OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

古い本 その164 ドーバー海峡のトンネル 追記 中

2024年03月22日 | 鉄道

 Philosophical Transaction 創刊号, 1655 を見ている。
 最初の儀礼的な文章が終わるとジャーナルの主体部分ということになり。ノンブル(ページの数字)はここから始まる。The Contents, The Introductionが置かれてから、それぞれの「論文」というか記述が始まる。Contentsには10の項目が列挙されている。分野は多様で、順に、天文学3件 医学 生物学 鉱物学 窯業 捕鯨 航海学 数学 という。全部をまとめるとすれば科学論文である。形式としては、編集者の元に寄せられた書簡を紹介する、という形。著者名がよく分からない。幾つかを抄訳する。
1. 光学ガラスの改良の成果(パリからの通信)
 G. Campani (Giuseppe Campani 1635-1715)によると、大きなレンズを型を用いないで天体望遠鏡を製作した。色収差を減らすことができたという。1659年の土星の観察。内容はよく分からない。この書簡は天文学的な内容で、有名な天文学者の名が出てくる。例えばC. Huygens(1629−1695:ホイヘンス:オランダの数学・履理学・天文学者。土星の輪の研究で有名)、Copernicusなど。この部分の一部を拡大したのが下の図。

614 1666年の印刷物 3ページ

  最初の単語は「respects」で、ctが連字になっているほか。前のsはfの横棒がないもののような文字。この類は、ドイツの文献では後の時代でもよく出てくる。コンピュータの文字にも「ſ」がある。2行目の「goodneſs」「Graſſes」もsに読み替えればわかる。4行目に「He addeth」とあるが、addeth はadd 過去形addedの古い形。1600年代でも、この中ですぐに分からない単語はこれ一つ。意外に少ない。

2. 木星の帯の斑点(Hookの独創的な観察)
 Hook(としか書いてないが、おそらくRobert Hooke 1635-1703)は王立協会のフェローで生物学者。フックの法則・顕微鏡の作成などで有名。Hookは1664年の夜に木星の帯の一つに小さな点を見出し、それが西に向かって木星の直径の半分ほど移動するのを見た。ちなみに、木星の自転周期は約10時間で、地球の24時間と比べて随分早い。観察者が見ることのできるのは夜で、10時間ぐらいだから、見えているところの半分を移動するのが見えるのはおかしくない。
 この後ろに、かなり長い彗星の観察記録がある。
3-7. 省略

8. バーミューダの新しいアメリカによる捕鯨
 長めの文章であるが、面白そうなので読んでみた。このジャーナルの文章はすべて著者が誰であるかが明記されない。書簡の発信者として記されていることもあるが、文章中に「私」と出てきた時には、編集者と理解するしかない。この鯨の記録についても、おもな情報源は「捕鯨に従事していた屈強な男」(ここでは「捕鯨漁師」としておこう)の発言である。それを記録したのが誰であるのか判然としない。
 捕鯨漁師は、見出しから判断してアメリカ人かアメリカ人の主宰する漁業に雇われて、バーミューダに17回赴いた。その年号は明記されていないが、17回という限りは単独の年ではなさそう。12回は「fastned their Wepons」したというが、どういう意味だろう? 「fastened」の古い形だろうと思うが、「武器を据えた」つまり5回は偵察だけだった、という意味だろうか? いずれにしても、その事業で、成獣のメス鯨を2頭と、3頭のこどもを捕えたという。成獣の長さは88フィート(約27メートル)と60フィート(約18メートル)、こどもは
25フィート(約7.5メートル)から33フィート(約10メートル)という。捕鯨の目的は鯨油の採取で、「樽職人が不足していたから」11トンを持ち帰った。という。これで採算が取れたのか心配になる。
 鯨の種類については、1メートルの「エラ」(たぶん鯨ヒゲ)を持つとか、いろいろな記述からザトウクジラではないかと思われる。
 鯨をFishとしているとか、尾をTayl と綴っているとかは。古い英語だからありそうなこと。ヨーロッパの遠洋捕鯨は、1611年頃にイギリスが北極海で行ったのが古い記録。1670年の北アメリカ東岸の捕鯨、とか1712年アメリカのマッコウクジラ捕鯨の記録、とかが、古い時代の記録で有名なものだから、この1665年の記録は最も古いものの一つなのだろう。

