の保護のためなので、対象外。この標本は現生のジャイアントパンダ Ailuropoda melanoleuca (David) [中国名:大熊猫]でなく、化石種の Ailuropoda fovealis (Matthew et Granger) [中国名:始熊猫] であるから。絶滅してしまった種類はワシントン条約の対象ではないのだ。
 歯の種類は右上顎の第一大臼歯で、下の写真の上方が外側(頬側)、右が前方である。竹を食べるのに適応して、食肉類としては例外的に平らな歯をもっていることがよくわかる。


69 パンダの右上顎の第一大臼歯。横幅(近心・遠心長)約2.7センチ。

 Ailuropoda属の命名はMilne-Edwards =Henri Milne-Edwards 1835-1900: フランス= で1870年。ミルネ-エドワーズは、非常に多くの動物の命名に関わっており、日本の哺乳類の命名にもよく登場する動物学者。ちなみにMilne-Edwardsのうちの前半は本来はファーストネームの一部であるが、他のEdwardsと区別するために本人や息子がMilne EdwardsまたはMilne-Edwardsと書いていたという。分類学ではハイフンで結んだ方を使うことが多い。
 Ailuropodaの語源は、Ailuro- が「猫の」という意味。Podaは「足(脚)」。中国名大熊猫の猫は、ここから来ているかというと、そうとも言えない。先に西欧に知られたレッサーパンダの属名がAilurus (命名1825年)であるから。後に知られたジャイアントパンダは当初これと近縁であると考えられていたから属名も一部借用したのだろう。その大熊猫の種小名melanoleuca はmelano- が黒、leuca が白である。Fovealisの方は、「穴の」といった意味で、化石が洞窟産であることを言っているのであろう。ここにある標本も当然洞窟産。

標本72 ヒメムツアシガニ Hexapus 名古屋港産 完新世 節足動物
名古屋港の浚渫造成地には、海底から土砂が吸い上げられて広い新しい地面を作っていた。そこには現生の貝殻などに混じって、海底の完新世堆積物の「化石」も入っていた。時代は古くないから化石と言ってはいけないんだろうけれども、ノジュール化したものもあるので、ある程度の年月(数百年とか千年とか)は経っているんだろう。一度だけ採集に行ったことがある。この標本はヒメムツアシガニ(二個)で、少し泥岩が固着している。行った場所は名古屋港の東部で、いまのどこにあたるのか不明。
 ヒメムツアシガニは、ムツアシガニに似て歩脚が3対。ゴカイ類やナマコなどの棲管内に共生する。淡水の混じる浅い海に生息する。近年は内湾の環境破壊によって見つけることが難しくなってきた。
 Hexapus 属はDe Haan = Wilhem de Haan (1801-1855) オランダ= が1833年に命名。Hexa-は六、-pus は足だから文字通りムツアシガニだ。本家ムツアシガニはHexapus sexpes (Fabricius) 、ヒメムツアシガニはHexapes anfractus (Rathbun)という学名。種小名sex-はドイツ語で六、-pesは足、anfractus は「曲る」とか「ねじれる」という意味。De Haan はシーボルト収集標本などを記録したFauna Japonicaの著者のひとりで、甲殻類を担当したから、日本の甲殻類の学名には数多くの彼の命名による種類がある。Richard Rathbun (1852-1918) アメリカ は、スミソニアンで甲殻類他の研究をした。とくに寄生性のものの研究が有名。

自分で採集した標本
72 ヒメムツアシガニ 愛知県東海市?


