OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

孔子鳥化石産出地をたずねて その25 最上階の景色

2015年03月29日 | 昔の旅行
孔子鳥化石産出地をたずねて その25 最上階の景色
Visit to the Locality of Confuciusornis: Part 25. Scenery from the top of temple.


59 内部は三層の建造物 2000.5.31
59 Old building of the temple

2000年5月31日、承徳の寺院を見学。石段はずっと続き、次第に息が切れる。途中一休みしながら最後の建物に着く。ここは内庭に伽藍のある回廊式の三層の建物で、伽藍の屋根は金色でまぶしい。日本兵がこの金箔をはがそうとしたというこすった跡が目立つ。ガイドから日本を悪くいう説明があったそうだが、幸か不幸か私はそこにいなかった。後で朱さんが口ごもりながら教えてくれた。


60 瓦の金箔に日本兵が削った痕が。 2000.5.31
60 The roof-tile is scribed by Japanese soldiers.

 三層目の屋上がここの最上階で景色が良い。離宮の石塀が向かいの山陵に望まれる。

61 屋上からの展望 対岸の尾根のむこうが離宮 2000.5.31
61 Scenery from the top of the temple.

 いくつかの土産店があって売り込みが激しい。真鍮製の竜の置物を手に取ったら、300元という。いくら何でも高いので首を振ったら、紙とペンを渡していくらなら買うのかと聞く。買う気もなくめんどうなので、これなら売らないだろうと、「100」と書いたら、予想に反してOKと言う。こちらが値段を書いた手前、断るわけにもいかず押し付けられてしまう。新華社の朱さんはあいかわらず何かと話しかけてくる。「北京で時間があったら日本人の数人と食事を」という約束ができる。


最後の蒸気機関車たち その96 2007年6月 大井川鉄道1

2015年03月25日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その96 2007年6月 大井川鉄道1
The last steam locomotives in Japan. No. 96 (June, 2007), Oigawa Railways.

1975年12月に、定期運行する蒸気機関車牽引の列車はなくなった。その後の蒸気機関車を見るためには、各地にある「静態保存」・「動態保存」のものか、何ヶ所かのイベント等の運行を見るしか方法がない。前にも記したが、私はこういった保存された機関車を見に行くのは好まない。野生動物を見るのに、サーカスや動物園へ行くのは邪道というもの、ましてや剥製に等しい「静態保存」などは、悲しい存在でしかない。
 定年ごろに、全国の未乗車の鉄道路線を乗り潰した。その過程でいくつかの「生きている」蒸気機関車に出会った。そのころ鉄道に乗るために訪れたのであって、蒸気機関車に会うために訪れたことは一度もなかった。行ってみて、ちょうど機会があれば乗ったり、見たりした。以下数回はそのような「最近」の記録である。

 2007年、大井川鉄道(鉄は正しくは旧字鐵)へ乗車のために訪れた。東海道本線金谷駅に接続するこの鉄道は、千頭までの大井川本線39.5kmと、そこから先井川までの井川線25.5kmから成る。地図で見ると一続きだが、両者は全く別の線として機能している。規格が違うので通しの列車は無いし、料金も通しではなく別に計算して足したものになるそうだ。国鉄の蒸気機関車が運行をやめた1975年の次の年に蒸気機関車の動態保存を始め、現在も複数の機関車が在籍している。
 この線を乗り潰すのは簡単そうにみえるが、意外にてこずった。終点まで行ってくるには時間がかかるので、東京からも名古屋からも日帰りが困難なのだ。しかも、山崩れの危険があってしばらく運行をやめていたから、乗り潰しの中でも、比較的後まで残ってしまっていた。
 結局2007年に機会があった。このときは、東京から金谷へ向かった。ちょうどいい時間の蒸気機関車牽引の列車が利用できた。駅で井川までの切符を購入すると、「井川まで行ってくると、東京には帰れませんよ」という親切な注意があった。私は調べて知っていたから、もちろん了解した。
 ホームで列車を待っていると、電気機関車に牽引されてやってきた。古そうな機関車なので、後で調べて見ると昭和24(1969)年から使われているものという。


507 大井川鉄道の電気機関車 2007.6.1 E10-1 金谷駅
Electric Locomotive E10-1 of Oigawa Railways, Shizuoka Prefecture. Kanaya Station 2007.6.1

 間もなく発車。ここからは蒸気機関車を先頭に茶畑の中を軽快に走っていく。


508 大井川鉄道の蒸気機関車牽引列車
Train of the Oigawa Railways.

 対向列車は電車であるが古い形式のもので、そちらに興味のある方も多いだろうが、私はあまり知らない。


509N 大井川鉄道の電車


510 同上
509-510 Old electric trains of the Oigawa Railways

 このように、大井川鉄道は蒸気機関車ばかりではなく、電車など各種車両を現役として使いつづける貴重な線なのである。

2020.6.24 写真509を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

孔子鳥化石産出地をたずねて その24 承徳の夏の離宮

2015年03月21日 | 昔の旅行
孔子鳥化石産出地をたずねて その24 承徳の夏の離宮
Visit to the Locality of Confuciusornis: Part 24. Summer resort of the emperor at Chengde.