9.  経度計測ための海上の振り子時計の成功に関する話
 海上の経度に関する振り子時計の機能;およびそれに対する特許付与について。Major Holmesからの連絡。経度計測の海上の振り子時計というのは、正確な時計を求める大きな理由がある。陸の見えない遠洋を航海するためには、正確な地図・海図とともにその図上での船の位置を知る必要がある。赤道からの距離である緯度については、北極星の高さを測ることでかなり正確に求められる。ところが、緯度を知るためには、地球の自転で変化する星の方位から決めるから、時刻を正確に知る必要がある。
 Holmes少佐という人が精度の高い振り子時計の作成に成功したという。この時計を使った実験航海の結果が記してある。実際には振り子時計によって揺れる海上で必要な精度の時刻を知ることはできなかったようだった。後に針の進みを一定にする装置が実用化され、約100後の1769年にイギリス海軍の船に装備された。その後も更に精度の高い機構の開発や、懐中時計などの小型化が進められた。精度の高い時計は「クロノメーター」という規格を検定によって得ることで、その名を名乗ることができた。日本でもその検定をおこなう資格のある機関(日本クロノメーター検定協会)があったが、1984年にクォーツの普及で解散した。

10 Tholouseで亡くなった議会参事官を務めていたFermat氏についての出版物
 Pierre de Fermat(1607−1665)のことだろう。例のフェルマーの「定理」(3以上の自然数nについて、二つの自然数のn乗の和が自然数のn乗になることはない)で有名な数学者。1995年に解決した。その解決についてここで記すにはこのスペースは狭すぎるので、ここでは書かない。
 彼の数学に関する業績がいろいろ書いてあるようだが、私には理解できない。Tholouse (Toulouse) は、フランス南部の都市。生誕地の近くで、1831年から議員に選出され、死ぬまで勤めた。

 本文はこれで終わり。空白の1ページを挟んで、1ページの図版がある。

615 Philosophical Transactions 創刊号? 図版

 これはなんだろう? 本文中に図版説明はないし、関連しそうなテーマも見当たらない。実はこの図版は、雑誌の創刊号から2号の間に置いてあるが2号の21ページから始まる水銀の精錬に関する文章に付けられたもの。何かの間違いで創刊号の巻末に入ったのではないだろうか。というのは2号26ページの次にも同じ図版があって、その右上には「N.o2d」という小さい書き込みがある。さらに図版の仕上がりが2号のではかなり悪くて細部が見えなくなっている。
 22ページの最下方にFig. Iの説明が、25ページの最後の方にFig. II. の説明がある。こちらだけ翻訳しておく。A:水流. B:「滝」. C:水槽. LG:管. G 管の口またはふいごの口. GK:炉. E: 管の開口. F:ストッパー. F: 床の水の流出部。左側の炉で鉱石から水銀を流しだして、右の縦の水槽で速やかに冷やすのだろうか。その水銀を含む水を下の装置で漉しとるのかな? なお、この図版の印刷方法は(証拠はないが)木版だろうと思う。
 このように、イギリスの学術誌は随分古くから存在したし、わずかな「読み替え」をすれば、現在も理解しやすいことに驚く。活版印刷という技術が大きく役立っているに違いない。さらに創刊号から(実は2号の内容だが)図版が入っていることにもすばらしい。