新生代の段で自分で採集した標本は、他より多くて19件。属名が不明なのが珪化木と鳥と鯨の三件。残り21属だが、勉強が足りないので包括的な属名を使ったから、命名の古い属名が多い。一番古いのは1778年のGlycymeris属。出てきた属の命名年の平均値は1843.2年、中生代が1873.5年、古生代が1876.6年だったから、新生代はちょっと古く、江戸時代になる。
 古生代から新生代までの全標本では72標本中66標本が属を決めてあって、命名年の平均は1864.9年。明治になる直前である。

新生代の全体はこんな感じ。


70 新生代の段

次回は化石組標本のことをまとめて、最終回としたい。

最後の蒸気機関車たち その70 1972年9月

2014年01月25日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その70 1972年9月
The last steam locomotives in Japan. No. 70 (Sep. 1972)


標茶を朝出発して「しれとこ1号」で釧路へ。なぜかすぐ戻って、「大雪3号」で塘路で下車。目的は塘路駅の北にある丘陵の展望台から釧路湿原を走る蒸気機関車を撮ること。釧路湿原は北から流れる釧路川が埋めた湿原だが、東側にある谷は埋め残されて多くの湖となって残っている。釧網本線は東側の山すそをたどるが、湖のあるところでは築堤を作って沖積平野を横切る。塘路湖・塘路駅付近もそんな地形であるが、駅から築堤を北にたどって山に登ると展望が開けてすばらしい景色が広がる。そこに3時間ほど居座って、通過する列車を撮影した。釧路からやって来る列車は、南の山すそに現れ、塘路駅に停車後、眼下の築堤を直線的にたどり、展望台の足元に消えた後、北側に回ってシラルトロ沼の築堤に姿を現し、右の山すそで視界から消える。


367N 釧網本線塘路・茅沼間 1972.9.7 C58 631列車 北方を遠望
367-371: Semmo line, between Hosooka and Kayanuma Stations, Hokkaido.


368N 釧網本線細岡・塘路間 1972.9.7 C58 634列車 南方を遠望


369N 釧網本線塘路・茅沼間 1972.9.7 C58 634列車 眼下の築堤
 

370N 釧網本線細岡・塘路間 1972.9.7 C58 631列車 南方を遠望


371N 釧網本線塘路・茅沼間 1972.9.7 C58 634列車 北方を遠望 写真367と同じ構図だ。

この時間に展望台に来たのは、ちょうど塘路ですれちがう上下の列車が見られるからである。いずれも客車と貨物を連結した「混合列車」で、輸送量の少ない線でしか見られなかった姿。

登場蒸機 C58(写真367~371)

2020.6.18 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

私の化石組標本(その21)

2014年01月21日 | 鉱物・化石組標本
私の化石組標本(その21)
My set of fossil specimens, part 21

新生代の五回目。終りがちかい。


64 標本65-68  scale: 5cm
Specimen 65-68: Callianassa, Fulgoraria, Chicoreus, Vicaryella

標本65 スナムグリ Callianassa 小佐産 中新世 軟体動物・二枚貝類
「知多の爪石」として有名な、師崎層群のスナムグリのはさみ。5センチぐらいのノジュールに入っていて、うまく割るとはさみが出てくる。採集には何度か行ったが、この標本は1966年8月のもの。産出は江戸時代から知られている。 
 Callianassa の命名はLeach = William Elford Leach (1790-1836) イギリス = で、1814年。語源は、anassaの方は「女王」らしいが、Calli-の方は不明、「サンゴの」という意味かもしれない。
 種類はCallianassa titaensis Nagao である。種小名は「知多」にちなむ。長尾巧博士については既に記した。