 2000年5月31日は巡検の最終日である。まずホテルから徒歩で離宮に向かう。参加者を2つのグループに分けてそれぞれに解説者が付く。よく保存されている建物を見学すると皇帝の夏の生活の様子がわかるようになっている。建物の裏に回ると大きな池をとりかこんで公園があり、いくつかの建物を巡回して解説を聞く。ところどころにお土産の売店がある。プラム氏が例によって精いっぱい伸ばした左手にぬいぐるみを持ち、右手のビデオカメラで撮影しているので、ぬいぐるみを持ってあげた。ついサービス精神を発揮してぬいぐるみの手をもって振ったらプラム氏が喜んでいた。ところが、10分ほどしてバスに乗るとき、プラム氏が浮かない顔をしている。「どうしたんだ?」と聞くと、あのあとズボンのポケットに入れたはずのヒョウがなくなったのに気づき、すぐに戻ったが姿が見えないという。はからずも、私の振った手はさよならの意味になってしまったようだ(プラム氏は、次の観光地でパンダのぬいぐるみを撮影していた。)。離宮の中に、船着き場のようなところがあり、その横の「熱河」の文字の入った石碑が建っている。ここが熱河の言葉の発祥の地なのだろうか。


57 熱河の石碑 2000.5.31
57 The Monument of Jehol, meaning “Hot river”.

 石碑の横に侯連海さんが立っているのを皆が撮影する。でも熱河の語源の説明はなく、欧米の研究者達には意味が分からなかったのではと思う。
 疲れた参加者をホテルに帰して、別の観光地に向かう。石積みの長城のような塀に囲まれた離宮の裏手に、大きな寺がある。寺の名前の記録がないが、たぶん普陀宗乘之廟というのだと思う。入り口の広い駐車場から見上げるとはるかに高いところに大きな伽藍がそびえる。そこまで登ろうというのだ。アメリカの女性がいい運動になる「It's good excercise.」とかいいながら登り始めるのにつられて、ついていくことにした。


58 最後の登りの直前 2000.5.31
58 The temple at the top of a hill. Chengde City.


最後の蒸気機関車たち その95 1975年11月

2015年03月17日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その95 1975年11月
The last steam locomotives in Japan. No. 95 (Nov. 1975), the last issue.


最後の撮影場所は植苗駅付近。


500N 室蘭本線沼ノ端・遠浅間 1975.11.16 C57-144
Muroran line, between Numanohata and Tooasa Stations, Hokkaido

普通列車も走っていた。最初の車両は郵便/荷物車。


501N 千歳線沼ノ端・植苗間 1975.11.16 D51-345?
Chitose line, between Numanohata and Uenae Stations, Hokkaido


502N 室蘭本線沼ノ端・遠浅間 1975.11.16 C57番号不明
502-504: Muroran line, between Numanohata and Tooasa Stations, Hokkaido


503N 室蘭本線沼ノ端・遠浅間 1975.11.16 C57番号不明

室蘭本線下りの客車列車。

504N 室蘭本線沼ノ端・遠浅間 1975.11.16 D51番号不明


最後の一枚は長い石炭車を牽くD51。ススキが白くなって冬が近い。この旅行の結果、北海道内で乗っていない所は次の場所となった。夕張線の清水沢・夕張間、留萠本線の留萌・増毛間、江差線の木古内・江差間の3か所。後に開通した石勝線や海峡線を含めて、現在までにすべて乗車した。それにしても、多くの支線の廃線で、北海道の鉄道地図はずいぶん寂しくなってしまった。市内交通以外の私鉄も全く無くなってしまった。
 この年の12月に蒸気機関車の牽く定期列車は運行を止めた。残ったのは記念列車や観光列車など、私の好きでないものだけ。それで、それ以後の保存的な蒸気機関車で見たのは、北から函館大沼間、真岡鉄道、大井川鉄道、山口線ぐらい。各地の鉄道博物館のような、動くことのない「静態展示」を見に行くのは墓参りのようなものでさらに嫌いだから、ほとんど見ていない。

登場蒸機 C57(写真500・502・503)D51(写真501・504)


505 1975年4月現在の蒸気機関車運行区間
Distribution of steam locomotives at April, 1975. Dots are places of my pictures.

運行区間(青)1974年・1975年撮影場所(赤)以前の撮影場所(黄色)
「最新 SLダイヤ情報 総集編 1975.10」を参考に作製。


506 北海道以外の撮影場所
Places of pictures out of Hokkaido through this series.

