OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

4月のカレンダー

2024年03月29日 | 今日このごろ




 今回はBuckland, 1824, Plate 44、Megalosaurus. 最後の図。4本の骨がある。今回もおおよその長さを計算して付記する。
Figs. 1-2. Oxford Museumで最大の大腿骨。二方向から。28 cm
Figs. 3-4. おそらく鎖骨。二方向から。20 cm
Fig. 5. 細長い骨の一部。腓骨か? 21 cm
Fig. 6. 大きな骨の後方の一部。中手骨か中足骨。10 cm
 まず、大腿骨について。大腿骨の文面からすると他にも(もっと小さな)大腿骨標本が同博物館にあることになる。Owenもこの標本を図版に示している。

4-2. Owen, 1856, Tab. 7. Megalosaurus. 大腿骨

 上のFig.2は内側、Fig.1は後ろ側のスケッチ。Owen, 1856のスケッチはほとんどがBuckland, 1824の再録のようだが、大腿骨に関しては描き直してある。Owenの方は解剖学的に正しい方向の絵になっている。
 次のFigs. 3-4. 「おそらく鎖骨」というのは誤り。先月紹介したOwen, 1856, Tab. 4. Fig. 4と同じものであることはすぐにわかる。3-5で示したGilmore,1920, Plate 12. 「Antrodemus (=Allosaurus) valensの坐骨」と比較してみよう。

4-3. 左のふたつ:Buckland,1824, Plate 44, Figs.3-4.、右Gilmore,1920, Plate 12, Figs.3-4. 坐骨

 この骨は仙椎側がY字型で、ふたつの突起がある。前側が恥骨と、後ろ側が腸骨とつながる。前側全体が左右の坐骨が並行し、とくにobturator processという突起がある。それより下では狭い間隔を置いて並ぶ。Bucklandの標本は腸骨につながる突起と左右の坐骨がつながる突起が失われている他は、かなり一致するが骨体が直線的でないことと、下端の形はやや異なる。
 Fig. 5. 「細長い骨の一部」は、よく分からない。Owenは、この標本を図示していないようだ。Fig. 6は中手骨ではなく中足骨なら矛盾はないが、特徴が出ていないので何番目の指(趾)のものかは判定できそうにない。

 以上で、Bucklandの標本が終わったが、のちの判定と関係が面倒だから、表にしてみた。Owenの判定とともに、Benson et al, 2008の判定と、そこに記されている登録番号を付けた。

4-4. 骨名の判定対照表 Buckland,1824, Qwen, 1856, Benson et al.,2008

 登録番号はOxford University Museum of Natural Historyのもの。少し不明確なものがあるので、間違いがあるかもしれない。

4月の参考文献
○ Benson, Roger B. J. Paul M.Barrett, H.Philip Powell and David B. Norman. The Taxonomic Status of Megalosaurus bucklandii (Dinosauria, Theropoda) from the Middle Jusaric of Oxfordshire, UK. Palaeontology,vol.51, Issue 2: 419-424. (イギリス・Oxfordshireのジュラ系中部からのMegalosaurus bucklandii (恐竜類、獣脚類)の分類学的位置)
○ Buckland, William, 1824. Notice on the Megalosaurus or great Fossil Lizard of Stonesfield. Transactions of the Geological Society, London. 2nd Ser., vol. 1, Pt. 1: 390-396, Plates 40-44. and their explanation in 2 pages. (StonesfieldのMegalosaurus, または巨大な化石トカゲに関する報告)
○ Gilmore, Charles Whitney, 1920. Osteology of the Carnivorous Dinosauria in the United States National Museum, with special reference to the Genera Antrodemus (Allosaurus ) and Ceratosaurus. Smithsonian Institution, United States National Museum, Bulletin 110: 1-159, Plates 1-36.
○ Owen, Richard, 1856. Monograph on the Fossil Reptilia of the Wealden Formations, Part 3. Megalosaurus Bucklandi. Palaeontological Society, London. Monograph. Vol. 9; 2-26, tabs. 1-12. (Wealden層の化石爬虫類モノグラフ)