65 知多・小佐でノジュールを探す私。1966.8撮影。

標本66 ヒタチオビ Fulgoraria 一志産 中新世 軟体動物・巻貝類
津市の西にある一志層群の化石もよく採集に出かけた。この標本がいつのものかはわからない。採集地は分郷付近である。一志層群の化石層ではヒタチオビがよく採集できるので、いくつも採集した。標本区画に入れるために、小さめの標本を選んだ。
 一志層群のヒタチオビには数種類あり、どの種類に属するかは、螺管の「肩」が低いという特徴で決められるかもしれない。「The database」によると、日本で記載されたFulgoraria属の種・亜種はざっと数えて45ぐらいある。これには外国で記載されて、日本に産する種類の数が入っていないが、それはほとんど現生種だろうから関係しない。45種類のうち、三重県の中新世のものは、Fulgoraria (Musashia) hirasei yanagidaniensis Araki, F. (Psephaea) megaspira striata (Yokoyama), F. miensis Arakiぐらいであろうか。これらの中では、上記の特徴に合うのは、miensis である。
 Fulgorariaは、Volta属の亜属としてSchmacher = Heinrich Christian Friedrich Schumacher (1757-1830)、デンマーク= が1817年に提唱した。語源は分らなかったが、フランス語でfulgural が「雷の」という意味だから、この類の貝の表面にあるジグザグ模様と関係しているのだろうか。種小名miensisはもちろん三重県に由来する。一志産の他のフルゴラリアの種小名・亜種小名の由来は次の通り。Hiraseiは貝類コレクションの平瀬與一郎(1859-1925)か息子の貝類学者・平瀬信太郎(1884-1939)であるが、命名年が1912年なので平瀬與一郎だろう。なお、平瀬與一郎は海外に日本産現生貝類標本を販売していた。Yanagidaniensisは津市美里町柳谷で、化石層が県の天然記念物「柳谷の貝石山」として保護されている所。Megaspiraは「大きいらせん」、striataは「筋のある」という意味。なお。Fulgoraria (Musashia) hirasei (Sowerby) 現生種のニクイロヒタチオビ、F. (Psephaea) megaspira (Sowerby) も現生種のサガミヒタチオビ。


66 分郷の化石層 撮影日時不明、たぶん1968年4月。

標本67 アクキガイの一種 Chicoreus 鮎川産 中新世 軟体動物・巻貝類
この標本と次の68ビカリエラの二つは1965年10月7日採集。福井県鮎川の海岸で採集したもの。ここは、ビカリアがあるので採集に行ったが、瑞浪・月吉のものと違って、結晶化が進んでいて、貝を割ると透明感のある5ミリくらいの方解石が見える。化石標本でありながら鉱物標本でもある。
 このアクキガイの一種では、殻の一部だけが方解石化している。種類はわからない。
 Chicoreus は、Montfort = Pierre Denys de Montfort (1766-1820) フランス= が1810年に命名。語源はでてこなかったが、フランス語でChicorée(後から二番目のeにアクサン)がキクヂシャ(エンダイブ)のこと。キクヂシャの学名はCichorium endivia だから、(hの位置が異なるが)関係ありそう。英名チコリー(Chicory)も同属の植物。エンダイブの葉のヒダになるようすと、Chicoreus属のセンジュガイあたりの装飾とは似ていないでもない。

標本68 ビカリエラ Vicaryella 鮎川産 中新世 軟体動物・巻貝類
ビカリエラ標本も方解石化が進んでいるが、内部の方解石の結晶サイズの割には細かい表面装飾が保存されている。種類はVicaryella notoensis Masuda で、前に出てきたV. ishiiana と比べて螺層上部にある脈上の顆粒が多い。

自分で採集した標本
標本65 スナムグリ 愛知県南知多町小佐
標本66 ヒタチオビ 三重県津市美里町分郷
標本67・標本68 アクキガイの一種・ビカリエラ 福井市鮎川町

AKCヴォーカライズの復刻 1-18号

2014年01月19日 | 今日このごろ
AKCヴォーカライズの復刻 1-18号


音楽部バッジ

愛知県立旭丘高等学校音楽部同窓会紙「Vocalize」(ヴォーカライズ)を復刻しました。今回はその第九回(最終回)で、同紙の創刊号から18号までの復刻について記します。
 今回の部分は、1956年1月19日から1658年1月の二年間に発行されたものです。残念ながら19号と20号が手元にありません。お持ちの方はぜひご連絡下さい。

