OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

珍しい構造の橋

2021年03月31日 | 今日このごろ
 車に乗せていただいて遠賀町を通過した時に、見たことのない構造の橋があったので、お願いして車を止めて撮影した。

遠賀バイパスの陸橋 2021.3.28

 橋といっても、連続高架の道路の下部構造で、ここでは複数の高架橋が並行しているが、そのうちの南側の車線。ご覧のようにコンクリートの桁をT字型の橋脚が支えているが、その間に鉄パイプ(たぶん)で組んだアーチがあって、橋脚の真ん中で桁を支えている。道路延長方向の鉄パイプは4本あって、断面形は円形、それを横断方向の6本の少し細いパイプが繋いでいる。さらに頂部に長方形の断面を持つ鉄構造が道路の横断方向にあって縦桁を支えている。桁とアーチは、この頂部の横桁だけで接していて、縦構造はない。

遠賀バイパスの陸橋 2021.3.28

 アーチの下部にはコンクリートが打設されていて、根元を押さえている。アーチ下の空間は駐車場として利用されている。

スケッチ 側面図 2021.3.29作成

 写真から作ったスケッチが上の図。測ったわけではないから、長さのスケール・縦横比などはが示せないからあまり役には立たない。記号は次の通り。F 道路床 これより上には防音壁があるので床の上面の高さはわからない。W 防音壁(防音壁上端は示してない)  L縦桁(たぶん9本) T 横桁 P 橋脚(円筒形) B 橋脚の基礎コンクリート S アーチの迫受 A アーチ 黒丸はアーチをつなぐ横パイプの位置。アーチの曲線は、写真に円を重ねるとかなり一致する。両側の迫受の角度を見るとだいたい45度ぐらいだから、円弧の8分の1(両側なら4分の1)ぐらいを使っているように見える。アーチの途中には縦の支柱はない。そうすると直線の方がよさそうに思えるが。
 さて、この「橋」はどう分類したらいいのだろう。鉄パイプはアーチ型をしているが、アーチ橋ではない。橋の重量は主に橋脚が支えているようで、基本構造は桁橋だろう。橋脚の上に桁の継ぎ目が見えるから、連続桁ではない。橋脚中央の(鉄パイプによる)支えは補助的なものだろうか。パイプの組み上げは溶接のように見えるが、強度が出るのだろうか? 頂部のパイプと箱桁との接続もどうなっているのだろう? いろいろ疑問が湧く。鉄道橋では、上路アーチで、鋼管製のものがあった(読売ランド(現よみうりランド)のモノレール:1966−1967)が、途中に支柱があるし、左右のアーチが垂直面になっているのではなく、上に向かって中心方向に傾いているから大分違う。ただちょっと後の写真を見ると、モノレールの橋を利用したゴーカートコースが写っていて、その鉄桁の下に鉄パイプ?で1本のアーチがあり、中央部だけで桁と接触している点は似ているが、いずれも遠賀の橋とは荷重や幅などの点で関係ない。
 遠賀の陸橋は、2019年2月に供用が開始された国道3号線遠賀バイパス。今古賀交差点あたりのグーグルのストリートビューでも側道からよく見えるので興味のある方はお調べをいただきたい。この橋の「型」をご教示いただければ幸いである。

満開後の桜と黄砂(臨時投稿)

2021年03月30日 | 今日このごろ

 3日ほど前から桜が散り始めた。「桜吹雪」は数日後か。

散り始めた桜 2021.3.30 志井川

 川面には花びらが流れていく。

川面 2021.3.30 志井川

 毎日行く家からKMD喫茶店までのコースは、半分近くが桜の下を歩く。贅沢な数日だったが、桜はそろそろ終わり。その方が人とすれ違わなからいいのかもしれない。ここ数日はさすがにマスクをつけている。
 30日は今年最悪の黄砂が襲来した。「花霞」というような風流なものではなく、眼がかゆい。

山が霞む 2021.3.30 志井川

 いつもははっきりと見える山も今日は写りにくい。

私の使った切符 その147 近畿・四国の私鉄の地紋

2021年03月28日 | 鉄道

413 信楽高原鉄道 硬券

データ:信楽高原鉄道 1989.2.6 信楽駅発行 信楽から貴生川ゆき乗車券
 地紋は信楽高原鉄道の英名SKRをデザイン化したものだが、読みづらい。もともとは国鉄信楽線で、蒸気機関車の写真撮影に行ったものだ。草津線の貴生川で分かれ、最初の駅に行くところが急な登りで蒸気機関車にとって難所だった。

414 信楽線の蒸気機関車 1972年5月 貴生川駅付近


415 和歌山電鉄 磁気軟券

データ:和歌山電鉄 2007.6.29 和歌山駅発行 精算済証
 地紋は和歌山電鉄の社章を並べたもの。中側の円と外側の円を三か所の曲線でつないだものに見えるが、実は社章では外の円には三か所の切れ目がある。