古い本 その163 ドーバー海峡のトンネル 追記 上

2024年03月13日 | 鉄道
古い本 その163 ドーバー海峡のトンネル 追記 上

追記:
 合字に関するネット上の記事にはctや、それに似たst・spなどがある。もっとポピュラーな、fi flなどは現在も使われている。F小文字の上の点とiの点は、近づいて見苦しいからとfのてっぺんに付いている。コンピュータの文字入力のウインドウを使えば、ff, fi, fl, ffi, ffl それにij というのが選べるように見えるが、実際に入力するとほとんどのフォントで二つの文字として入力されてしまう。一方もう少しポピュラーなae, oe の合字は多くのフォントで合わせた文字が用意されている。
 もっと古いジャーナルでは面白い合字があるに違いないと思って、古い科学ジャーナルを覗いてみた。たまたま見つけた雑誌は次のもの。最も古い科学雑誌かどうかは確認できなかったが、かなり古い。
ジャーナル:Philosophical Transactions giving some Accompt of the Present Undertaking, Studies, and Labours of the Ingenious in many Considerable Parts of the World. Vol. 1. Numb. 1. Munday, March 6. 1665. Pp. 1-16, Fig. 2.
 表題の意味は、自動翻訳にかけると「世界の多くの重要な地域における独創的な人々の現在の事業、研究、労働に何らかの成果を与える哲学的会報」となる。発行年の最後の数字がよく見えない。4の下に5が書いてあるように見えるが1664年なのか1665年なのか。第2号は1665年4月3日、第3号は同年5月8日発行で、間隔が7の倍数だから1665年と判断できる。「Munday」というのもこれが古い表記なのだろうか?
 第1号(Numb.1という略記も馴染みがない)は、16ページ +1図版しかない薄っぺらいジャーナルである。

611  Philosophical Transactions 創刊号 紋章

 発行された1665年は、日本でいうと江戸時代の初め、4代将軍家綱の時代。見返しに、いかにもヨーロッパ風の紋章が示されている。竜?の頭や甲冑などが描いてあって、下部に文字を書いたリボンが配置してある。「TUTE・SI・RECTE・VIXERIS」ラテン語で。「真面目にやっていれば安全だ」というような意味(もっと格調高く訳さねば)。
 タイトルページの前にもう一つ大げさな絵画が印刷してある。

612  Philosophical Transactions 創刊号 タイトル前の絵画

 胸像を囲んで両側に人物が、そして胸像に天使(翼があるし、ラッパを持っているから)が冠を捧げている。胸像の人物は台座に書かれているようにチャールズ2世(1630−1685)で、この学会に許可を与えた王、その下に「王立協会の著者とパトロン」としてある。インターネットで調べると、よく似た肖像画が出てくる。台座を指している左の人物は床に「協会会長」となっていて、その下に小さくEvelyn...と書いてあるから、たぶん王立協会創立のひとりのJohn Evelyn (1620−1709:作家)であろう。こちらもネットで出てくるEvelynの肖像画に似たところもある。また右の人物は「芸術の修復者」となっていて、その下にWで始まる名前が書いてあるようだが、読めない。協会発足当時の有力メンバーであるJohn Wilkins(1614-1672;牧師)の可能性がある。バックの柱などにコンパスや振り子のような器具・銃などがいくつも飾ってある。それぞれに寓意的・象徴的な意味があると思うが、私には理解不能。
 古い「ジャーナル」を見た目的は二つあって、一つは「学会誌」の最初の頃の姿を見たかったこと、もう一つは使っている活字が現代とどうちがうかということ。まず「学会の最初」というのだから、イギリスに違いないから探してこれに遭遇した。
 ジャーナルの最初に2ページほどの文章がある。「To the Royal Society」(王立学会に)という題で、著者はHenry Oldenburg(1618頃-1677)となっている。彼はドイツ生まれ、イギリスで活動した科学者で、この学会の初代事務総長。この文章は、イタリックのような斜体で飾りの多い活字で組まれている。現代のフォントと大きく違うわけではないし、驚いたことに大部分はOCRで取り込むことができる。それができないのは、まず文章の初頭で、(最近でもそういう印刷形式はあるが)最初の文字を何行にもわたる大きな模様の入った飾りで囲んでいる。最近のと違うのは、この飾りがむやみに大きいこと。この部分はもちろんOCRに乗らない。こういう字を「ドロップキャップ」という。

613 Oldenberg, 1665. 文頭

 この本文の最初の単語は「It」である。Iは大きな飾りで囲まれているし、Tも単語の二番目の文字なのに大文字である。もう一つOCRで処理できないのは「s」に2種類あること。普通のsと、縦に長いのがある。本文3行目の最初の単語は「Fulness」である。この他にも現代の印刷と違うところがあって、本文にやたらと大文字で始まる単語(名詞・一部の形容詞)があること。何かドイツ語みたいだが、著者がドイツ出身であることとは関係なさそう。この斜字体の2ページ目のヘッダーに「Epistle Dedicatory」(奉納書簡というような意味)としてある。事務総長からこの本の創刊に寄せた文という意味だろう。

