OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

事故対応

2013年01月29日 | 旅行
事故対応
Manual for accidents of bus company

名古屋に行ったついでに足を伸ばして旧名鉄揖斐線の路線跡を見に行くことにした。揖斐線は、岐阜市内の忠節から本揖斐までの18.3kmを結ぶ電車線で、主に専用線を走ったが、直通した岐阜市内線と同じく低い電圧(600V)であり、2005年4月に市内線と同時に廃止された。このルートは未訪問の岐阜県北方町・大野町を通ることになる。途中の黒野から谷汲線も分岐していた。
前日雪が降って、名古屋のホテルで見た夜のニュースでは岐阜市の積雪7センチとのこと。ちょっと悪い予感がしたが、朝起きると快晴。これなら良さそうと岐阜に向かった。名鉄とJRどちらで行くか迷ったが、ホテルが新幹線口だったのでJRで向かった。名古屋を出るとすぐ、畑などに積雪が見られ、木曽川を越えると交通量の少ない道路にまで雪が残っている。ちょっと心配したがこの時は行けると思っていた。


1 木曽川橋梁から
Snowfall at Kiso-gawa River

2 岐阜市内の積雪
Snow in Gifu City

岐阜駅前は歩道の半分以上が凍った雪で、注意して歩いたが、バス道路は除雪してあった。ただ、二階歩道の陰の一部が凍りついていたようだ。


3 駅前の歩道の積雪 
Snow at JR Gifu Station

駅前の岐阜乗合バス案内所で聞くと、大野町バスセンターまでの便は少なく、一時間ほど無いという。途中まで行ってそのあたりの線路跡を見ようと北方町付近行のバスを待つが、これが遅れている。20分ほど延着して、やっと現れた。待っていたのは私とご婦人、高校生男子の3人。二人が乗車して、最後に私が乗ろうと踏み出した瞬間、とんでもなく大きな音がして、目の前のバスが揺れた。


4 私はこの位置で遭遇。もう一歩踏み出していたら打撲かな?
原因の運転手さんが手を合わせながら降りてくるところ。後のバスはすこし引き戻してある。
Accident and the position of myself

何事かと思ったら、後続のバスが雪でスリップして、乗ろうとしたバスの後部左側に衝突。幸い乗客・運転手にケガは無かった。私も乗る直前だったので衝撃も無かったが、一秒前に歩んでいたら少なくとも右肩の打撲ぐらいは負っていた。乗ろうとしたバスは後部のブレーキランプのカバーが割れたぐらい。原因となった後のバスは前バンパーが外れ、さらに歩道の端にあったアルミ手すりを一連なぎ倒した。幸い後のバスには乗客はいなかった。また、手すりのあたりの歩道も誰もいなかった。


5 このとおりそんなに凍結していない。
Accident was occurred by frozen bus lane

駅前、それも案内所の前だからたちまち係員がかけつける。路面は先ほどから歩道の雪かきをしていたおじさんが竹箒で。おじさんは歩道の真ん中を除雪していたから、5メートルほど移動して来ただけ。アルミ手すりは赤コートのターミナル案内嬢が片づける。案内嬢もさきほどからこのあたりの乗客に乗り場など説明していた。片づけ手際が良いからやじ馬もいない。乗ろうとしたバスは走れないという。物理的には走れそうだが法的には無理だろう。
さて問題は、3人の乗客の扱いである。ご婦人は約束時間に間に合わないということで、途中までの別ルートのバスに乗ったあと、タクシー料金をご希望。ちょっとその精算方法でもめていたが、まもなく解決。高校生は次のバスで行くことで了解。私は、鉄道跡を見に行くことをあきらめたので、名古屋から岐阜までのJR料金往復900円を補償してもらうことで納得。領収書にサインして、名古屋に帰った。対応したのは主にぶつけられたバスの運転手さん、ターミナルの窓口嬢の二人で、とくにマニュアル等を出すことは無かった。あまり対応の手際が良くなかったという印象。乗客数が少なかったから時間は短かったが、多かったらうまくゆかなかっただろう。
事故に遭ったがケガも無く、運が良かったのか悪かったのか。行動は予定通りに行かず無駄な一日となってしまった。もし、岐阜までの交通機関を名鉄にしていて、名鉄岐阜駅前のバス停で待っていたら、事故とは関係なかったので驚かなくて済んだが、その代わりバスがとうとう来なくて困惑したに違いない。
北九州には、午後の新幹線が予約してあったが、これが変更の効かない切符だったから、5時間ほど名古屋駅あたりなどで時間を潰して帰宅した。