416 御免駅乗車整理券 軟券

データ;土佐くろしお鉄道 2007.2.3 後免駅 乗車整理券
 乗車整理券は、通常乗り口の発券機から薄いロール紙をカットして出てくる。会社名が入っているものなどがあるが、通常は地紋はない。特徴は裏表に同じことが書いてるものが多い。これはもちろん運転台などの支払機にこの券を入れた時裏返しでも見えるようにとのこと。
 ここに示す整理券では、赤い水玉が配列されているだけで、とくに意味のある記号や文字はない。整理券ではこういう地紋のあるものは珍しい。

417 JTBの作成したクーポン 軟券

データ;小田急電鉄 2006.7.18 JTB北九州発行 小田原・新宿間特急券(はこね36号

 これを切符と言っていいのかクーポンと言うのかわからないが、小田急に実際に乗った時に鉄道切符に交換するとかいうこともなかったから切符とも言える。発行したのはJTB北九州で、そこで予約したら作ってくれたもの。地紋があって、「JTB Corp」と二色で書いてある。

 地紋の項はこれで終わり。繰り返しになるが、自分で乗車するのに使った切符がほとんど(津軽鉄道だけは記念品として購入)で、切符を買い集める習慣のなかった時代も長かったから、全国の鉄道会社のものが揃っているわけではない。鉄道会社は全国で150ぐらいある。そのうち36ぐらいの(国鉄など今はないものを含む)鉄道会社等の地紋を紹介したにすぎない。ネットにはずっと詳しいサイトもあるので、お調べ頂きたい。

桜満開2021(臨時投稿)

2021年03月26日 | 今日このごろ

 小倉南区の志井川沿いは昨日(25日)ほぼ満開を迎えた。まだ蕾がたくさんあるから、1日後の方がいいかもしれない。

志井川の桜 2021.3.25

志井川の桜2 2021.3.25

 このブログでは「桜満開」を報告しているから、その日付を調べてみた。2014年から毎年「満開」の投稿があって、今年2021年が最も早く、3月25日、最も遅かったのは2017年の4月8日だった。

「満開」と記した日付 2014年から2021年

 このくらいのデータ数で「年々早くなっている」と決め付けることはできないが、2017年は特別遅く、今年は特別早いことは確かである。

古い本 その50 満州関連

2021年03月25日 | 50年・60年

 中国東北部に関連する本がいくつかあるので紹介する。

110 大興安嶺探検 1991

 この本は、朝日文庫の一冊として1991.10.1に発行されたものであるが、そのずっと前の1952年7月に毎日新聞社から単行本として出版されている。文庫本では、「学術報告」と索引が省かれているという。それでも597ページもあって読破するのに覚悟がいる。とくに地名がわかりにくく、そして全体の地形が掴みにくいことも理解を妨げている。インターネットの衛星写真を見てもやっぱり地形は把握しにくい。下の図は探検隊の行程を大興安嶺の水系図に記入したもの。

110-2 北部大興安嶺水系図 18・19ページ

 図の右上の端に向かって東に流れるアムール川が中国とロシア(当時ソビエト連邦)の国境。中国では黒龍江と呼ぶ。アムール川はこの図から直線距離で500k以上流れて間宮海峡近くでオホーツク海に注ぐ。アムール川を名乗るのは図の上辺左から3分の一あたりが最上流で、北西からロシア内を流れてくるシルカ川と南西から中ロ国境を流れるアルグン川が合流するところ。地図の左中央部は現在の中国内モンゴル自治区、右側は中国黒竜江省に属する。すべてアムール川=黒龍江の流域であるが、西側はアルグン川の流域、東側の河川は南に流れて途中松花江となりハルビンなどを通って迂回し、結局アムール川に合流する。なお、有名なノモンハンはこの地図の左下の角から300kmほど南にある。
 北部大興安嶺探検隊は今西錦司を隊長として、京都大学関係者を中心とする21名のメンバーが、当時地図のなかった大興安嶺を踏破して地形を把握することなどを目的に1942年5月から7月に挙行したものである。探検は南から北に未知の地域を通過するもので、とくに中央部の広い空白地域では稜線を直進する隊と、川伝いに迂回する隊に分かれて、空白を埋めようとするもの。なお、満州国は1932年に発足、探検が行われた1942年はそれから10年が経っていたが大興安嶺付近は軍事的に注目されるところではなかった。探検隊が軍からの保護を受けることもなかった。
 今西錦司(1902−1992)は京都大学教授で、生態学者。生物の進化に関して独特の考察をしたことで有名だが、進化論の主流とは離れた論議であった。私はお見かけしたことがあるがお話ししたことはない。今西氏以外の20名の隊員中の著名人は次の方々。森下正明(昆虫学1913-1997)吉良竜夫(植物生態学1919−2011)川喜田二郎(地理学・文化人類学者1920−2009)梅棹忠夫(生態学者1920−2010)藤田和夫(地質学1919-2008)他。
 ここからの3つの著作(2冊に分けて出版されたものが2つあるから合計5冊)は、満州帝国と「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀(1906−1967)のことを調べたくて読んだ本。1991年に中国武漢に行った時に最後の皇帝の血縁者の方とお会いし、どんな関係かを調べようと読んだもの。