時刻表3月号

2024年03月05日 | 鉄道

 毎年JTB時刻表の3月号を購入することにしている。以前よりも発行の日が遅くなってきて、2月の末にならないと書店に並ばない。ネットの時代にはあまり買う人もいないのだろう。

書庫に並ぶ古い時刻表 1995から2016年(2002欠)
 今年は北陸新幹線の金沢から敦賀までの延伸(3月16日)が決まっているから、そこを中心にざっと見た。最初に見るのは地図ページの次、「NEWS」のページ。ひとつ目立つ記事がある。

JTB時刻表 2024年3月号 ニュース1ページ

 上がその部分で、見出し「JR線乗継割引の取り扱い終了について」というたった3行の記事。「JR各社は3月15日に「乗継割引」の取り扱いを終了します。(JR四国・JR九州ではすでに終了しています。)」というもの。
 「乗継割引」というのは、何かというと、(大すじだけ書く)新幹線から在来線特急などに乗り継ぐと(条件あり)在来線特急料金が半額になる、というもの。最近はあまり利用したことがないが、昔は随分使った割引である。これは結構大きな値上げなのだが、目立たないように小さく書いている都市か思えない。巻末の営業案内には一言も書いてないようだ。まだ3月前半中はこの制度は残っているのに。
 昨年の3月号の営業案内を見てみた。

2023年3月号 営業案内53ページ(一部)

 「乗り継ぎ割引」という見出しがあって、(あれ?乗継ではないんだ)二つの小見出し「新幹線と在来線」・「寝台特急(サンライズ瀬戸)と四国」がある。四国の方はこの一年間のどこかで廃止されたようだ。
 かなり大きな割引が廃止されたのを「取り扱い終了」と表現するのもおかしい。この時刻表の「主要駅間の運賃・特急料金早見表」(営業案内15ページ)を見ると、大阪・敦賀間の特急料金は2,390円である。これが半額になるかr(10円未満切り捨て)1,190円も違うのだ。もっと先まで行けば大きくなるが、金沢の場合の計算は、北陸新幹線を使うから比較しにくい方敦賀にしておく。
 この割引を利用(新幹線と在来線の両方の特急券を同時に購入)すると、特急券に次のように記載される。


京都から新幹線に乗り継ぐ 2002.3.29

 新幹線の特急券の方にも同じように記入されるが、そちらは改札で渡されないので手元にない。これはちょっと古い切符で、「乗継」印の手元にある最も新しい切符は2005年9月、松本から名古屋の自由席特急券。東京や名古屋のパック旅行では現れないからあまり使っていない。
 古い切符にはたくさん例がある。まず典型的なもの。

京都 名古屋乗継 1972.12.1

 この日、私は京都から新幹線で名古屋へ、そこから高山まで高山本線急行に乗車した。上宝村(現在は高山市)の福地に冬景色を見るため行った。乗り継ぎ割引を受けるために一緒に京都で購入したから、最下段に「京都駅発行」となっているし、急行の乗車駅がゴム印で押してある。ちなみに名古屋・高山間の距離は166.7km
 次に例外的なもの。

京都 名古屋乗継 1968.8.31

 この日、私は同じように名古屋へ、そこから中央本線で長野まで急行に乗車、飯山戦に乗り換えて飯山までクラブの夏合宿で移動した。当時のクラブは、基本的に現地集合。前の切符と違うのは、この急行券が名古屋駅発行であること。「同時に購入する」はずのものを乗り継ぎ駅で購入するのは普通できないが、京都駅で新幹線特急券を購入するときに、時間がなくて「名古屋で乗り継ぎする」ことを申告して特急券に「乗継請求」というゴム印を押してもらうと、名古屋でも買うことができた。そのときに「乗継請求」印のある切符は当然窓口で引き取られるから、手元に残らない。
 同じ頃、硬券でなくても乗継印のあるものがある。

乗車券に押された乗継印 1968.11.10 

 この券は、名古屋から新幹線で京都へ、そこから山陰本線で綾部に向かい、舞鶴線・小浜線で、若狭高浜まで行ったときの乗車券。旅行の目的は、大学の舞鶴帯の地質を見学する野外実習に参加するため。京都で途中下車しているが、乗り継ぎは当日に限定されている(例外あり)から京都の下宿に寄って旅行の用意をし、すぐに出かけたのか? でもおかしいなあ。若狭高浜まで行った記憶はない。福井県に入る手前の松尾寺駅で降りて、松尾寺の石段の下にある化石産地を見たはず。
 そんなわけで、ずいぶん乗継割引のお世話になったが、それもあと約10日で無くなってしまう。「取り扱いの終了」というが、はっきりとした値上げである。