これでシリーズ「最後の蒸気機関車たち」の蒸気機関車活躍時代部分は終了した。このあと、各地に残る保存運行蒸気機関車の一部を報告する、好きではないが…。

2020.6.24 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

孔子鳥化石産出地をたずねて その23 凌源のリコプテラ

2015年03月13日 | 昔の旅行
孔子鳥化石産出地をたずねて その23 凌源のリコプテラ
Visit to the Locality of Confuciusornis: Part 23. Lycoptera in Lingyuan City

2000年5月30日、朝陽から凌源に向っている。
 昼前に最後の見学地の凌源市の大王杖子(Dawangzhangzi)に着く。バスを降りて丘の稜線に沿って登っていく。時折ジャノメチョウともタテハチョウともつかない小さなチョウが飛ぶ。20分ほど歩いて、まばらだった林が次第に密になって傾斜がきつくなるころ、やっと発掘地に着く。一面に平らな黄色の岩片が散らばっていてその半分以上に魚類の化石が見える。ここが有名なリコプテラ化石の産出地で、ほとんどのものが全身が完全に残っているばかりではなく、時にはウロコも観察できるほど保存が良い。黄色い頁岩のところでは魚類の骨格が美しいし、灰色の岩層ではウロコまで残っていることが多い。しかし、もともとは完全でも、岩片上では体の一部が割れてどこかに行ってしまったものが多く、持ち帰るようなものはなかなかない。参加者のほとんどが良い化石を求めて探し回る。なかにはリコプテラ以外の魚類やザリガニの化石を見付ける人もいる。植物も時折ある。松葉のような細い葉が束ねられたような種類が多い。私もいくつかを手に入れたが、ザリガニはハサミの部分だけしか見付けられなかった。


54 採集したリコプテラ。体の外形が保存されている。
54 Collected Lycoptera


55 採集したリコプテラ 縦に潰されたもの。スケールは5cm
55 Collected Lycoptera


56 採集したざりがに スケールは5cm
56 Collected Astacus licenti

 案内の研究者が「時間が来たのでバスに戻ってくれ」と叫ぶが、皆さんなかなか立ち上がらない。発掘地は谷の斜面に沿って十数個のピットが並んでいてここから小型の恐竜も出ているとのことである。「早く戻ってくれ」という言葉が次第にきつくなり、ついには「最後の3人は昼食抜きです」という言葉に変わる。下りはピットにそう別の道を通ってやっとバスに帰り着く。凌原市で遅い昼食をとる。このあと、凌原から承徳に向かう。行きとは別の内陸側の道を西に北京に向かっているわけである。時折少し大きな河を渡るが、ほとんど水は流れていない。蒸気機関車がひく貨客混成列車が林の向こうに見え隠れするが、シャッターチャンスがない。凌原の手前にいたって山が険しくなる。道は山と川との間の細い平地をたどる。丘の上に奇妙な岩が危なっかしく立っている。石碑のような不自然さであるがこれは名物の奇岩で観光地にもなっている。そういえば、満蒙報告書にも写真があった。承徳のホテル「承徳賓館」に到着する。ここは有名な避暑地だけあって、ホテルの前にも露店が出ている。こういった店をお好きなH先生や金子さんの眼が忙しく店を探している。夕食はこれまでとは違って挨拶の入るもので、市長は若い精力的な人物で各テーブルを回って名刺を配っている。私たちは早々に引き上げて街に出る。ホテルのすぐ横に宝石商がある。メノウ、軟玉、硬玉をつかった腕輪がたくさん並んでいる。こういった石をつかった枕も多い。その中に化石も並んでいる。トンボ、リコプテラ、カゲロウの幼虫、それに爬虫類などがある。ただトンボの羽の大部分は描いたものだし爬虫類に至っては本物の部分があるかどうかもあやしい。この道路沿いには宝石商は他にもたくさんあって同じように腕輪などが並んでいる。値段はまちまちで、500円以下のものから数万円まである。ちゃんと店を構えたもの以外に、たくさんの露店があってそこではもっと怪しげなものを含めていろんなものが並んでいる。ひやかしていくと、巡検の参加者に出会うことも多い。アメリカの夫婦も韓国の留学生にも、そして新華社の記者・朱さんにも出会った。ホテルでは、ラウンジでカナダのマクガバン(Cris McGowan)氏=ロイヤル・オンタリオ博物館=とお話できた。マクガバン氏は魚竜などの爬虫類化石の権威で、白髪と白いひげが特徴でいつも怖い顔をしていて取っつきにくいと思っていたが、話してみるとやわらかな物腰であった。お弟子さんのカール(Thomas Carr)氏=トロント大学=とともに参加しておられる。若い恐竜学者のカール氏は鼻の高い方でティラノサウルス類の形態の論文でデビューしたばかりである。
 5月30日の行程は、朝陽-波羅赤50km波羅赤-凌源60km凌源-承徳180km の合計290km。

★学名について
☆リコプテラ Lycoptera Mueller 1847 中国名狼鰭魚。Lycoは狼の意味。そうするとイヌ科のリカオンLycaonと同源の言葉だろう。熱河生物群のには Lycoptera davidi Sauvage 1880. L. tokunagai Saito 1936 L. muraii Takai 1943などがあるが、たいてい最初の学名を用いている。種小名を献名された人の内、Davidは多すぎてどなたか不明。徳永重康早稲田大学教授(1874-1940)は満蒙調査団団長。村井?氏も不明。命名者の内斎藤和夫は調査団団員だが詳細不明。高井冬二は東大教授(敬称略)。