OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

古代の輸入薬

2016年05月31日 | 化石
古代の輸入薬

 5月28日付の朝日新聞土曜版「Be」を読んで驚いた。その記事は、4面の「丸山裕美子の裏表の歴史学」シリーズの「古代の高額輸入薬」と題するもので、奈良時代ごろに高価な薬材を大陸から輸入していたことの解説であった。私の驚いた部分は、正倉院の「五色龍歯」についての記述で、「五色龍歯は…ナウマン象の臼歯の化石で…」として、輸入薬の例として挙げられている部分である。よく知られているように、ナウマンゾウは日本固有の種類であるから、そうであれば輸入薬では無いことになってしまうではないか。
 ネットで調べると、正倉院に関する多くのサイトで同様に五色龍歯はナウマンゾウとする記述がある。しかしこの記述は、私の知る限り正しくない。正倉院薬物に関する研究は、1955年発行の朝日奈泰彦編集「正倉院薬物」で公表されている。古脊椎動物関係では、次の4項目が見られる。13龍骨・14白龍骨・15龍角・16五色龍歯。これらは鹿間時夫先生による古生物学的な研究であるが、最初の13だけは、益富壽之助先生による薬材としてのこれら全部の解説が前置きとして加わっている。4項目で160頁から171頁に収められている。他に口絵があるが、手元にそれは無い。

「五色龍歯」の別刷り

 五色龍歯に関する鹿間時夫先生の結論部分を写しておこう。「結論 五色龍齒の大塊は舊象Palaeoloxodon namadicus(Falc. & Caut)であり、小塊はArchidiscodon planifrons(Falc. & Caut.)であると思われる。その産地は多分印度であるかもしれないが斷定は出来ない。」
 つまり、鹿間先生は五色龍歯(の大きい方)をナルバダゾウであるとしていて、ナウマンゾウという研究結果では無い。なお、ナウマンゾウは当初ナルバダゾウの亜種として記載されたが、後に独立の種として扱われている。1974年発行、周明鎮先生の「中国的象化石」では中国大陸にもナウマンゾウとされる標本があることを記述しているようだが、現在そう考えている研究者はいそうにない。
 正倉院の薬材にナルバダゾウの化石があることは、亀井節夫先生の「日本に象がいたころ」岩波新書・1967の冒頭にも出てくる。ここで記した先生方に多くのことを教えていただいた。鹿間時夫先生からは、「正倉院薬物」の別刷りをいただいて、現在も大切に保存している。周明鎮先生からは「中国的象化石」にサインを頂いた。残念ながらこの本は後にソビエトの研究者に強く請われて差し上げた。手元にあるのは買い直した一冊である。

「中国的象化石」

上に挙げた先生方とは、すでにどなたともお会いすることができなくなってしまった。


父の遺した写真 1 写真のデジタル化

2016年05月28日 | 鉄道
父の遺した写真 1 写真のデジタル化

 私の父は1981年に亡くなった。遺品のうち、生前調べた教育や歴史の資料は最後に小学校長をしていた町の教育委員会に寄贈した。その中にフィルムのコレクションがある。フィルムの状態で保管されていたのでは、どなたもすぐに利用できないと考えて、昨年これを借り出してデジタル化を行った。保存されていたフィルムやプリントは、8,000枚程度だった。個人的なものや、撮影・保存・それに著作権に問題があって使えそうにないものを除き、約6,500枚をデジタル化して、今年初めに教育委員会に納入した。
 最近になってこの作業をした理由はいくつかある。まず「フィルムをスキャンする」ということが、近い将来やりにくくなりそうなこと。透過光の処理のできるスキャナーは、業務用ならともかく家庭用のものがずっと発売されるとは考えられない。写真をフィルムで保管するということ自体が、ほとんどなくなるかもしれない。もちろん、私自身が退職して、時間的な余裕ができたことも理由の一つ。
 保管されている父のフィルムは、ほとんどが白黒のネガで、一コマずつ切り離したものが多い。これをスライドのマウントをするプラスチック製の枠にいれてスキャンした。一回の撮影テーマ毎に紙製の小袋に入れて、撮影日時とテーマがインクで記入してある。父は、小学校社会科の教材として利用するために撮影を続けていた。

1-1 保存されているネガ

1-2 袋にデータが記してある。

 他にプリントもあるが、焼付の状態が悪い。撮影の対象は、社会科の教材になるものであるから町の風景から古文書の複写、各種の行事など多岐にわたる。記録されている中で、最も古い日付は1956年3月26日、最も新しい日付は1980年12月2日だから、今から60年前から36年前ということになる。撮影場所は名古屋とその近郊が多い。それ以外のほとんどの都府県を訪れているようだが、北海道と沖縄は無い。父は、この間3か所の勤務先に通勤したが、ずっと撮影していたようだ。
 このブログでは、保管されている写真のうち、鉄道や道路など「交通」に関するものだけを紹介する。時系列ではなく、「名古屋駅」から始めてテーマ別に配列する。ジャンルは「鉄道」に入れておこう。写真の転載はご遠慮願いたい。