今回の復刻分はN先輩のファイルから行いました。

今回復刻した各号について。




2号と100号のタイトル
創刊号のタイトルは一ページを用いたもので、その後踏襲されませんでした。
2号のタイトルはいくつかの例外はありましたがその後ずっと踏襲されました。100号のタイトルはその直前のものを基本にして復元作業でデジタル版を作製いたしました。

創刊号 1956年1月19日発行 11ページ
今回は主な内容の一覧を省略します。

これをもって復元が完了いたしました。もしも、未収録の部分が手に入れば、追加して配信します。
全部で約940ページ、本文は102万3375字です。 本文以外に、テキストボックス中のもの、エクセルの表形式のもの、欄外の柱などの文字数をざっと調べました。全部合計すると110万字をほんのすこし超える字数です。一番手間がかかったのは、楽譜を画像にしてきれいに「掃除」することでした。「復元」をごらんになった方の御感想をお聞きしたいと思います。

 なお、公開した復元に多くの誤りがみつかっています。おわびいたします。とくに大きな間違いとして、61号の随筆の著者名に誤りがありました。これについては61号だけの訂正pdfファイルをつくりました。

 この復刻版ヴォーカライズのデジタルファイルは、同窓会のホームページからダウンロードできます。「カラスの広場」HPの中に同窓会HPが入っていますが、 ID、パスワードが必要です。
または、この下にあるコメント欄に記して、ご請求下さい。当方からも関係する方々にお送りすることができます。関係者とは、旭丘高校音楽部・およびその同窓会に入っている(または入っていた)方、そのご家族などです。「など」としましたが、なるべく多くの方に読んで頂きたいと思っています。

 この復刻版ヴォーカライズを印刷したものをつくります。これには、「著者索引」をつけます。できあがったら永井さんの管理しておられる「まちの縁側」に送って保管していただく予定です。また、同窓会会員の方以外でもpdfファイルをダウンロードしていただけるようなしくみを模索中です。