私の旅行データ 34 鉄道乗車 4

2024年03月25日 | 旅行
A-6 かつて特急「北アルプス」がJR高山本線と富山地方鉄道立山線を直通していた富山。(富山県)
 上記の特急は、高山から富山に向かい、そこで富山地方鉄道に乗り入れて立山まで運行していた。富山駅まで高山本線で到着した列車は、連絡線で富山鉄道に入った。私は2006年にここを見たが通ったことはない。この場所は、北陸新幹線の開通とそれに伴う駅の改築に伴って2010年に廃止された。

旅69 富山駅東のデッドセクション 2006.6.26

旅70 上の写真の一部(拡大)
 
 この写真は、北陸新幹線の建設前に撮影したもので、右の電柱に「切換」という標識がある。向こうから来るのは北陸本線(当時)の新潟方面に向かう貨物列車。手前の鉄橋を渡る線路は富山地方鉄道でその間に連絡線があった。残念ながら撮影時にこの写真の重要性を認識していなかったから、位置関係などがわかりにくい。
 私はこの連絡線を通ったことはない。
通過列車
1990年3月10日「北アルプス」の運転経路短縮でこの連絡線の定期旅客列車は無くなった。
関係年表
あいの風富山鉄道 1908年11月16日 北陸本線富山・魚津間開業・富山駅が現在の位置に移転開業
電鉄富山駅 1914年12月6日 富山軽便鉄道富山駅として開業。その後位置を移動。
JR・富山地方鉄道連絡線 設置年不明.2010年4月18日廃止
私の国鉄北陸本線乗車(富山付近) 1965年7月29日
私の富山地方鉄道本線乗車 2006年6月26日

A-7 大曽根の連絡線(参考)
 かつて名古屋北東部の中央本線大曽根駅で、名鉄瀬戸線との間に連絡線があって、貨車の移動をしていた。当時は中央本線が築堤上、名鉄が地平だったから勾配がずいぶんあった。私の通学コースにあったから、凸型の電気機関車が貨車の入れ替えをしていたのを記憶している。

旅71 1968年頃の大曽根駅付近 1971年発行の2万5000分の一地形図「名古屋北部」を基に作成

 上の地図は当時の大曽根付近の地形図。黒線が中央本線で、後に少しかさ上げされた。オレンジ線は名鉄瀬戸線で、当時地平にあったのを立体化して、オレンジ色の破線の位置に変更した。中央の六差路が当時渋滞することで有名だった。瀬戸線の踏切をなくし、真西に向かうE道路をなくし、さらにAからDに抜ける国道19号を灰色の破線に変更した結果、現在はあまり渋滞しない。基にした地形図には大きな誤りがあって、青線の路面電車はDから来る大曽根線は六差路に入る所の東大曽根停留所で終点であって、そこからガードの下には路線がなかった。国鉄ガードの東にある矢田町四丁目からB方向に「循環北線」、次の曲がり角の矢田町十丁目からは「循環東線」(運転系統は一連のもの)という線が運行していた。ガード下を通せなかったのは、このガードの高さが低かったためで、道路はそこで掘り下げられていた。
 ガードは二つが連続していて、掘り下げられた主要道路の南に、もう一つのガードがあった。こちらは掘り下げられていなかったが幅の狭いものだった。現在はJR大曽根駅に北口ができて、そういった痕跡はほとんどない。この連絡線は旅客列車が通ったわけではないから、ここで挙げるのは適切ではない。ちょっと懐かしかったので。
 ずいぶん後になって、木曽福島駅で「251」という電気機関車を見かけた。これが大曽根で働いていた機関車だったのだろうか? 251は瀬戸線に1966年に配属されたが、1969年には北恵那鉄道に譲渡された。1978年9月に廃車となり、静態保存されていたそうだが後に解体された。

