OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

最後の蒸気機関車たち その58 1972年9月

2013年07月28日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その58 1972年9月
The last steam locomotives in Japan. No. 58 (Sep. 1972)


北海道の大夕張鉄道に来ている。私鉄の蒸気機関車は多くなかったから興味深く見ている。
清水沢から乗った列車は、空の石炭車と客車をつないでいる。途中駅で前方の石炭車をいくつか切り離して、さらに先へ行く


304N 大夕張鉄道 1972.9.2 機関車はNo. 6
304-305: Oyubari line (private) †, Hokkaido.


305N 大夕張鉄道 1972.9.2 No. 4

上り列車は石炭を満載して出ていく。


306N 大夕張炭山機関庫 1972.9.2 C11-01
306-308: Oyubari line (private) †, Oyubari depot †, Hokkaido.


307N 大夕張炭山機関庫 1972.9.2 C11-01

機関庫のすみにシートを掛けて保管してあったC11国鉄の初番号ではなく、最初湧別炭砿に納められたもの。だからC11-1ないしはC11-01というのは複数あってややこしい。この写真の9月末に廃車となったが、後に三重県の長島ランドに展示されていた。しかしそれも終わって、現在は残っていない。なお、このシリーズでは、見やすくするため、型式記号の後にハイフンを入れているが、もちろんC11 01のようにハイフンが無いのが正しい。


308N 大夕張炭山機関庫 1972.9.2 No. 6(左)とNo. 5(右)

登場蒸機 9600(写真304・305・308)C11(写真306・307)

2020.6.16 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。なお、今回の写真307と写真308は投稿時に入れ替わっていたので正した。

Trivial database of a retired curator, OK.

化石研究部会 突然ですが…

2013年07月27日 | 化石
化石研究部会 突然ですが…

宣伝です。
在職中、自然史博物館の友の会化石研究部会を、ずっと担当してきたが、退職(2010年)を機会にM学芸員に交替した。しばらく出席していないので、たまには顔つなぎで出席を、と思っていたので、今回M学芸員にお願いして、姫島(大分県)のゾウ化石について一席お話をさせていただくので、ここにその予告編を……。
 
1 暇があったので、2011年秋の大潮の時期を選んで、姫島に行った。
2 偶然にもゾウの牙(門歯)化石を採集できた。
3 帰宅後かなり苦労してクリーニングした(写真)。
4 地層の年代から、アケボノゾウのものと考えられる。
5 以前はアカシゾウと呼ばれていた種類。
6 アケボノゾウ命名
7 アカシゾウと明石西八木海岸(兵庫県)
8 明石人骨・未解決の化石


姫島産長鼻類門歯化石(2011年10月採集)(このブログで掲載済)

といった内容をお話しようと考えて、パワーポイントの準備を進めている。ただ、準備としてパワーポイントをつくるときには、二週間以上前だったりすると、実行する時に内容を忘れてしまいがちなので、押し迫ってから作ることにしている。かといって、まにあわないのはもっと悪いので、不完全でもいいから大枠を作っておき(現在その状態)、数日前ぐらいに、文字のチェックや、写真の改善などを行なうことにしている。現在の.ppt(パワーポイントファイル:TPPでなはい)のサイズは85MB、ちょっと重いが、これからの修正で100MBを超えなければ、このままで行こうと思っている。

なお、今回の化石研究部会(330回例会)はつぎのように開催される。
8月4日(日) 13.30~15.00
北九州市立自然史・歴史博物館 3階 講義室
化石研会員でない方は、入場時に了解を得て下さい。

私の化石組標本(その6)

