OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

2月のカレンダー

2023年01月29日 | 今日このごろ
 今月から、カレンダーを各月が始まる前に掲載することにする。
2月 Basilosaurus (原鯨類)

文献:Harlan, Richard, 1835. Descriptions of the remains of the "Basilosaurus", a large fossil marine Animal, recently discovered in the Horizontal Limestone of Alabama. Transactions of the Geological Society of Pennsylvania, vol. 1: 348-357, pls. 22-24.  (1月と同じ論文)
 前月と同じ論文の第23図。下の骨は左下顎骨の舌側で、右が前方。これも歯の保存は良くない。この標本の全長は45センチもあってこの鯨が巨大なものであることがよくわかる。
 この時点では、Harlanはこの動物が海生の爬虫類であると考えていた。おそらく、少し前の1824年にイギリスで最初の恐竜の命名が行われたから、それに影響されたのだろう。中生代の海生の爬虫類の中には巨大な種類があって、魚竜類(最初の属はIchthyosaurus 1821年)、長頚竜類(Plesiosaurus 1821年)、モササウルス類(Mosasaurus 1822年)と、認識された年代が非常に近い。Harlanは, イギリスなどのこれらの大型絶滅爬虫類の報告を知っていた。これと混同したのではなく、この化石の年代については正しく始新世と認識していた。なぜ海生と考えたのかは分からない。同じ地層から海生の貝類化石が産出しているが、それは決め手にはならない。
 Richard Harlan (1796-1843)はアメリカの古生物学者。
 この頃に多くの原鯨類(後の)化石がアラバマ州などから発掘されたが、巨大な海の生物という点が大衆の興味を引いたために、見世物として展示されたり、時には幾つかの化石を寄せ集めて組み立てられたりした。

「巨大な化石爬虫類」として展示された合成された骨格(下記単行本:320ページ)

 このあたりの記録は、最近刊行された下記の本に詳しく書いてある。
単行本:「未確認動物UMAを科学する」Daniel Loxton and Donald Prothero 2013 日本版(松浦俊輔・訳)2016. 562 p. 化学同人.
 それによると、この動物はHydrarchos silimani(この単行本のまま書く) と名づけられ、展示された骨格は長さ35メートルだったという。その文献は次のもの。
文献:Koch, Albert Carl 1845a. Hydrargos, or great sea serpent, of Alabama, 114feet in length, 7500 lbs. weight. Now exhibiting at the Apollo Saloon, 410 Broadway.Admittance 25 cents. Description of the Hydrargos sillimannii; (Koch) a gigantic fossil reptile, or sea serpent: lately discovered by the author, in the State of Alabama, March, 1845. Together with some geological observations made on different formations of the rocks, during a logical tour through the Eastern, Western, and Southern parts of the United States, in the years 1844-1845. New York, pp. 1-46, fig. (未入手)
 同じ年のすぐ後にKoch (1804-1867)はもう一つ文章を書いていて、Sillimanniiの名称を「Professor Sillimanの強い希望によりHarlaniに変更する」としているから、この教授(たぶんYale大学のBenjamin Silliman教授(1779−1864))も何か不安か不満があったのだろうか。そして、属名の方もなぜかHydrargosHydrarchosに変更している。これらの名称には命名規約上の問題も発生するのだが、幸か不幸か属名はHarlanが1835年にBasilosaurus属を提唱し(今の規約から見るとかなり条件に合わないが)それが適用されると考えられる。種名の方も、Owenが1389年にHarlanの標本を研究してZeuglodon cetoidesを提唱し、Kochのものも同種(または判定できない部分が含まれる)とされるから、消えてしまった。なによりも、このKochの文章は論文として発行されたとは思えない。日本でよく発行された恐竜展図録みたいなものと私は思う。展示場所とか入場料まで記してある。よく残っていたものだ。その年のもう一つの文章も同じような表題で、前のものの改訂版にあたるようだ。

私の旅行データ 3 空白域 B

2023年01月25日 | 旅行

 旅行空白域の最初の知床についてまだ記すことがある。
 将来知床岬先端部の空白を埋めようとしても、到達するのは、ほとんど不可能。すこしでも接近するなら、半島北側では、知床五湖のすこし先のカムイワッカ湯の滝まで定期バスがある(季節運行)。そこまで行っても、まだ26kmほど残っている。半島南側ではもう少し近づくことができ、羅臼から相泊というところまでのバスがあるらしい。そこまで行くと残り17.2km。こちらも、夏の短期間しか運行していないようだし、そこから先に歩く道もない。便数が少なく、集落もないから、乗ってきたバスで折り返してくることになる。最近事故のあった観光船に乗れば接近できるが、このデータでは陸上からの距離だけを問題にしている。20km以上の範囲もそれほど広いわけではない。また羅臼の南方、標津との中間の海岸に狭い20km以上の区域がある。これらを含めて10km以上の範囲は、摩周湖東の内陸部を含めて広い。斜里から標津に、知床半島の根元を横断する国鉄根北線が計画されたが、斜里側の30%ほど作ったところまでで建設が中断され、1970年12月に廃止された。この建設された部分は、廃止半年前の1970年6月に乗った。前回の地図で、斜里から南東に伸びる青い線がその時の経路。