旅72 恵那駅 1973.6.11

 ここまで異なる鉄道会社の連絡線7か所について記した。営業距離は設定されていないが、地図上で計測した結果としては最大でも300メートルほど(松田・鵜沼)で、どれも駅構内と言ってもいいような位置に設置されている。総計距離は1000メートル以下であろうか。
 これらの連絡線の地形図上での扱いを調べてみた。見たのは主に国土地理院の電子地図で、鉄道記号の区別のある最大縮尺の画面でこれら連絡線の表記を比較した。
A-1 栗橋 連絡線の表示なし
A-2 松田 連絡線は私鉄の記号で表記
A-3 田原町 私鉄同士だが、福井鉄道は路面電車の細線で表記されている。連絡線部分はえちぜん鉄道と同じやや太い線で表記されている。
A-4 大月 連絡線の表示なし。現在も定期列車が走っているのに。
A-5 鵜沼 廃止直前の地形図では私鉄記号で表示。ただしもっと古い図で混乱がある。
A-6 富山 連絡線の表示なし。古い地形図にも見当たらない。
A-7 大曽根 古い地形図には細線で記入されているものがあるが、位置はちょっとおかしい。 

古い本 その164 ドーバー海峡のトンネル 追記 中

2024年03月22日 | 鉄道

 Philosophical Transaction 創刊号, 1655 を見ている。
 最初の儀礼的な文章が終わるとジャーナルの主体部分ということになり。ノンブル(ページの数字)はここから始まる。The Contents, The Introductionが置かれてから、それぞれの「論文」というか記述が始まる。Contentsには10の項目が列挙されている。分野は多様で、順に、天文学3件 医学 生物学 鉱物学 窯業 捕鯨 航海学 数学 という。全部をまとめるとすれば科学論文である。形式としては、編集者の元に寄せられた書簡を紹介する、という形。著者名がよく分からない。幾つかを抄訳する。
1. 光学ガラスの改良の成果(パリからの通信)
 G. Campani (Giuseppe Campani 1635-1715)によると、大きなレンズを型を用いないで天体望遠鏡を製作した。色収差を減らすことができたという。1659年の土星の観察。内容はよく分からない。この書簡は天文学的な内容で、有名な天文学者の名が出てくる。例えばC. Huygens(1629−1695:ホイヘンス:オランダの数学・履理学・天文学者。土星の輪の研究で有名)、Copernicusなど。この部分の一部を拡大したのが下の図。

614 1666年の印刷物 3ページ

  最初の単語は「respects」で、ctが連字になっているほか。前のsはfの横棒がないもののような文字。この類は、ドイツの文献では後の時代でもよく出てくる。コンピュータの文字にも「ſ」がある。2行目の「goodneſs」「Graſſes」もsに読み替えればわかる。4行目に「He addeth」とあるが、addeth はadd 過去形addedの古い形。1600年代でも、この中ですぐに分からない単語はこれ一つ。意外に少ない。

2. 木星の帯の斑点(Hookの独創的な観察)
 Hook(としか書いてないが、おそらくRobert Hooke 1635-1703)は王立協会のフェローで生物学者。フックの法則・顕微鏡の作成などで有名。Hookは1664年の夜に木星の帯の一つに小さな点を見出し、それが西に向かって木星の直径の半分ほど移動するのを見た。ちなみに、木星の自転周期は約10時間で、地球の24時間と比べて随分早い。観察者が見ることのできるのは夜で、10時間ぐらいだから、見えているところの半分を移動するのが見えるのはおかしくない。
 この後ろに、かなり長い彗星の観察記録がある。
3-7. 省略

