OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

溶けかかったアンモナイト

2018年08月31日 | 化石
 小倉の街にでかけた。昼食の後、夕立に遭ってデパートに避難した。正面入り口で雨宿りしていて、足元の石灰岩を見ていた。ここに化石が入っているのは知っていたが暇だったので写真を撮ってみた。サイズは5センチから10センチぐらい。この付近に3種類以上の石灰岩が使われているが、そのうちの薄茶色の石灰岩である。天井のライトが反射して映り込むからいい写真が撮れない。自分の影を利用してなんとか写した。

種類A

種類B

 アンモナイトが数点あったが、いずれも薄い部分が溶けていて詳細はわからない。巻きの方向に切った断面が多かったが、一つだけそれと垂直の方向のものがあった。

種類A

 巻きのゆるい種類とそうでもない種類があって、一応ここでは種類Aと種類Bとした。種類Bは巻きがゆるくて外に細かい肋が目立ち、ダクチリオセラスに似ている。もしそうならジュラ紀。隔壁はいずれも保存されていない。

種類B

 ちょうど店内案内カウンターの前で、案内嬢二人の視線を感じたがかまわず撮影。何も言われなかった。スケールを入れなかった写真があるのは、すこしだけ遠慮したから。このデパートにはここ以外にもアンモナイトがあるのを知っているが、この日はここだけの見学にとどめた。雨が止んだので喫茶店FFに立ち寄って帰宅。

1970年の北海道旅行 その2 青函連絡船

2018年08月28日 | 昔の旅行
1970年の北海道旅行 その2 青函連絡船
Trip to Hokkaido in 1970. Part 2. Seikan Ferry

Abstract: The Seikan Ferry connected railways of Hokkaido and Honshu. It had been abandoned when Seikan tunnel constructed in 1988.

 6月18日青森港1010発の青函連絡船で1400に函館港着。この旅行のフィルムは全部残っているわけではないが、最初に撮影したのは連絡船上から見た函館港である。接岸しているのは八甲田丸(青函連絡船最後の日、1988年3月13日まで運行)で、第二岸壁。

2-1 函館港桟橋の八甲田丸 1970.6.18(再録)
Hakkoda-Maru on Hakodate wharf.

2-2 八甲田丸の船尾 1970.6.18
Stern of the Hakkoda-Maru

2-3 車両桟橋(第一岸壁) 1970.6.18(再録)
Movable bridge.

 青函連絡船は、貨物輸送の重要な担い手だった。岸壁に船の車両甲板の高さに合わせるための可動橋があったので、それに注目して撮影したようだ。現在、函館港には摩周丸が係留されていて展示館となっているが、残念ながら可動橋は保存されていない。門型のゲート(たぶん第一岸壁の)が残されているが、レールのない姿ではかつての姿を想像するのは難しい。

2-4 レールと可動橋の撤去された車両搬入岸壁 2017.5.17(再録)
Demolished movable bridge

 2017年の写真で、門型のゲートの向こうの地面に見られる鉄板で覆われた部分に可動橋があった。向こう側(岸壁側)は蝶番のように高さが固定され、こちら側(船側)は浮かんでいて船のレールと連結された。

「AB志井」記録 その11

2018年08月25日 | 化石
「AB志井」記録 その11

 この記録は、連続講座「AB志井」に出てきた標本を順に並べたものである。なお、未公表の標本については、画像のサイズないし解像度を下げたものにした。あしからず。

第五回「小倉に象のいたころ」 2018年4月10日(前回の続き)

標本5-11  那珂川のゾウ化石
産地 福岡市老司
時代 完新世
文献 松尾・吉村、1954

5-11  那珂川のゾウ化石
5-11 A cast of a tooth of Asian elephant from Roji, Fukuoka City. Holocene. For comparison.

標本5-12  八女のステゴドン
産地 黒木町
時代 鮮新世
文献 Otsuka et al., 1973

5-12 八女のステゴドン
5-12 A tooth of Stegodon miensis from Kurogi. Pliocene. For comparison.

標本5-13  上陽町のステゴドン
産地 上陽町
時代 鮮新世
文献 松田 他、1891

5-13  上陽町のステゴドン
5-12 A lower jaw with tooth of Stegodon miensis from Joyocho. Pliocene. For comparison.

標本5-14  八女のステゴドン
産地 八女町
時代 鮮新世
文献 岡崎、2004

5-14  八女のステゴドン
5-14 A tooth fragment of Stegodon miensis from Yame City. Pliocene. For comparison.


標本5-15  泌(たぎり)のナウマンゾウ臼歯
産地 糸田町泌泉付近
時代 更新世
文献 石橋・富田, 1966

5-15 泌(たぎり)のナウマンゾウ臼歯
5-15 A tooth of Palaeoloxodon naumanni from Itoda. Pleistocene. For comparison.

1970年の北海道旅行 その1 二度目の北海道

2018年08月22日 | 昔の旅行
1970年の北海道旅行 その1 二度目の北海道
Trip to Hokkaido in 1970. Part 1. Second visit

Abstract: “Trip to Hokkaido in 1970” is the memory of my second trip to Hokkaido. The main purpose of the trip was to join a fossil digging. And I had travelled to see wild flowers in the best season there. Also I visited many railway lines, as a railfan.