30km−3 根北線終点越川駅 1970.6

知床岬のデータ:10km以上の未接近地 [北海道] 6町 (うち羅臼町は足を踏み入れたことがない) 面積は約1020平方km
20km以上の未接近地 [北海道] 斜里町・羅臼町・標津町。約100平方km 
30km以上の未接近地 [北海道] 斜里町・羅臼町。約1.2平方km
最も経路から離れた地点は斜里町・羅臼町境界の知床岬。31.2km

 北海道にはまだいくつか30kmクラスの空白地がある。二番目は日高山地。ここは岬型ではなく内陸型。

30km−4 日高山地
 凡例:水色:海 緑:10km 黄色:20km ピンク:30km 青線 私の旅行経路 P(青)写真の撮影場所。
 地名 大文字:町・集落 To富川 Sa様仁 Hi広尾 Na中札内 Ob帯広 Me芽室 Ni日勝峠
 小文字:行政区 hid日高町 bi平取町 ni新冠町 sh新ひだか町 ur浦河町 sam様似町 erえりも町 hir広尾町 ta大樹町 sar更別村 na中札内村 ob帯広市 me芽室町 shi清水町

 広大な空白地で、私の旅行経路から最大37kmほど離れたところがある。この地域の周囲の旅行経路は、西北側が1970年7月に帯広から日勝峠を越える国道274号を通るバスで富川に抜けた時のルート。1969年7月の旅行で苫小牧から襟裳岬を見て広尾線で帯広に抜けた時に、南西側と東側を通った。

30km−5 襟裳岬 1969.8.1

 今後日高山地の空白を埋めることのできそうな経路はほとんどない。中央を南北に通る日高山脈には、日勝峠よりも南に国道236号があるだけ。これ以外の道はすべて稜線を越えないから、たいして埋めることはできない。しかも当時と違って日高本線も短くなったし、広尾線は1987年に全部廃止されてしまった。

日高山地のデータ:10km以上の未接近地 [北海道] 1市11町2村 (どの市町村にも足を踏み入れたことがある)。面積は約3400平方km
20km以上 [北海道] 芽室町・帯広市・中札内村・大樹町・広尾町・浦河町・新ひだか町・新冠町・日高町・平取町。約1600平方km 
30km以上 [北海道] 中札内村・大樹町・浦河町・新ひだか町・新冠町。約250平方km
最も経路から離れた地点は新ひだか町の山中。37.2km

古い本 その133 古典的論文 魚竜類1

2023年01月21日 | 化石
 当初恐竜・翼竜の属について調べるつもりだったが、意外に面白いので、ついでに中生代の海生の爬虫類も覗いてみた。まず魚竜類。最初はIchthyosaurusである。恐竜よりも前から知られている属だ。記載論文は次のものとする資料がある。
◯ Koenig, C. D. E. 1818. Ninth Room. In Synopsis of the contents of the British Museum. British Museum (Natural History), London, 14th edition: p. 54.(大英博物館の内容の概略:第9室)
 この文献データには問題があるようだ。まず原典の「Synopsis of the contents of the British Museum」(以下BM Synopsisと略す)は毎年editionが改訂されていて、1818年のものは14h editionである。これはインターネットで公開されているが、著者は書かれていないようだ。Ichthyosaurusは確かにこのエディションの61ページ(第9室)に出てくる。文章は短いから抄訳しておくと、オランダのMaestrichtからの巨大な爬虫類(オオトカゲとGuanaの中間的な)化石について記した後「Dorset産の化石のIchthyosaurus, (これも明らかに同じようなグループに属する)があるが、Sir E. Homeはこれを魚類とした」と記されている。
 まず、著者としているKoenig, C. D. E.は、大英博物館のKeeper(標本管理者)をしていたCharles Dietlich Ebenhard König(1774−1851)であろう。この人が文章の著者であることは有り得ることだ。オランダの化石というのは、おそらくMosasaurusではないか。Maestrichtはベルギー国境に近いオランダの都市で、条約名で知られる。化石の産出はベルギーの区域内かもしれない。Mosasaurusの命名は1822年だから名前が書けるはずがない。「オオトカゲとGuanaの中間的な」というが、Guanaは不明、たぶんIguanaの誤り。「Sir E. Homeはこれを魚類とした」というのは、たぶん次の論文だろう。
◯ Home, Everard, 1814. Some account of the fossil remains of an animal more nearly allied to fishes than to any other classes of animals. Philosophical Transactions of the Royal Society of London, vol. 104: 571–577, plates 17-20.(他の動物ではなく魚類に最も近い化石に関する説明)
 Everard Home(Sir; 1756-1832)はイギリスの医師でRoyal College of Surgeonsの初代校長。まず、標本が海岸の崩落で洗い出されたことや、1812年の産出だったことが記されている。図版が4枚添えられていて、頭蓋がほとんど完全であることがわかる。標本が良い上にスケッチも美しく、200年以上前のものとは思われないほど。最初からこんな良い標本が得られていたのだ。