8. バーミューダの新しいアメリカによる捕鯨
 長めの文章であるが、面白そうなので読んでみた。このジャーナルの文章はすべて著者が誰であるかが明記されない。書簡の発信者として記されていることもあるが、文章中に「私」と出てきた時には、編集者と理解するしかない。この鯨の記録についても、おもな情報源は「捕鯨に従事していた屈強な男」(ここでは「捕鯨漁師」としておこう)の発言である。それを記録したのが誰であるのか判然としない。
 捕鯨漁師は、見出しから判断してアメリカ人かアメリカ人の主宰する漁業に雇われて、バーミューダに17回赴いた。その年号は明記されていないが、17回という限りは単独の年ではなさそう。12回は「fastned their Wepons」したというが、どういう意味だろう? 「fastened」の古い形だろうと思うが、「武器を据えた」つまり5回は偵察だけだった、という意味だろうか? いずれにしても、その事業で、成獣のメス鯨を2頭と、3頭のこどもを捕えたという。成獣の長さは88フィート(約27メートル)と60フィート(約18メートル)、こどもは
25フィート(約7.5メートル)から33フィート(約10メートル)という。捕鯨の目的は鯨油の採取で、「樽職人が不足していたから」11トンを持ち帰った。という。これで採算が取れたのか心配になる。
 鯨の種類については、1メートルの「エラ」(たぶん鯨ヒゲ)を持つとか、いろいろな記述からザトウクジラではないかと思われる。
 鯨をFishとしているとか、尾をTayl と綴っているとかは。古い英語だからありそうなこと。ヨーロッパの遠洋捕鯨は、1611年頃にイギリスが北極海で行ったのが古い記録。1670年の北アメリカ東岸の捕鯨、とか1712年アメリカのマッコウクジラ捕鯨の記録、とかが、古い時代の記録で有名なものだから、この1665年の記録は最も古いものの一つなのだろう。

9.  経度計測ための海上の振り子時計の成功に関する話
 海上の経度に関する振り子時計の機能;およびそれに対する特許付与について。Major Holmesからの連絡。経度計測の海上の振り子時計というのは、正確な時計を求める大きな理由がある。陸の見えない遠洋を航海するためには、正確な地図・海図とともにその図上での船の位置を知る必要がある。赤道からの距離である緯度については、北極星の高さを測ることでかなり正確に求められる。ところが、緯度を知るためには、地球の自転で変化する星の方位から決めるから、時刻を正確に知る必要がある。
 Holmes少佐という人が精度の高い振り子時計の作成に成功したという。この時計を使った実験航海の結果が記してある。実際には振り子時計によって揺れる海上で必要な精度の時刻を知ることはできなかったようだった。後に針の進みを一定にする装置が実用化され、約100後の1769年にイギリス海軍の船に装備された。その後も更に精度の高い機構の開発や、懐中時計などの小型化が進められた。精度の高い時計は「クロノメーター」という規格を検定によって得ることで、その名を名乗ることができた。日本でもその検定をおこなう資格のある機関(日本クロノメーター検定協会)があったが、1984年にクォーツの普及で解散した。

10 Tholouseで亡くなった議会参事官を務めていたFermat氏についての出版物
 Pierre de Fermat(1607−1665)のことだろう。例のフェルマーの「定理」(3以上の自然数nについて、二つの自然数のn乗の和が自然数のn乗になることはない)で有名な数学者。1995年に解決した。その解決についてここで記すにはこのスペースは狭すぎるので、ここでは書かない。
 彼の数学に関する業績がいろいろ書いてあるようだが、私には理解できない。Tholouse (Toulouse) は、フランス南部の都市。生誕地の近くで、1831年から議員に選出され、死ぬまで勤めた。