1993年のニュージーランド研究旅行 その1 出発まで

2016年05月25日 | 昔の旅行
1993年のニュージーランド研究旅行 その1 出発まで
 
 今回から、昔のニュージーランド旅行の記録を記していく。私は海外旅行の経験が少ないが、これまでニュージーランドは3回訪れた。1993年の旅行はそのうちの最初のものであった。期間は約2週間、観光はほとんどしないで、化石の研究にいそしんだ。

 この旅行のきっかけは、1992年8月の万国地質学会議(IGC)にある。京都で行なわれたこの学会は、4年に一度の地質学関連最大の行事で、アジアで初めての開催でもあり、日本の関連学会が全面的に支援した。4年毎ということで、「地質学のオリンピック」とも言われ、記念切手が発行されたぐらいだから、これに参加することは大きな名誉でもあった。予選があるわけでは無いが、発表が英語であること(それに、今と違ってポスター発表があまりなかったこと)が、参加のハードルを高くしていた。

1-1 学会会場となった京都会館 1992年8月

 私は、当時化石の剖出が終りに近づいていた鯨化石についての公表を申込んだ。「この鯨は、ヒゲクジラ類の中でもかなり原始的な種類であり、近縁種がニュージーランドに知られている。」といった内容だった。

1-2 私の講演 1992年8月

1-3 セッション前に海生哺乳類研究者が集まって昼食 1992年8月

 私の講演の含まれたセッションは、海生哺乳類に関するものであった。発表は実力の割にはうまくできたと思ったが、質疑応答の場面は、英語のリスニングがよくできなかった。名前だけを知っていた海外の有名研究者の皆さんと接触できたのは、大きな進展であった。
 セッション後、ニュージーランドの研究者F博士に呼び止められた。「講演を聞いたが、興味深かった。」というお決まりの挨拶の次の言葉が「あなたの研究はこれではいけない。」という厳しいもので、思わず身構えたが、その後に続いたのは、「ニュージーランドの鯨化石と比較するために、私の大学に比較にいらっしゃい。」さらには、「私の家に泊っていいから。」という暖かい言葉を戴いたのだ。

1-4 IGC京都 記念のタイピン


私の使った切符 その39 私鉄の硬券(下)

2016年05月22日 | 鉄道
私の使った切符 その39 私鉄の硬券(下)

 私鉄の全線乗車がなんとなく可能性を感じ始めたのは2003年頃。その時未乗車率(距離比)は60%もあった。しかし、私鉄は大都市に集中して走っているから、乗る気になれば短時間で乗れる…と思ったのだが、地下鉄の乗り潰しなど、不毛な作業で面白くなかった。それでも2006年末の時点で25%になり、2007年5月末にはに15%と、ここまでは順調に減らすことができた。

39-1 大井川鉄道・岳南鉄道

★ 2007.6.1 奥泉から井川ゆき乗車券(大井川鐵道)
★ 2007.6.1 井川から閑蔵ゆき乗車券(大井川鐵道)
★ 2007.6.1 金谷から新金谷ゆき乗車券(大井川鐵道)
 首都圏から近いように見えるが、日帰りでは終点まで行ってくるのは困難。この日は日が暮れてから清水まで行って宿泊、翌日岳南鉄道に乗車した。千頭までとそれより奥とは全く違う鉄道路線に感じた。蒸気機関車ばかりに目がいくが、旧型の電気機関車、各地から引っ越してきた古い客車・電車など見るものが多い。アプト式も必見。

39-2 大井川鐵道 終点井川で。2007.6.1

39-3 大井川鐵道 金谷駅で。2007.6.1 右を走るのは東海道本線。

★ 2007.6.2 吉原から本吉原ゆき乗車券(岳南鉄道)
 工業地帯を走る鉄道で、貨物輸送が多かったが、2012年に貨物輸送が終了した。したがって経営が心配されている。

39-4 岳南鉄道 2007.6.2 岳南江尾駅。



39-5・39-6 三岐鉄道三岐線・由利高原鉄道

★ 2007.12.11 西藤原・西野尻間の乗車券(三岐鉄道)
 三岐鉄道はほぼ並行する二本の線(北勢線と三岐線)から成るが、北勢線が通勤客などの輸送料が多いのに対して、三岐線は終点西藤原からの石灰石・同製品の輸送に力を入れている。私が乗った時には、まず三岐線で終点まで行き、半分戻って伊勢治田で降りて徒歩で北勢線阿下喜に移動して戻った。阿下喜駅で見た不思議なレールについては前にブログで記した。