北方町も大野町も行けなかった。前日は寒い風の中、愛知県大治町を訪問できた。


6 大治町訪問
My first visit of Oharu-Town

しかしここはたぶん以前車で通っているので、確認訪問になる。そんなわけでこの旅行での市町村訪問はわずかしか進行しなかった。もっと良い季節に再チャレンジしよう。

最後の蒸気機関車たち その40 1971年8月

2013年01月25日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その40 1971年8月
The last steam locomotives in Japan. No. 40 (Aug. 1971)


そして関西本線の山越え区間の撮影をしている。このあたりは現在列車数も少なく、訪れにくいところである。当時は今よりは列車が多かった。とくに貨物列車が多数行き来していた。


207N 関西本線大河原・月ケ瀬口間 1971.8 D51-452 263列車
207-209: Kansai line, between Ogawara and Tsukigase-guchi Stations, Kyoto Pref.


208N 関西本線大河原・月ケ瀬口間 1971.8 D51-691+D51 46列車


209N 関西本線大河原・月ケ瀬口間 1971.8 D51-885 268列車

このあと、奈良から和歌山線の方に回った。


210N 奈良駅 1971.8 C58-355 C11-252
Kansai line Nara Station, Nara Pref.


211N 和歌山線高田駅 1971.8 C58-80 593列車
Wakayama line, Takada Station, Nara Pref.

今回登場した機関車の廃車状況は次の通り。D51-452:1972年5月、D51-691:不明、D51-885:1973年11月(廃車後埼玉県深谷市に保管)、C58-355:不明、C11-252:1974年7月、C58-80:1971年11月。
登場蒸機 D51(写真207~209)C11(写真210)C58(写真211)

2020.6.11 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

古い鉱物標本(その3)

2013年01月21日 | 鉱物・化石組標本
古い鉱物標本(その3)
An old set of mineral specimens: part 3


Fig. 7 標本6-10 scale: 5cm
Specimen 6-10: basalt, conglomerate, sandstone, chert (touchstone), slate.

6 玄武岩 但馬國玄武洞 (兵庫県豊岡市玄武洞)
国指定の天然記念物。有名な玄武洞は1966年に初めて訪れた。山陰本線「玄武洞」駅から渡し舟に乗って行った対岸にある。そのころは石を拾っても良かったが、今は多分禁止されているだろう。1968年にも行ったし、その後にもこの付近の玄武岩の見学に行ったはず。少し西南の石切り場を訪れたはずだが、地名を記憶していない。「玄武岩」の名は玄武洞に因むから、標本に玄武洞の石を使うというのは妥当。


Fig. 8 1968年3月、雪の玄武洞
Genbu-do, a basalt exposure with snow in Hyogo Pref., March 1968.

7 礫岩 甲斐國北都留郡岩殿山 (山梨県大月市岩殿山)
岩殿山は中央本線大月駅(1983年通過)のすぐ北東にあって眺望がよいらしいが、行ったことは無い。そこに、西桂層群の礫岩層があるからそれだろう。時代は中新世の末、河川性の礫岩で、伊豆半島が衝突してできた断層性のくぼみにたまったものだという。
標本用に礫岩の小片を作るのは余り簡単ではない。今だったら手取層の礫岩を使ったらもっと固結していてやりやすいのかもしれない。山梨県指定史跡(岩殿場跡)。
8 砂岩 下総國海上郡銚子 (千葉県銚子市)
銚子の犬吠埼には、銚子層群の硬い砂岩層が太平洋の荒波を受けている。この砂岩も銚子層群のものだろう。白亜紀前期の海の堆積物で、アンモナイトが報告されている。岬のあたりは硬い砂岩であるが、海岸を北にたどると次第に泥岩質の所が多くなる。銚子を訪れたのは1982年1月。できたら銚子層群の琥珀を、また外川港の鮮新世サメの歯を、と思って採集に行った。計画通り両方とも見つかったが、ひそかに期待したサメの歯と混じってみつかる鯨類の耳骨化石はカケラしかなかった。外川港に浚渫した鮮新世の砂をみつけて、そこから腕足類化石が採れたのは望外だった。もう一度行きたいところの一つ。銚子電鉄ももう一度乗って見たい。犬吠埼の白亜紀浅海堆積物は、国指定の天然記念物。
9 珪岩(試金石) 紀伊國東牟婁郡那智 (和歌山県那智勝浦町)
日本で試金石といえば、那智勝浦の黒石が有名。碁石の黒にこの石が使われる。標本の石は海岸の礫だから石浜で拾ったもの。その方が手間がかからないのだが、標本の見かけの統一は無くなってしまう。たぶん吉野熊野国立公園内で採取。那智勝浦のあたりは1982年1月に通過。偶然にも前の8番砂岩の銚子も同じ月である。1月13日に太地の鯨博物館見学、14日に清水の博物館見学(太地から紀勢本線周りで名古屋に向かった!)、15日帰着して、27日には銚子に採集に出かけている。どちらも出張。
10 粘板岩 陸前國桃生郡雄勝 (宮城県石巻市雄勝)
大震災で被害の大きかった雄勝地区は、スレート瓦や硯の生産で有名なところ。東京駅に復元でも話題に上った。粘板岩の標本に雄勝石を使うのは妥当。この雄勝石は、ペルム紀の泥岩が弱変成したもの。雄勝は行ったことが無く、女川まで。天然スレート瓦の工場を見たのは、岩手県の陸前高田市雪沢(1967年8月)だった。陸前高田駅からバスに乗って「壺の沢」というバス停で降り、壊れそうな橋を渡って雪沢まで行く途中に工場があった。現在は生産されていないようだがどうかな。雪沢に行ったのは、石炭紀の珊瑚化石の採集のため。