「ヴォーカライズ」に登場する鉄道 その7

62号15ページ「名鉄特急と国鉄のんびり普通列車」館山寺1962.3.24-25
「土曜日の午後で、名鉄電車の……三時の豊橋行き特急に乗り込んだ……この特急、きれいな新型の電車で、パノラマカーとかいうのだそうだ。振動がほとんどなくて速いし、いい感じだ。」
「豊橋で降りて国鉄の普通列車に乗り換える……普通列車は実にのんびりしていて、……途中の駅で準急と急行にぬかされた。弁天島の駅に着いた」
 名鉄の特急電車「パノラマカー」は1961年にデビューした新型車両で、運転席を二階に上げることで、最前部客席から前方が見えるようにした、画期的な車両。最初の形式の車両は2009年まで定期運行していた。運転開始直後から人気があり、とくに最前列の座席はこどもたちが占領してなかなか席をとる事はむつかしかった。1962年のブルーリボン賞(鉄道友の会の投票による人気車両の賞)を受賞したもので、首都圏でも国鉄でもない名鉄から二位と大差で選ばれたという。ちなみに1958年第一回の受賞は小田急のSE車、1959第二回がこだま型(「ビジネス特急」のこだま)車両、1960年第三回が近鉄ビスターカー、1961第四回は国鉄はつかり型、と最初の頃の受賞車両は車両マニアでない私も知っているものが顔を揃える。
 パノラマカーの二階にある運転席に行くには、客席通路の天井に格納されている階段を引き下ろすようになっていた。電車の終点で見ていると、このようすが見られたが、当時のことで写真は撮ってない。
 ところで、名古屋から弁天島へいくのに、なぜ国鉄で直行しなかったかというと、単純に早いからだろう。現在の時刻表で比べてみよう。名鉄名古屋(当時は新名古屋)1503発の特急に乗ると豊橋着は1556。ここでJRに乗り換えて1600発弁天島1622。豊橋の乗り換え時間が短くて、ちょっとむつかしいかもしれないし、1962年の館山寺旅行の記録では豊橋で待ち合わせ時間が長かったとの記述があるので時刻表が違うのだろう(50年前のことだから当然)。JR名古屋から出て、この1600豊橋発の各駅停車に乗るためには1502発の快速にのると、名鉄と同じ1556豊橋着である。こちらはホームが近いから乗り換えできるだろう。つまり、50年間の国鉄・JRの改良で、名鉄と対抗出来るようになったわけ。それには、新幹線の建設で、特急や急行が走らなくなったことも普通列車の速度改善に関係がある。
 では、現在の料金を比べてみよう。名鉄名古屋・豊橋間の乗車券は1080円で上記の想定した特急に乗れる(一部は有料の席がある)ので、これに豊橋・弁天島間のJR料金400円を足して1480円。JR直行だと、1620円で、だいぶん名鉄よりも高くつく。現在JRは、東京・大阪・名古屋近郊の私鉄と競合する所で「電車特定区間」を設定して値段を下げているが、名古屋・豊橋間には設定されていない。これが設定されると、十分に対抗出来るだろうから、そのうちに設定するかも知れない。例えば、名古屋・岐阜間で比較すると、名鉄料金540円、これに対してJR料金はもしJR30.3kmをそのままあてはめれば、570円となるところを特定区間で450円となっていて、名鉄は勝てない。(当時は東京にもこのような距離の特定運賃制度はなかった。)かかる時間も名鉄28分、JR20分とこれまたJR優位である。名鉄が遅い理由は枇杷島付近と岐阜直前のカーブに原因がある他、支線がいくつか別れることにもありそうだし、何といっても名鉄名古屋駅の過密がネックだと思う。
 ところで、この一行、いったいどのような切符を持っていたのだろう。新名古屋で弁天島行きの切符は買えないから、豊橋まで買って、国鉄列車に乗ってから、車掌さんから「車内補充券」という切符を買うか、下車した弁天島駅で精算するかであろう。というのは、豊橋駅は共通駅で、名鉄部分と国鉄部分を自由に行き来できるから。豊橋駅の改札内に連絡路線の切符売り場があったかも知れない。(現在もJRと名鉄とは区分されていない。それには飯田線の線路の所有と使い方にかかわる話が関係するが、長くなるのでここではふれない。また、最近ここでJRと名鉄の乗り換えをするときのICカードのややこしい話も、よく理解できていないのでやめておく。)当時、豊橋駅と一宮駅の二か所で国鉄・名鉄のこうした乗り換えが可能だった現在は一宮には中間改札がある。)。(後に(たぶん1976年4月)京都から静岡県(たぶん二俣線の三ケ日まで)調査旅行をした。大学院生だったが、院生には学生割引証の枚数制限がゆるかったので、学割切符(もちろん国鉄)で行った。ものずきで一宮から名鉄に乗り換え、豊橋で国鉄に戻る、ということをした。名鉄に目の利く車掌さんがいて、岡崎付近で検札をされた。幸い、この径路は認められていたので、乗車券は有効だった、のだが、学生割引が名鉄部分に適用されないので追加料金を徴収された。では、名鉄は国鉄に私たちの料金(追加料金は当然名鉄)を請求できたのか?までは知らない。