2013年07月24日 | 鉱物・化石組標本
私の化石組標本(その6)
My set of fossil specimens, part 6

古生代の二回目。


17 標本5-8  scale: 5cm
Specimen 5-8: Acrothele, Favosites, Proetus, Atrypa

標本5 アクロテレ アメリカ産 オルドビス紀 腕足動物・無関節類


18 標本5 アクロテレ

購入標本。腕足類の化石は数多く採集したが、無関節類腕足動物の化石は、余り多くない。次に出てくる福地のデボン紀層と、いくつかの第三紀のものを採集したことはある。第三紀の化石は、保存が悪くて、持って帰ったことはない。現生のシャミセンガイは、食べたこともあるが、おいしいものではない。三重県の鳥羽の真珠いかだの上で、生きているのを手に取ったが、無関節類というだけあって、その殻の動きは自由なもので驚いた。
 Acrotheleの語源は知らないが、全体として低い円すい形で頂部が尖っているような感じを受けるから、そんなところの意味だろう。属名の命名は古いらしいが、ネットでざっと調べたが出てこなかった。科名Acrothelidaeが1893年に命名されているからそれより前。

標本6 ファボシテス Favosites 岐阜県福地産 デボン紀 腔腸動物・床板サンゴ
大学の卒業研究のテーマを選ぶとき、教授に何がしたいか?と聞かれて、「化石、それも古いほど興味があります。」と答えてしまったので、岐阜県の福地層群(デボン紀層)のストロマトポーラをすることになった。実際にはストロマトポーラは難しくて手に負えなかったので、たまたま採集できた三葉虫に変更した。
 福地の中期古生代の地層は、このファボシテスの産出で特徴づけられる。就職の時に、ほとんどの標本を大学に置いて来たから、手元にはあまり標本が無い。卒業研究のときにお世話になった旅館のご家族とは、その後もずっとおつき合いがある。


19 お世話になった故・山腰さん

 Favositesの命名は1816年、ラマルクによるのだから、ずいぶん昔から認識されている。まもなく命名200年に達することになる。Favusはラテン語で蜂の巣のこと。日本語でも「ハチノスサンゴ」と呼ぶ。

標本7 プロエトゥス Proetus 岐阜県福地産 デボン紀 節足動物・三葉虫


20 標本7 プロエトゥス 尾部

上記のように大学の卒業研究は、岐阜県福地のデボン紀三葉虫について行った。文献が手に入らず、ずいぶんいいかげんな研究で、後に小林貞一先生と濱田隆士先生が日本のデボン紀三葉虫をレビューする中で正して下さった。卒業研究で使った論文の中にBarrandeの「Système silurien du centre de la Bohême」(1852-1881)があった。二十冊ぐらい、一冊の厚さが6センチほどもある大作だが、図書館の一番上の段にあり、背表紙に巻や内容の金文字がないので、必要な巻を持ち出すのに苦労した記憶がある。
 この標本は当時の物ではなく、最近採集したもの。採集場所は、自然館(すでに閉館)のあったところから崖を右に登った所。尾部だけであり、当時はそんなに珍しいものではなかったが、今採集しようと思うと難しいかも知れない。


21 冬の自然館(この時すでに閉館していた)

 卒業研究当時、日本の三葉虫化石産出地は数少なかったのが、その直後に急に増えた。今では百ヶ所以上が知られる。私が見つけた新産地もいくつかある。ここには書かないが、未報告なのでたぶんそこの三葉虫化石は私のコレクション中だけにしかない。小さな破片だが。
Proetusは1831年、Steiningerの命名。バランデの本にもこの属名が出てくる。ただ、現在は多くの属に細分されたので、この標本の属名としては不十分だろう。語源は知らない。

標本8 アトリパ Atrypa 中国産 デボン紀 腕足動物・有関節類
福地層群の化石には、腕足類が目立つ。中でもアトリパは、表面の彫刻が目立つので、しばしば目にするものである。この標本は中国産の化石で購入品。非常に安く手に入った。
 Atrypaの命名も古くて、これまた江戸時代にあたる1828年Dalmanによるもの。そのときの種名はたぶんA. reticularisで、それがそのまま福地の種類にも使われるようだ。この中国の標本をみても、ちょっと大きさが違う他は良く似ている。Atrypaの語源は、trypaの部分が穴をさし、a-が否定を示す。たぶん肉茎(pedicle)の出る穴がない事をいっているのだろう。ということは、この腕足類は固着生活をしなかったんだろうか?