私の旅行データ 31 鉄道乗車 1

2024年02月21日 | 鉄道

 旅行データを記録するようになったのは、学生時代の旅行記録の一部として、とくに北海道の国鉄の乗りつぶしを試みたことだった。すぐに日本全体を対象として、乗車した区間を記録し、乗車した区間の合計距離と、全線の距離に対する「未乗車率」を記録した。残念ながらその頃のノートが失われたが、仕事に就いた頃の未乗車率の変化をグラフにしたものが残っている。ただ、その基になる数字の表がないので、図を清書してみたが精度は悪い。

旅63 昔の国鉄未乗車率のグラフ

 ノートによると、国鉄未乗車率が50%を切ったのは1969年の8月に北海道からの帰途、上越線の上り、小千谷を過ぎたあたりだった。1986年には10%を切ったことがグラグでわかる。場所は釜石線の柏木平と宮守の間。そのころから、乗車しにくいところが残ったために未乗車区間がなかなか減らなくなった。一方で、目標を国鉄(このころJRに引き継がれた)だけではなく、全鉄道に移した。JR完乗は2008年7月で、場所は大湊線の終点であった。その時にはまだ私鉄などが9線残っていたが、1年ほどですべて乗車した。最後になった私鉄は北九州市のやまぎんレトロラインだった。
 その後、開業や延長されるごとに少しずつ乗りつぶし、完乗状態と数カ所の未乗車の場所がある状態を繰り返している。東日本大震災の直後に開通した九州新幹線と名古屋の地下鉄延伸に乗った後、震災の影響で新しい鉄道の建設がストップしたため、1,000日以上も「完乗」の状態が続いた。これより後で、最も多数の未乗車線のあったのは、2019年末で7か所もあった。
 現在は4か所の鉄道が未乗車となっている。北から富山駅の富山港線延伸部分、福井駅の福井鉄道延伸部分、広島電鉄宮島駅の変更部分、それに沖縄モノレール延伸部分。北陸の二か所は駅に直結する非常に短い部分の延長で、乗りに行くのはコスパが非常に悪い。沖縄もそれだけのために行く気がしない。
 ここからが本題。この「鉄道」の範囲は、はっきりしたものではない。次のような条件で自己流に決めている。
1 毎日定期列車が走る。季節運行路線も含める。
2 モノレールも含めるが、ケーブルカー・ロープウエイ・リフトは含めない。
3 トロリーバス・バスレーンは含めない。
4 入場券で入る施設内の交通機関は含めない。(ディズニーランドの周囲を走るディズニーリゾートラインは含めるが、施設内のウェスタンリバー鉄道は含めない。上野動物園内の上野懸垂線(休止中)も含めない。)
5 鉄道連絡船は含まれていたが、現在ほぼ消滅した。唯一残っていた宮島連絡は除外した。
 これらの鉄道は、基本としてJTB時刻表に営業距離が掲載されているから、前に書いた「未乗車率」などの計算も可能である。これが実態と違う距離になっているものも多い。各地の新幹線がその例であるが、いちいち調査するのは手数がかかるのでしかたなく営業距離を用いている。
 「乗車した」というのにはいくつかのことを決めている。
1 複線区間でも片道乗車すればクリア。
2 並行増設線や、複々線も同様。また駅などで複数のレールがあっても一つ通過すればクリア。
3 なるべく夜間乗車を避ける(努力目標)。なるべく居眠りをしない(努力目標)。
4 工事などによって、複線化・立体化・橋梁の付け替えなどレールがわずかに上下・左右に移動してもOK。
5 工事によって線路の位置が大きく変わったら、その区間は未乗車となる。

 このくらい細かく決めておいても、たくさんの問題が出てくる。ここでは次の3つのジャンルの「距離の示されていない路線」について記す。定期列車が運行している(またはしていた)所に限定する。ただし、このリストは不完全だろう。