111・112 満州帝国(I・II)1983 カバー

 児島 㐮・著 文春文庫。著者(1927−2001)は「こじま・のぼる」と読み、戦史研究家。日露戦争から東京裁判までの多くの日本の戦争についての著作がある。「I」の発行は1983.1.25、手元にある本は1983.5.15発行の第5刷、345ページ。「II」の発行は1983.2.25、手元にある本は1987.2.25発行の第3刷、342ページ。愛新覚羅溥儀の清国皇帝在位は1908-1912だったが、1934年に満州国皇帝になり、1945年に日本の敗戦とともに退位し、日本への亡命の途中でソ連軍に抑留された。
 私は戦争史にはあまり興味がないから読み飛ばした。内容は覚えていない。

112 図説満州帝国 1996 カバー

 「図説満州帝国は、1996.7.25初版の河出書房新社で、同社の「図説」シリーズのひとつ。手元の本は 2001.9.20発行の9刷であるから、結構販売されたらしい。縦21.5cm横17cm、159ページ。著者は「太平洋戦争研究会」となっている。編集者は同会の平塚柾緒・森山康平・平塚敏克・大原 徹 が記されている。満州時代の写真を数多く収録していて、その背景の記録も詳しい。写真は撮影のためにポーズをとったようなものが多いのは当時の写真の性格から当然である。今後一番参考になりそうなのは、巻末の「満州帝国関係年表」であろう。

114・115 世紀風雪 上・下 2007 カバー

 「世紀風雪」は上下2巻で、NHK出版の単行本、縦21.5cm横15.5cm。上(325ページ)・下(319ページ)ともに2007.3.30発行。それぞれに副題があって、上巻は「幻のラストエンペラー」、下巻は「清朝皇族の末裔たち」。著者は(あいしんかくら・こうい)(1947—)で、アメリカ在住の画家。愛新覚羅溥儀の甥である愛新覚羅毓岳(いくがく)(画家)の娘である。訳者は李 珍・水野衛子・横山和子・佐野もなみ。
 多くの出来事が記憶・記録をもとに記されているが、当事者のものだけに詳細すぎて何かを調べるのには不都合。私がこれら5冊の本で知りたいのは、1991年に武漢でお会いした人物が皇帝とどういう関係だったのかなのだが、とうとうわからなかった。

116 日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか 2016 カバー

 「日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか」は、2016.1.20発行の文春新書、253ページ。著者は岩瀬 昇(1948−)、三井物産・三井石油開発に勤めて、現在エネルギーアナリストとして多くの著書がある。題名だけで見ると満州地方の石油開発の話だけかと見えるが、そうではない。まず、石油の重要性に早く気づいた海軍の話から始まり、次には外交交渉で大失敗した北樺太石油の開発、そして満州の石油探査の開始、南方石油の軍事的奪取と本国への石油輸送の困難 という順に語られていて、表題よりも広い範囲の歴史が詳細に語られている。満州の石油の徴候のある地域の探索は1929年ごろから開始された。このブログですでに登場した新帯国太郎博士の調査である。その場所は、今回の最初の本「大興安嶺探検」の出発地と、ノモンハンの中間付近であった。後に遠藤隆次なども参加したが、結局確実な油田を確認することができないままとなった。その原因は、「陸成層からは石油を産しない」という先入観と、先進的な物理探査技術を持たなかったからだろう(小松直幹, 2006)。また、調査は満鉄と軍部の協力で行われたため結果は公表されず、機密とされた。これらの調査が終わってから20年ほど経った1959年に大慶油田が発見された。
 日本は満州帝国を作って傘下においた。そこの資源を調査するために「満蒙学術調査」をおこなった。その成果は二十数冊に分けて1935年頃の数年間に発行された。石油の調査はこれとは別に満鉄の指導で行われ、詳しい結果は公表されなかった。「第一次満蒙学術調査報告書」は少ししかコピーを持っていない。後で触れるかもしれない。

117 第一次満蒙学術調査報告書*

 *写真は北九州市立自然史・歴史博物館書庫。すでにこのブログに掲載したように、中国東北部を2000年5月に訪れた。次の写真はそのときに掲載したものの一枚で、「熱河省」の語源となった温泉の石碑(現在温泉は出ていない)で、承徳にある清国皇帝の夏の別荘の中にある。

118 承徳の「熱河」石碑 2000.5.31 再録