 本文はこれで終わり。空白の1ページを挟んで、1ページの図版がある。

615 Philosophical Transactions 創刊号? 図版

 これはなんだろう? 本文中に図版説明はないし、関連しそうなテーマも見当たらない。実はこの図版は、雑誌の創刊号から2号の間に置いてあるが2号の21ページから始まる水銀の精錬に関する文章に付けられたもの。何かの間違いで創刊号の巻末に入ったのではないだろうか。というのは2号26ページの次にも同じ図版があって、その右上には「N.o2d」という小さい書き込みがある。さらに図版の仕上がりが2号のではかなり悪くて細部が見えなくなっている。
 22ページの最下方にFig. Iの説明が、25ページの最後の方にFig. II. の説明がある。こちらだけ翻訳しておく。A:水流. B:「滝」. C:水槽. LG:管. G 管の口またはふいごの口. GK:炉. E: 管の開口. F:ストッパー. F: 床の水の流出部。左側の炉で鉱石から水銀を流しだして、右の縦の水槽で速やかに冷やすのだろうか。その水銀を含む水を下の装置で漉しとるのかな? なお、この図版の印刷方法は(証拠はないが)木版だろうと思う。
 このように、イギリスの学術誌は随分古くから存在したし、わずかな「読み替え」をすれば、現在も理解しやすいことに驚く。活版印刷という技術が大きく役立っているに違いない。さらに創刊号から(実は2号の内容だが)図版が入っていることにもすばらしい。

私の旅行データ 33 鉄道乗車 3

2024年03月17日 | 旅行


A-4 中央本線から富士急行大月線に列車が直通する大月駅
 中央線から富士急行大月線に乗り入れる列車が通る経路である。大月駅は中央本線の駅の南に行き止まりの大月線の駅が並んだ形で、大月線の終点は行き止まり。下り直通列車は中央線のホームで停車した後、甲府側に出て単線の連絡線で大月線に入る。大月線も単線。連絡線の長さは150メートルほど。

旅67 大月駅の配線
 
 図では、線路の間を広げるために外側にずらして描いてある。私はこの連絡線を2007年6月3日に通過した。
通過列車(資料:JTB時刻表2022年9月号)
下り「あずさ3号:大月線に行く部分はここから「富士周遊3号」・「かいじ7号」(同様にここから「富士周遊7号」)・「かいじ11号」(同様にここから「富士周遊11号」)・普通列車3本(平日と土祝日とは少し時刻が異なり、列車番号も別)(p.536-542)
上り「かいじ36号」:大月線からくる部分はここまで「富士周遊36号」・「あずさ44号(同様にここまで「富士周遊44号」)・「かいじ48号」(同様にここまで「富士周遊48号」)・普通列車3本(平日と土祝日とは少し時刻が異なり、列車番号も別)(p.547-549)
関係年表
JR中央本線 1902年10月1日 中央本線鳥沢・大月間開業・大月駅開業 翌年初鹿野方面に延伸
富士急行大月線 1903年1月17日 富士馬車鉄道大月・谷村本社間開業。
JR・富士急行連絡線 設置年不明.1934年臨時列車が東京・富士吉田間に運転された。
私の国鉄中央本線東線乗車 (大月駅付近)1983年8月3日
私の富士急行大月線乗車 2007年6月3日この時連絡線も乗車。

A-5 かつて特急「北アルプス」が名鉄犬山線とJR高山本線を直通していた鵜沼。(岐阜県)
 「北アルプス」や先行した急行「たかやま」がここを通ったが、JR・名鉄・富山地方鉄道を直通する列車の廃止に伴って現在は存在しない。特急「北アルプス」は2001年9月まで運行された。現在も連絡線は跡がカーブした道路として残っている。1970年〜1992年修正の国土地理院地形図には、この連絡線が記されているが、下の現在の地形図にあるカーブを描いた道路と南端の短い部分を除いてよく一致する。この古い地形図では、連絡線部分が非電化単線の私鉄の線で表されている。さらに古い1947年修正の地形図では、犬山線は現在の連絡通路に沿った方向にあって、高山本線に突き当たる位置に終点があり、各務原線はそこから高山本線に並行する形で始点が置かれていて、犬山線との線路の接続は無い。また現在の連絡線の位置には側線があって、カーブが一致するが、その曲線が高山本線に近づいたところでそれに並行する直線部分があって、それも現在の道路と一致する。並行部分と高山本線とをつなぐ線路は無い。並行部分は貨物の積み替えに使われたのだろうか。不思議なことに、このカーブした部分と各務原線は国鉄に使われた「旗竿」で描かれている。線路の地図記号が変遷しているからよくわからない。