 学生の頃にはよく北海道に行った。このシリーズでは、1970年の北海道旅行の記録を記す。当時はノートを作っていなかったから、記録は不備であり、記憶に頼るにしても50年近くも前のことだから、こころもとない。行動のよくわかっているところと、いい加減なところが混在している。
 この旅行の主目的は、6月の27日から7月の3日の一週間にわたって帯広の南で行われた化石の発掘に参加すること。発掘には教室の教授他の先生方も参加したから、一緒に行動してもいいはずなのだが、なぜか私一人は先行して北海道を回り歩いた。のちになって教授から「君は、当日現地に現れるまでどこに行ったのか分からなくって、心配していた。」と聞いたが本人としてはせっかく行くのだったら(北海道は前年に続いて二度目)観光地も回ろうということだったらしい。まだ蒸気機関車の撮影にそれほどの興味もなくて、通りがかりに撮った程度。当時作ったアルバムの記入に基づいて書いていく。なお、一部の写真は、本ブログの「蒸気機関車」・「切符」などの再掲である。

 使った切符は5月31日に名古屋駅で購入した北海道周遊乗車券である。手元にはA券片とB券片が表紙に挟まれて残っている。A券片は北海道に入った最初の下車駅(この場合大沼公園)で駅員さんに渡すのが決まりだが、おそらく自分で切り取って、函館で一度降りた、ということにして差し出したのだろう。その場合には、再乗車した時にB券片に鋏が入るはずなのだが、知らない顔をして次の乗車の時に入れてもらったのだろうか。



1-1〜1-3 使用した北海道周遊券 上から表紙・A券片・B券片(再録)
Ticket of the trip: Hokkaido Excursion Ticket.

 出発は6月17日。名古屋から東京までは、どうやって行ったのか記録がないが周遊券だから追加料金のない準急「東海」(2007年3月運行終了)だったのだろう。上野を2035に出る常磐線経由の急行「十和田4号」に乗車。「十和田」は1985年に臨時列車になり、運行がなくなったのは青函トンネル開通後の1994年だった。翌18日900に青森に着いた。12時間以上かかったのだ。

1-4 青函連絡船の旅客名簿 この時のものではない。
The card of ferry passenger

 長い通路を通って青函連絡船(1988年3月13日廃止)に乗船。船の名前の記録はない。乗船するには「青函連絡船旅客名簿」という用紙に記入して係員に提出することになっていた。用紙は何か所かに積み上げてあった。記入項目は、住所・氏名・年齢・性別で、甲乙両片があってミシン目で切り離しができるようになっていた。注意書きは甲片に日本語、乙片に英語で記されていた。たぶんどちらかを出発港に、もう一方を船に保管したのだろう。1010青森港を出港。

化石採集61年

2018年08月19日 | 化石
化石採集61年

 この8月下旬で、私の化石採集歴が61年になる。記念すべき60年の昨年、忘れていてブログで報告しなかったから、端数のある61年になってしまった。
 61年前の1957年に、小学校の夏休みの研究として父と姉のうちの一人とともに大垣市の金生山に行った。日付は明確ではないが、8月下旬であった。名古屋駅から東海道本線で大垣に行って、「美濃赤坂線」に乗り換えた。この名称は通称で、東海道本線の一部をなす支線である。乗り換えた時の記憶がないが、ディーゼルカーの大きな音の記憶がある。たぶん私の初めてのディーゼルカー乗車だったのだろう。翌年(1958年)10月1日に電化されたから、電化約一年前の最後の頃の音だったことになる。1960年代には東京駅発の夜行の普通列車が美濃赤坂駅を終点終点にしていたことがあったが、私が初めて行った時は電化前だからまだそんなことはない。美濃赤坂線は石灰岩やその製品の輸送のための貨物列車運行が主な役割である。旅客運送のある「美濃赤坂線」から多くの引込み線や西濃鉄道の貨物線が分かれていて、各石灰石採取業者などを結んでいた。

1 金生山登山道から見た美濃赤坂駅 父の撮影 1956.8.21

 今回掲載するモノクロの写真は父が撮影したものである。フィルムの撮影日付を見ると、父はこの時を含めて金生山を少なくとも3度訪れている。当時の金生山は今とはかなり違う姿で、採石場の切り込みが見られるものの全体の形が保たれていた。

2 当時の金生山 父の撮影1958.8.27


3 最近(といっても6年前)の金生山 2012.12.15 新幹線から

 この時私はカメラもハンマーも持っていなかった。その代わりに安物の補虫網を持っていた。写真の右側に登山道があって、登ると神社があった。途中でウミユリなどの化石を採集した。道の両側に灌木があって、ツクツクボウシがやかましいほどに鳴いていた。この道は現在もあるが、道の近くまで採掘が進み、行き止まりになってしまっている。

4 私は「昆虫少年」だった。 父の撮影1957年8月

 採集した化石はほとんど残っていないが、ウミユリと巻貝が今も手元にある。もちろん父が採集したものだろうが、「私が初めて採集した化石」としてもいいだろう。

5 初めての化石 ウミユリ 

6 初めての化石 巻貝

 ウミユリの写真は、2013年2月2日に「古い鉱物標本」で掲載した写真である。巻貝の方もどこかで載せたように思う。
 最初の化石採集は1957年だったが、数年後に瑞浪市戸狩に行ったのが2回目の採集。高校生頃には主に瑞浪市・土岐市の日帰り採集であったが、大学に進んでからは長期の採集旅行にしばしば出かけた。化石採集を試みていないのは、北から 秋田 山形 栃木 東京 神奈川 山梨 奈良 広島 香川 沖縄 の10都県にすぎない。市町村で言うと、採集したのは4政令指定都市、83市、53町、4村まで数えたが、もう少しありそう。外国では韓国・中国・アメリカ・ニュージーランドで採集したが、今後あまり増えることはないだろう。