シルル紀が欠けている。ただ、アトリパはひょっとしたらシルル紀のものかもしれない。オルドビス紀もひとつだけ。まあ、日本ではしかたがないかもしれない。

自分で採集した標本について
標本6 ファボシテス  標本7 プロエトゥス
 岐阜県高山市奥飛騨温泉郷福地

最後の蒸気機関車たち その57 1972年9月

2013年07月20日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その57 1972年9月
The last steam locomotives in Japan. No. 57 (Sep. 1972)


夕張鉄道の廃止は1975年4月(最後は北海道炭砿汽船)で、その一年前に野幌・栗山間の旅客営業を止めている。だからこの時には利用可能であったが乗っていない。追分経由の国鉄で向かった。理由はたぶん均一周遊券を持っていたから。今なら必ず夕張鉄道を利用したのに。
訪れたのは三菱鉱業大夕張鉄道。


298N 大夕張鉄道清水沢駅 1972.9.2 No. 6
298-300: Oyubari line (private) †, Shimizusawa Station†, Hokkaido

No. 6は、国鉄の9600型で、三菱芦別鉱業所から大夕張鉄道に移ってきていた。入れ換え中ではあるが、客車を引いている姿である。


299N 大夕張鉄道清水沢駅 1972.9.2 No. 6


300N 大夕張鉄道清水沢駅 1972.9.2

客車のサイドボード。これに乗って南大夕張に向かった。


301N 大夕張鉄道 1972.9.2 機関車はNo. 6
301-303: Oyubari line (private) †, Hokkaido.

前にたくさんの空の石炭車を、その後に客車をつないだ混合列車。


302N 大夕張鉄道 1972.9.2 No. 7 (9613)

No. 7も三菱芦別から来た車両。もとは国鉄の9613だから、9600型の初年度(1913年)の製作は18両だったからその中の一両。18両の内、日曹天塩の9615、大夕張のNo. 7(9613)、同No. 8(9616)の3両が現存しているが、いずれも北海道の個人が非公開で所有しているという。個人の機関車コレクターというのも想像を絶する。初期型のため、側面のランボードの最後部の形がすこし特異であるがこの写真ではわからない。別のショットの拡大を示す。


303N 大夕張鉄道 1972.9.2 No. 7

今回で、写真が300枚を超えた。最終的には500枚をだいぶん超える予定。先は長い。


登場蒸機 9600(写真298~303)

2020.6.16 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

AKCヴォーカライズの復刻 71-80号

2013年07月19日 | 今日このごろ
AKCヴォーカライズの復刻 71-80号


音楽部バッジ

愛知県立旭丘高等学校音楽部同窓会紙「Vocalize」(ヴォーカライズ)を復刻していくプロジェクトを進めています。今回はその第三回で、同紙の71号から80号まで(1963年4月から1665年1月)のリリースをお知らせします。
今回の復刻分はN先輩のファイルから行いました。

今回復刻した各号について。(今回から、この項目を大幅に省略しました。同窓会ホームページをご覧ください。)大きな流れは次の通り。


71号表紙タイトル

◇ 72号(1963.5)で、前号「引退宣言」にもかかわらず、浅井先輩が会長に最多得票。 しかし、会からの離脱により次点のMさんが繰り上げとなりました。
◇ 75号の欠号などで、その後の一年間に3回しか発行できませんでした。浅井さんに代わって就任したM会長ですが、一年を終わって「最初からやる気がなかった」とご当人も書いておられる。