旅68 鵜沼 線路跡の道路を記した

 私は二回このルートで名古屋から高山に向かったが、一度目は連絡線を通った。配線図でわかるように、この列車は新鵜沼駅にも鵜沼駅にも停車することができない。二度目は名鉄犬山線の新鵜沼駅から高山本線の鵜沼駅に乗り継いだ。長い長い連絡通路を通った記憶がある。なお、木曽川を渡る犬山橋は、かつて道路との併用橋であったが、現在は道路橋が下流側に作られた。

通過列車
JTB時刻表2001年3月号によれば、特急「北アルプス」下りは、新名古屋1146発・犬山遊園1214発・高山(終点)1412着。美濃太田から高山までは「ワイドビューひだ7号」と併結。
特急「北アルプス」上りは、高山発1708・犬山遊園1906着・新名古屋1933着。高山から美濃太田まではワイドビューひだ18号と併結。1日1往復。
関係年表
高山本線 1921年11月12日 各務ヶ原駅-美濃太田駅間の開業・鵜沼駅の開業
名鉄犬山線 1926年10月1日 犬山線犬山橋駅(現・犬山遊園駅)-新鵜沼駅間開業・関線(犬山・犬山橋間)とともに犬山線に編入
名鉄各務原線 1927年9月20日 各務原鉄道 二聯隊前駅(現・名鉄各務原駅)-東鵜沼駅(現・新鵜沼駅)開業・東鵜沼駅開業
同 1961年2月5日 東鵜沼駅が新鵜沼駅に改称
同 1935年3月28日 各務原鉄道を名岐鉄道に合併、同年8月1日 名岐鉄道を名古屋鉄道に改称
犬山線・各務原線の接続と新鵜沼駅形態の変更 1947年 回送などに使われる線だったが1987年に駅形態がほぼ現在のものになった
犬山線・高山本線の連絡線 1972年設置。2001年10月1日「北アルプス」廃止。連絡線を通過する旅客列車は無くなった。線路はすくなくとも2008年には残っていた。2006年撮影の写真を見ると、高山本線に合流する直前まで電化されていたように見える。2013年道路供用開始
犬山橋の鉄道専用化 2000年3月28日
私の国鉄高山本線乗車(鵜沼付近) 1987年9月2日
私の名鉄犬山線乗車(鵜沼付近)1972年ごろ
私の名鉄各務原線乗車(鵜沼付近)1977年7月ごろ
私の高山本線・犬山線連絡線乗車 1972年ごろ

古い本 その163 ドーバー海峡のトンネル 追記 上

2024年03月13日 | 鉄道
古い本 その163 ドーバー海峡のトンネル 追記 上

追記:
 合字に関するネット上の記事にはctや、それに似たst・spなどがある。もっとポピュラーな、fi flなどは現在も使われている。F小文字の上の点とiの点は、近づいて見苦しいからとfのてっぺんに付いている。コンピュータの文字入力のウインドウを使えば、ff, fi, fl, ffi, ffl それにij というのが選べるように見えるが、実際に入力するとほとんどのフォントで二つの文字として入力されてしまう。一方もう少しポピュラーなae, oe の合字は多くのフォントで合わせた文字が用意されている。
 もっと古いジャーナルでは面白い合字があるに違いないと思って、古い科学ジャーナルを覗いてみた。たまたま見つけた雑誌は次のもの。最も古い科学雑誌かどうかは確認できなかったが、かなり古い。
ジャーナル:Philosophical Transactions giving some Accompt of the Present Undertaking, Studies, and Labours of the Ingenious in many Considerable Parts of the World. Vol. 1. Numb. 1. Munday, March 6. 1665. Pp. 1-16, Fig. 2.
 表題の意味は、自動翻訳にかけると「世界の多くの重要な地域における独創的な人々の現在の事業、研究、労働に何らかの成果を与える哲学的会報」となる。発行年の最後の数字がよく見えない。4の下に5が書いてあるように見えるが1664年なのか1665年なのか。第2号は1665年4月3日、第3号は同年5月8日発行で、間隔が7の倍数だから1665年と判断できる。「Munday」というのもこれが古い表記なのだろうか?
 第1号(Numb.1という略記も馴染みがない)は、16ページ +1図版しかない薄っぺらいジャーナルである。