A. 異なる会社の路線を列車が直通する区間
 直通列車の運行のために、設置されたところを「連絡線」と表記する。文中で「渡り線」としたのは、複線区間などで、上り線と下り線をつなぐような形で作られた線路。形状にはいろいろあるが、「N字型」と「逆N字型」、それにこれら二つを重ねた「シザーズ型」が主な形態である。
A-1 特急「日光」「きぬがわ」がJR東北本線と東武日光線を直通する栗橋。(埼玉県)
 2006年3月に、JRと東武をつなぐ連絡線が設置された。現在1日に6列車が通る。連絡線は単線で、栗橋駅の北側でつながっている。

旅64 栗橋駅線路接続図

 この図は、googleマップから描いたもので、縦方向に大幅に縮めてある。以下に出てくる地図では線の色分けは右枠の「凡例」に従う。東京方面から来た下り特急は、JR栗橋駅でたぶん運転停車をし(旅客の乗降はできない)、Bの連絡線を渡る。途中に長さ80メートルのデッドセクションがある。両方とも直流1500Vであるが、「混触を防ぐため」のしくみという。細かいことを言えば、電気代にも関わりそう。この部分はたぶん東武鉄道に所属する。連絡線は東武鉄道日光線の上り線につながっているから、下りの特急はAのN字型渡り線を通って東武の下り線に入る。上り特急は、渡り線を通った後CのN字型渡り線を介してJR下り線を横切り、JRの上り線に入る。Cの渡り線はずいぶん南にあって、東武線が立体交差する地点よりも東京寄りにあるようだ。
 連絡線はJR・東武の栗橋駅の構内にあり、上の「乗車した」条件では、別線とするにはあたらないとした。営業距離は設定されておらず、地図上での延長距離は100メートル以下である。私はここを通ったことはない。
通過列車(資料:JTB時刻表2022年9月号)
下り「日光1号」新宿〜東武日光(p.575)・「スペーシアきぬがわ3号」「きぬがわ5号」「スペーシアきぬがわ7号」新宿〜鬼怒川温泉(p.577−580)
上り「スペーシアきぬがわ2号」「きぬがわ4号」「スペーシアきぬがわ6号」鬼怒川温泉〜新宿(p.576〜580)・「日光1号」新宿〜東武日光(p.575)。なお、新宿から田端の手前までは山手貨物線を通る。田端の山手線・東北本線連絡線については後で記す。  
 不思議なことに、JTB時刻表巻末の「私鉄有料特急」ページ(東武鉄道:p.718にはこれらの特急の記載が無い。
関係年表
JR栗橋駅 1885年7月16日 日本鉄道大宮-宇都宮間開業・栗橋駅開業
東武栗橋駅 1929年4月1日 東武鉄道杉戸駅・新鹿沼駅間開業
JR・東武渡り線 2006年3月18日 「日光」「きぬがわ」運行開始
私の国鉄東北本線乗車(栗橋付近) 1967年8月4日
私の東武鉄道日光戦乗車(栗橋付近) 2008年2月2日