100年前の論文

2014年01月17日 | 化石
100年前の論文
 2014年を迎えたのを機会に、百年前の古生物学をたどってみた。
 私の参考文献ファイルは、いただいた別刷りや勉強のためにとったコピーなどをファイルしたものである。本体はファイリングキャビネット4段に、表題などのデータ・ベースはファイルメーカー・プロの形で保存されている。参考文献として使う可能性のあるものをファイルA、使う可能性のないものをファイルBとしてあったが、Bの方は退職する時に、後輩が使う可能性があると考えて、職場に残した。Bは2351件。これに対してAの方は1321件あって、家に保存してある。基本的に古脊椎動物に関する論文だけが入っている。
 このデータで100年前の「1914年」を検索すると、4件がヒットする。うち日本人の論文は二つ。両方とも岐阜県に関するもので、徳永・岩崎のデスモスチルス論文と佐藤傳蔵の象化石論文である。ちなみに1914年は大正3年。今回はこれら二つの論文について記す。
 なお、これら以上に古い論文は私のファイルにはほとんどない。アダムス(1868年:これが一番古い日本に関する西欧的古脊椎動物学論文)やナウマン、マルティンの外国人研究者による日本の古脊椎動物の報告はあるが、それらを除くと、1895年篠本(次郎)の佐賀県の足跡化石に関するもの(以前このブログで現地訪問を記した)や、1900年矢部久克の「布袋石は鯨の耳骨なり」という長野県の中新統の化石の記事があるくらいである。ほかにもあることは知っているが、ほとんど情報のないものが多い。これらの断片的な情報は、地質学雑誌(1900年が第7巻)に、論文としてではなく、講演記録や雑録として載っている。
 さて1914年の徳永・岩崎のデスモスチルス論文とは何かというと、1902年に吉原・岩崎が岐阜県産の頭蓋などを海牛類かとして報告したのだが、その後の知見に基づいて、これをデスモスチルスのものであるとし、このとき初めて新種名Desmostylus japonicus と名づけたものである。日本産の化石脊椎動物の初めての命名だろうか。なお、「吉原」は徳永氏の旧姓。1902年の論文では岐阜県などの化石について詳しく述べている。産出地は現在の瑞浪市化石博物館のすぐそばである。標本は現在国立科学博物館に保管されている。1914年論文は1ページ、本文17行の非常に短いもの。掲載されたのは「地質学雑誌」で、サイズはA5であるから、近年の1ページの半分である。徳永氏は後にデスモスチルスの別種やパレオパラドキシアなど、この分野を切り開いていかれた。デスモスチルスについては、多くの研究史の紹介があるので、このくらいで切りあげよう。一つだけ付け加えると、同じ1914年、アーベル(O. Abel)は「Die vorzeitlichen Saugetiere」(Saugeのaにウムラウト)の中で、美濃産の標本を図示してかなり詳しく記述している。100年前にヨーロッパでも新しい分類群の登場に注目していたことが伺われる。


瑞浪市産のデスモスチルス頭骨と歯(亀井・岡崎, 1974)
後に剖出が行われたので、現在はこの姿ではない。

 もう一つの「佐藤傳蔵の象化石論文」というのは、東京高等師範学校本科博物学部第二年生の修学旅行で、東濃中学に立ち寄り、そこに保存されていた長鼻類の頭骨を見て記した文書である。私もごく最近(二年前)御嵩町の産出した場所を訪れたが、産出当時畑の客土の採取のために裸地となっていたと記されているのが、薮の中に埋もれて、露頭が無くなっていた。標本は現在瑞浪市化石博物館に保管されている。その他にいくつかの四肢骨標本の存在に触れているが、これらは岐阜県博物館に保管されている。県博にあるものについては、以前調査を依頼され、同館研究報告の第一号に記録させていただいた。これについての詳しい話は近日中に「東海の象化石・ふたたび」のシリーズに記すので(原稿は既に投稿済み)ご期待を。


御嵩町産のゴンフォテリウム頭骨の口蓋面

 前に述べたデスモスチルスが瑞浪の第三紀層の海棲哺乳類の最初の標本で、後に述べた象が陸棲哺乳類の最初の標本である。1914年にこれら二つの標本の分類学上の位置が明確に示された。瑞浪の哺乳類化石の研究は、100年以上の歴史を持つことになる。私もこの哺乳動物群の研究にすこしだけ貢献した。いくつかの標本を追加するとともに、大学院生時代にこの動物群を扱った研究を行った。