611  Philosophical Transactions 創刊号 紋章

 発行された1665年は、日本でいうと江戸時代の初め、4代将軍家綱の時代。見返しに、いかにもヨーロッパ風の紋章が示されている。竜?の頭や甲冑などが描いてあって、下部に文字を書いたリボンが配置してある。「TUTE・SI・RECTE・VIXERIS」ラテン語で。「真面目にやっていれば安全だ」というような意味(もっと格調高く訳さねば)。
 タイトルページの前にもう一つ大げさな絵画が印刷してある。

612  Philosophical Transactions 創刊号 タイトル前の絵画

 胸像を囲んで両側に人物が、そして胸像に天使(翼があるし、ラッパを持っているから)が冠を捧げている。胸像の人物は台座に書かれているようにチャールズ2世(1630−1685)で、この学会に許可を与えた王、その下に「王立協会の著者とパトロン」としてある。インターネットで調べると、よく似た肖像画が出てくる。台座を指している左の人物は床に「協会会長」となっていて、その下に小さくEvelyn...と書いてあるから、たぶん王立協会創立のひとりのJohn Evelyn (1620−1709:作家)であろう。こちらもネットで出てくるEvelynの肖像画に似たところもある。また右の人物は「芸術の修復者」となっていて、その下にWで始まる名前が書いてあるようだが、読めない。協会発足当時の有力メンバーであるJohn Wilkins(1614-1672;牧師)の可能性がある。バックの柱などにコンパスや振り子のような器具・銃などがいくつも飾ってある。それぞれに寓意的・象徴的な意味があると思うが、私には理解不能。
 古い「ジャーナル」を見た目的は二つあって、一つは「学会誌」の最初の頃の姿を見たかったこと、もう一つは使っている活字が現代とどうちがうかということ。まず「学会の最初」というのだから、イギリスに違いないから探してこれに遭遇した。
 ジャーナルの最初に2ページほどの文章がある。「To the Royal Society」(王立学会に)という題で、著者はHenry Oldenburg(1618頃-1677)となっている。彼はドイツ生まれ、イギリスで活動した科学者で、この学会の初代事務総長。この文章は、イタリックのような斜体で飾りの多い活字で組まれている。現代のフォントと大きく違うわけではないし、驚いたことに大部分はOCRで取り込むことができる。それができないのは、まず文章の初頭で、(最近でもそういう印刷形式はあるが)最初の文字を何行にもわたる大きな模様の入った飾りで囲んでいる。最近のと違うのは、この飾りがむやみに大きいこと。この部分はもちろんOCRに乗らない。こういう字を「ドロップキャップ」という。

613 Oldenberg, 1665. 文頭

 この本文の最初の単語は「It」である。Iは大きな飾りで囲まれているし、Tも単語の二番目の文字なのに大文字である。もう一つOCRで処理できないのは「s」に2種類あること。普通のsと、縦に長いのがある。本文3行目の最初の単語は「Fulness」である。この他にも現代の印刷と違うところがあって、本文にやたらと大文字で始まる単語(名詞・一部の形容詞)があること。何かドイツ語みたいだが、著者がドイツ出身であることとは関係なさそう。この斜字体の2ページ目のヘッダーに「Epistle Dedicatory」(奉納書簡というような意味)としてある。事務総長からこの本の創刊に寄せた文という意味だろう。