Fig. 9 雪沢の天然スレート scale: 5cm
Slate product for roofing yielded from Yukisawa, Iwate Pref.

(つづく)

最後の蒸気機関車たち その39 1971年8月

2013年01月17日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その39 1971年8月
The last steam locomotives in Japan. No. 39 (Aug. 1971)


田辺機関区の続き。


201N 田辺機関区 1971.8  C57-61
201-202: Tanabe SL Depot†, Wakayama Pref.


202N 田辺機関区 1971.8 C57-7

C57-61は、1972年5月に廃車。 C57-7は、1973年11月に廃車されて田辺市で保管されている。
奈良方面に向かう。


203N 奈良線宇治駅 1971.8 C58-240 693列車
Nara line, Uji Station, Kyoto Pref.
どうも順序がおかしいので、一度切符を買って京都に戻り、また出かけたようだ。均一周遊の使い方としては変だが、不正というわけでもない。


204N 関西本線加茂駅 1971.8 D51-895 (+D51+C57)
204-206: Kansai line, Kamo Station, Kyoto Pref.


205N 関西本線加茂駅 1971.8 D51-895 261列車

D51-895は、1972年11月に廃車、その後奈良県王子町の公園に保存されている。


206N 関西本線加茂駅 1971.8 C57-148(後補機) 261列車

C57-148は、1972年10月に廃車、その後大阪市の会社に保存されている。

登場蒸機 C57(写真201・202・206)C58(写真203)D51(写真204・205)

2020.6.11 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

古い鉱物標本(その2)

2013年01月13日 | 鉱物・化石組標本
古い鉱物標本(その2)
An old set of mineral specimens: part 2

先に進む前に、前回の訂正をする。組標本を製作したところは「矢橋製作所」で、1926年創業の「矢橋商事」(後の矢橋工業株式会社)関連、と考えたが、組標本を調べておられるSさんのご指摘で、この両者に関連がなさそうなことが判った。
ここは、岐阜から関ヶ原に向かう交通の要所で、中山道が現在の美濃赤坂駅と金生山南端の中間を東西に通る。ちょうど美濃赤坂駅の北に赤坂宿本陣があったが、その本陣役が矢橋家だから、この町に「矢橋」の姓は多いのが当たり前だ。石灰岩関連では、「矢橋大理石株式会社」があって、こちらは1901年創業(最初は矢橋大理石商店)。しかし、この会社も矢橋製作所とは代表者名が合わないので別のものらしい。そんなわけで、組標本の製作年の「1926年以後」という推定は根拠を失った。Sさんに感謝する。今後もこれについては調査を進めるつもり。
では、それぞれの標本を見よう。写真は5つごとに。標本番号、標本名、産地は原目録による。括弧内は現在の地名である。


Fig. 4 標本1-5 scale: 5cm
Specimen 1-5: biotite granite, hornblende granite, diorite, liparite (rhyolite), hornblende andesite.