39-7 三岐鉄道で見た謎のレール 2007.12.11 阿下喜駅ホームから。(再録)

★ 2008.2.5 矢島から川辺までの乗車券(由利高原鉄道)
 由利高原鉄道に乗車したのは2008年。第三セクター路線の中でも乗車にかなりてこずった線であった、この線に乗った時点で、残り私鉄は24線、未乗車率は4%、JRは大湊線だけ(0.3%)というところまで来ていた。
 なお、三岐鉄道と由利高原鉄道の二枚の切符の裏面にはチェックの線が入っている。国鉄時代の習慣はここでは今でも生きている。

 31回から39回までに紹介した切符による乗車コース(赤線)と記念に買った乗車券や入場券(青丸)をプロットした。


39-8 「切符」シリーズ31から39で紹介した乗車券による国鉄・私鉄乗車コース。

 私の使った鉄道切符のうち、おもに「硬券」を紹介した切符シリーズは、これで終了。今後おもしろい切符を使用したら、また登場するかも知れないが、望み薄であろう。


1991年モンタナ州の訪問 その30

2016年05月19日 | 昔の旅行
1991年モンタナ州の訪問 その30
Visit to Montana for digging, 1991. Part 30

 1991年7月9日ロスアンジェルス郡立自然史博物館で標本を見た後、ショップで買い物をする。レシートが残っているが、何がいくらだったのかは区別できない。カードで購入した。おなじみのサーベルタイガーのネクタイが含まれているのは確か。
 案内して下さっているO夫妻は、午後集まりがあるので一緒に来ないかとのこと。まずは野外での食事会。何かの地域コミュニティーらしいが、詳しくは分からなかった。

120 食事会 1991.7.9 Outdoor supper

 お年寄りが多く、言葉は主に英語だがスペイン語とまれに日本語が飛び交う。

121 O夫妻 1991.7.9 Mr. O. and his wife

 Oさんは、長いことロスアンジェルス自然史博物館の関係でレプリカ作製に尽力されて引退した方。博物館にもすでに彼の作製したサーベルタイガーの骨格レプが購入してあったから、お手紙の上では知っていた方である。
 食事の後、音楽会に招待していただいた。パールマンが演奏するバイオリン協奏曲である。ハリウッドにある野外音楽堂「ハリウッド・ボウル」。

122 ハリウッド・ボウル 1991.7.9 Hollywood Bowl

 広い駐車場に車を停め、送迎バスで会場に。谷の斜面を利用した半円形の座席に相対して、丸い反響板をもったステージがある。入った時にはまだ明るかったのが、次第に暗くなると、固定された照明光が上空に交差して、上空の飛行をやめさせる。それでも演奏中に5回以上の小型飛行機の音が聞えた。驚いたのは、夏の宵のことだったから日本でやれば大量の虫の飛来に悩まされるのだが、ここでは一向に姿がない。もともと乾燥地で少ないとしても。かなりの薬剤が使われたのであろう。「沈黙の夏の宵」とでも言おうか。ちなみにカーソンの「沈黙の春」は1962年の著作。
 この音楽会は、O夫妻がお二人で参加されるはずだったに違いない。そこに来た邪魔者の私に一枚のチケットを下さり、O氏は立ち見席に行かれたようだった。
 音楽会の終了したのは10時すぎ。たくさんの聴衆がバスを待つから時間がかかり、また駐車場に戻ったのは11時を過ぎていた。その後チャイナタウンを見に行った。「危険があるから窓をロックするように」と言われて。おそるおそる見たが、例の手形の歩道は遠くから見ただけ。ホテルにお送り戴いたのは1時過ぎとなった。
 翌10日1155発のデルタ航空079便で成田へ。座席は31K。成田着は日本時間で翌11日1515。JALに乗りかえ、383便の22Aの席で福岡に向かって、この旅行が終了した。
 この旅行前後の恐竜に関する年表を記しておこう。
1990年2月 古生物学会で関門層群のカメ化石の発見を報告(私)
1990年2月 ワキノサトウリュウ発見(佐藤氏)
1990年3月 御船層群で2個目の恐竜化石発見(池上氏)
1990年8月 御船層群で3個目の恐竜化石発見(私)
1990年8月 市内の関門層群で2例目のカメの化石発見(佐藤氏)
1990年10月 韓国の恐竜足跡見学(私)
1991年4月 北九州市内の関門層群で初の恐竜化石発見(佐藤氏)
1991年7月 ここで報告したアメリカ恐竜発掘調査(私)
1992年3月 ワキノサトウリュウの研究報告発行(私)
 このように、1990年から1991年にかけては、それまで縁のなかった恐竜にすっかりふり回された頃だった。このモンタナ旅行については、これまであまり記したことが無かったので、24年も経ってからではあるがここに記録した。
(おわり)