古い本 その160 ドーバー海峡のトンネル 2

2024年02月05日 | 鉄道

2. アメリカでの講演(1878年)
 最初の文章に戻って、1878年というのは明治11年であるから、日本ではやっと鉄道が敷かれ始めたころである。その時代に既にこのような具体的な調査がされていたことに驚く。さらにこの時代には技術の進歩はヨーロッパで先行していて、アメリカはそれを取り入れる立場であったと考えられる。
 この論文には、別の著者による前書きがある。その部分はMoncure Robinson (1802−1891)によるものでフランスの出来事を紹介するに至った経緯が書いてある。Robinson氏はアメリカの鉄道建設や経営に関わる事業者・技術者であるから、この内容には特に興味があったに違いない。
Michael M. Chevalier (1806−1879)は、フランスの技術者・政治家・経済学者で、アメリカで活動した。1852年に American Philosophical Society会員に選出された。
 まず、トンネルの計画の中で、いくつかの問題点が指摘されている。例えば、地層中に海水が構造物に浸透する可能性のある複数の亀裂や裂け目、または脅威となる部分がないことや、そういう地層が海峡下に連続しているのか、そして地層自体が十分な不浸透性を備えているか、といった基本的な条件を調査する必要があること。そして実際に1875年から1876年にかけて、まず、両岸の地質調査によって地質構造を明らかにしたという。海底部については。多くの地点で測深(錘による測定)を行うとともに、その錘に付けた器具によって、底質の一部を引揚げて地質のデータを得ることができたとしている。二年間で7,671地点の測深値が得られ、そのうち3,267地点の底質のサンプルが得られたという。最後にSangatteというところで深さ130mの立坑を掘削してその実効性と実際の地層の掘削を試みている。
 その結論として、まず両岸の地質はよく対応ができ、同一の組み合わせであることが実証された。さらに、その地層のひとつ(下部白亜層)は、不透水性や堅牢性について十分な性質を持っていることから、トンネルを通すのに最も適したものであることを推測した。
 フランス人によるアメリカでの講演というのは、当時の感覚では「科学の遅れた国に啓蒙的に」行ったものだろうか?むしろこの事業に対する投資を求める宣伝なのではないだろうか。
 この講演記録を読むときにはいくつかの用語の理解が必要。まず、小文字の「cretaceous」は、時代名ではなく堆積岩名や地層名と思わねばならない。もう一つは「sounding」という言葉で、海などの水深を図るという意味。音とは関係がない。現代は水深測定に音波の反射を用いるのでつい「音響測深」とおもってしまう。これとは別に、「sound」には「入り江」や「正常な」という意味もあるのでややこしい。

3. フランスの調査(1857年)
 この講演記録は、図版を伴わない。やはり関係2国の論文を見たいと思ったので、探してみた。1992年に公表されたドーバー海峡の地質に関する論文の参考文献表を利用した。この論文表はその分野を網羅したもので、合計395論文をリストアップしている。その内19世紀の論文は9件あるが3件(フランス語が2件,英語が1件)が「海峡のトンネル」というようなタイトルだった。幸いにも2件のpdf(英仏各1)が入手できた。まず、フランスの論文で、前記の講演よりも、また二年間にわたる調査よりも20年も前のものである。。
○ Thomé de Gamond, Louis-Joseph Aimé 1857. Étude pour l'avant-projet d'un Tunnel Sous-Marin entre l'Angleterre et la France. (Paris: Libraire des Corps Impériaux des Ponts et Chaussées et des Mines.) : 1-181, Planches 1-3. (英国とフランス間の海底トンネルの予備的な草案の研究)
 全部で200ページ近いもので、第1章(序言)から第7章(結論)、それにかなり長い追加・付記から成る。地質だけではなく、経済的な影響などにも言及した総合的なものだが、多くの項目は簡単に記されていて、第2章は地質、第3章がルート、第4章が掘削、といったあたりが詳細な記述があるから主要部分なのであろう。
 46ページに、検討したトンネルの位置を示す地図がある。

599 Thomé de Gamond 1857. P.46. 計画図

600 Thomé de Gamond 1857. P.46. に現在のトンネル(青破線)を加筆

 なお、このルート図には1994年に完成したトンネルの位置を書き足した。青破線が現在のトンネルの位置、黄色は地上の線路の位置である。1857年の計画ルートは、北西—南東方向で、ドーバーの町の近くに入り口を持ち、そこから海岸線「ドーバーの白亜の崖」と並行して南西に向かって下降し、直角に曲がって海底部分に入る。このコースは海峡のほとんど最短のところを通っている。ただし、これだと良好な地質の部分を通ることのできないところが出てくる。当時の地質学データは、おそらく海底部分ではかなり不完全であったと思われる。だからこそ1875年・76年に大規模な海底地質の調査が行われたのではないか。海峡のこの付近の地質は、前にも書いたが西北西〜東南東方向の走向で、北北西に傾いた単斜構造で、同じ深さで同じ(トンネルに適した)地層を追えば、必然的に実際に完成した方向のトンネルとなる。それが南にいくほどターゲットの層は浅くなり、ついには海底に露出して危険になる。さらに南に行けばターゲット層は存在しなくなる。ただし、この「単斜構造」は、もっと広く見るとその南にある軸を介して大きな背斜構造の一部であるから、この構成が続けば南の方にここと反対に南に傾斜したターゲットの地層があるかもしれない。それがあったとしても、海峡の幅がずっと広くなって、建設には非常に不利になる。