次回は8月19日に、61号~70号の復元をお知らせする予定です。その後も、一月ごとに十号をさかのぼって復元していくつもりです。全部できれば、約1000ページ、100万字ぐらいです。現在67%ぐらい(ページ数比)・69万字まで進んでいます。三分の一に達しましたから、あと一息です。
この復刻版ヴォーカライズのデジタルファイルは、同窓会のホームページからダウンロードできます。「カラスの広場」HPの中に同窓会HPが入っていますが、 ID、パスワードが必要です。
または、この下にあるコメント欄に記して、ご請求下さい。当方からも関係する方々にお送りすることができます。関係者とは、旭丘高校音楽部・およびその同窓会に入っている(または入っていた)方、そのご家族などです。「など」としましたが、なるべく多くの方に読んで頂きたいと思っています。

今回から、次のシリーズを加えます。内容は、会紙の記事にある当時の鉄道について記したものです。私は鉄道マニアなので当時のようすに興味があって少し調べたものです。

「ヴォーカライズ」に登場する鉄道 その1

同窓会では、毎年夏に合宿を企画するが、参加者数はそれほど多くない。ところが1966年(=昭和41年)夏の「つどい」だけは例外的に大勢(約30名)の参加があった。この合宿は、岐阜県の恵那峡付近のある保養所を利用して、二泊三日の日程で合唱の練習やレクリエーション、さらに在校生の勉強などが行われた。名古屋からの往復は、今と違って車の参加はたった一台、あとは中央本線の普通列車で移動した。記録は1966.9.7発行のNo91、8~12ページ「夏のつどい報告紀」に記されている。鉄道に関する記事は次のもの。
恵那へ「九時三十二分発中津川行の汽車は、…」
「多治見からは、会員の一人が乗りましたが、電気機関車は多治見まで、それからは、今までどおり蒸気機関車なので、誰かが、トンネルが近づいたのに窓をしめ忘れたので、車内に入ってくる煙のものすごいこと、ものすごいこと。」
「恵那へは予定よりも早く、十一時二十七分に到着、…」
名古屋へ「途中十分間停車。暑い暑いと思ったら駅名「釜戸」という所。」
この年(1966年)は、中央本線(名古屋側)の重要な年だった。まず、三月に定光寺駅付近を複線化したのに伴って川沿いに多くのトンネルを通していた旧線路を、少し山側に長いトンネルで変更した。旧トンネルは現在も鉄道遺産として保存されている。これらは名古屋に住んでいた人にとって、最も近くにあるトンネルだった。
 同年5月14日には、高蔵寺までを電化、さらに7月1日に瑞浪までが電化されたので、客車列車は「トンネルで窓を閉める」という習慣から一部解放された。後に電化が中津川まで進むのは1968年、塩尻まで、つまり名古屋側の中央本線が全て電化されるのは、1973年までかかった。このように時間がかかったのは、電化と同時に複線化を行なったから。逆に言えば、このころまで中央本線は単線だったのだ。


この記事の7年後(1973.4.11)の中津川駅。
すでに電化が進んで、架線が見えるし、電車もホーム左側にあるのが見える。
貨物列車は蒸気機関車牽引のものが多かった。

 当日9時32分名古屋駅を出た列車は、もちろん電車ではなく客車列車。目的の恵那駅に11時27分(時刻表ではこれより遅い時刻が記入されていたようだ。)に着いた。この時、電化されていたのは前記のように多治見まで、複線化ができていたのは瑞浪駅の少し先(釜戸駅との間に信号所があった)まで、そこから先は単線だから、行き違いや優等列車の追い抜きで、停車も長かったはず。「予定より早く着いた」のではなくて、恵那駅でも待ち合わせがあって、発車時刻だけしか時刻表に記入してなかったのではないだろうか。
 では、現在の時刻表と比べてみよう。9時24分名古屋駅発の電車は、恵那駅発10時28分と記されている。1966年の115分から64分。ずいぶん短縮されたものだ。機関車の付け替えもないし、トンネルに入っても窓を閉める必要もない。
 電化されると、高蔵寺駅付近に電車基地がつくられた。現在は名古屋~高蔵寺は電車の運転本数が非常に多い。
 現在の時刻表として、2013年3月号のJTB版を使用。当時の時刻表や複線化・電化のようすは各種のHPを参考にした。