1 黒雲母花崗岩 常陸國西茨城郡稲田(茨城県笠岡市稲田)
稲田には、現在も大きな採石場があって、「稲田石」という名で花崗岩の石材を出荷している。稲田花崗岩と呼ばれ、6000万年ほどの絶対年代が計測されている。新生代古第三紀暁新世にあたる。水戸線に「稲田駅」があり、この線に乗車した時(1983年)に石切り場を遠望した。花崗岩の標本として稲田のものをつかうのは問題ないが、なぜ赤坂に近い岡崎のものでないのだろう?「矢橋製作所」の東京支店との間で標本調達の担当を分け合ったのかな。
花崗岩の採集というと、滋賀県の田上山に、球状花崗岩の採集に行ったことはある(1966年ごろ;複数回)。地図の書けそうにない複雑な稜線をたどると。1か所だけに球状の長石のかたまりが密集していた。それより前、京都の大文字山で花崗岩を割って(今では禁止されているでしょうね)、褐廉石を探した。


Fig. 5 大文字山の褐廉石。1960年代の採集。最大の結晶長さ約7mm。
Allanite from Daimonji-yama, Kyoto. The largest crystal 7mm.

褐廉石は、1903年にその付近で京都大学の比企 忠先生が見いだされた。この発見は、日本の放射性鉱物の研究の草分けと言われる。比企先生の名は、滋賀県の哺乳動物化石をまとめた際にウシ化石の項目で記したことがある。私が採集したのは、大文字山といってもその登山路の最初の部分で、「銀閣寺北」と言った方が近いところ。

2 角閃花崗岩 信濃國諏訪郡上諏訪(長野県諏訪市上諏訪)
上諏訪の5kmほど南東に花崗閃緑岩の岩体があるからそれだろうか。構造線に沿って中新世頃の貫入があるがその一つだろうか。近いのは中央本線上諏訪駅(1960年通過)。
3 閃緑岩 美濃國(濃美と誤記してある)養老郡養老(岐阜県養老郡養老町)
「養老の滝」のあたりだろうか。小学生の頃(1956年頃)、父に連れられて断層崖と扇状地、それに輪中のようすを見学に行ったことがある。その折にどうやって行ったか記憶が無いが、おそらく桑名から近鉄養老線(現・養老鉄道)を利用したのだろう。
4 石英粗面岩 信濃國長野市外朝日嶽(長野県朝日岳)
当時の石英粗面岩は、現在流紋岩と呼ばれる。長野県には朝日岳が少なくとも二つある。白馬岳の北にある2,418mの山と、山梨県との境界にある2,579mの山だが、どちらも「長野市外」とはいい難い。長野の市街すぐ西に「旭山」というのがあって、785mの低い山である。「朝日山」としている文もある。旭山の地質は中新世の裾花凝灰岩層らしい。この中に流紋岩があるという記述も見られるのでここかな? なお、「石英粗面岩」の下に父の字で(流紋岩)と青インクで記入してある。
流紋岩の採集では、丹後半島の「そろばん玉石」が思い出される。1968年3月、積雪の中で風化流紋岩を掘ると、白色の球顆が出てくる(写真左)。さらにその両側の不透明白色の部分を割り取ると、透明感のある算盤玉形の玉髄が出てくる(写真右)。そろばん玉石の外側は放射肋があって少し酸化鉄で色づいている。内部には空洞があって微細な水晶が晶出していることが多い。いったいどういう経過でこんな構造ができるのだろうか。


Fig. 6 そろばん玉石。丹後神野産。
Chalcedony in spherule

5 角閃安山岩 相鉄國足柄下郡岩村(神奈川県足柄下郡真鶴町)
箱根の外輪山が海に面したところに真鶴町がある。岩村は1956年まで存在した村で、真鶴町と合併してその名が消えた。現在「岩」という地名が残っていて、その西の丘陵に多くの採石場がある。産出する石材の商品名は「小松石」。近くの真鶴半島の石材と区別して「本小松石」とも。
このあたり、新幹線はトンネルを抜けるので地表の様子を見たことが無い。東海道本線は地表を走るが、最近あまり乗っていない(ここを通過した記録は、最後は2006年7月に往復。その前となると…1986年の夜行特急下り「あさかぜ」。最初は1961年4月。)し、乗っても海を見ているせいか、山側の記憶は全くない。父は「鉄道車窓に見えるものから学ぶ」のが趣味で、東海道線から見える社会科に係わるものごとを記録した本を出している。これに何か書いてあるかと、本棚を探したが、なぜかその本が見当たらない。実は私は二代目鉄ちゃんなのだ。
(つづく)