492  Home, 1814. Plate 17 のちに魚竜と判明する頭蓋 長さ4 feet(約120cm)

 完全な頭蓋があるが、体の骨の位置は動いていること、さらに、片方の肩甲骨があることや、脊椎骨が連続していて少なくとも60個あること、骨格の長さが約17 feet(約5 m)あること、が記されている。当初これはワニ類とも考えたが、脊椎骨の椎体の両側が凹んでいることを見て魚類以外にはないと考えたという。

493  Home, 1814. Plate 20. 脊椎骨断面

 上のスケッチで、菱形に見えるのが椎体間の骨でないところ。サメやエイにその点で似ているが・その仲間ではないとしている。しかし、歯槽に生え変わる次の歯があることは、他の魚類にはないとしている。
 彼は結論としてこれは魚類であるとしたが、学名は与えなかった。肩甲骨の存在はどう考えたのだろう。ところで、文中に「lias」という単語が何度か出てくる。地質学を学ぶと出てくる単語は大文字のLiasで、これはドイツの青色石灰岩層でジュラ紀層を意味する。しかしこの論文はイギリスだし、小文字である。同じように青色の石灰岩層という意味なのだろうか?
 BM SynopsisにHome氏の判定を書いてあるのはこのeditionよりも前からで、例えば11th edition (1817)でも「referred to the fishes by Sir E. Home」と記してある。

494 BM Synopsis, 1817. Ninth Room.

 Ichthyosaurusという語が初めて出てくるのは、1818年の14thのようだ。しかし、属名の提唱とするのは無理がある。そうすると、Wikipediaが属の提唱とした次の論文が候補となる。
◯ De la Beche, Henry Thomas, Sir and Conybeare, William Daniel 1821. Notice of the discovery of a new Fossil Animal, forming a link between the Ichthyosaurus and Crocodile, together with general remarks on the Osteology of the Ichthyosaurus. Transactions of the Geological Society, London. Vol. 5, pp. 559-594, Plates 40-42. (Ichthyosaurus とCrocodileを繋ぐものとなる新しい化石動物の発見の知らせと、Ichthyosaurusの骨学に関する一般的な指摘)
 Sir Henry Thomas De la Beche (1796-1855)は、イギリスの地質学者でイギリス地質調査所の初代所長。William Daniel Conybeare (1787-1857) は恐竜の最初の方で登場済み。イギリスの地質学・古生物学者。この論文では、Ichthyosaurus とともにPlesiosaurusも登場している。ただ、論文上では、例えば563ページにIchthyosaurusという用語が大英博物館のKönigによって用いられているとしていて、新属を提唱するという感じではなくて既にあるものを紹介している形だ。「between the Ichthyosaurus and Crocodile」というのだから、ここに別属があるのかもしれないが、その名前は書いてない。論文には3枚の図版がある。

495 De la Beche and Conybeare, 1821. Plate 40(一部)

 上の線画は。左上が吻部の断面、それ以外はIchthyosaurusの頭部

 BM Synopsisの著者がKönigであることは、ここで推測できる。ただし、二つの論文とも属であると宣言していないし、二名法でもないから、種小名は出てこない。従って、模式種の論文は別にある。
◯ Conybeare, William. Daniel, 1822. Additional Notices on the Fossil Genera Ichthyosaurus and Plesiosaurus. Transactions of the Geological Society, London. 2nd Ser., vol. 1, Pt. 1: 103-123, Plates 15-22.and their explanation in 1 page.(化石属のIchthyosaurusPlesiosaurusについての追加)
 今回は、表題ではっきりと属と言っているし、文中で二名法を用いている。 Ichthyosaurus属について4種を挙げていて、最初にあげられたIchthyosaurus communisが模式種として扱われる。他の3種はDe la Becheが歯などで区別を研究したとして I. platyodon I. tenuirostris I. intermediusを挙げている。
 論文には8枚の図版が添えられている。Ichchyosaurusの図は、Pls. 15-17, 20, である。

496 Conybeare, 1822. Plate 15(一部.)Ichthyosaurusの歯

497 Conybeare, 1822. Plate 20(一部). Ichthyosaurus sp. のヒレ骨格

 この図の左端はディジタル化の時に少し欠けたようだがほとんど完全な標本である。図版解説には「Paddle」としてあるが、前肢か後肢かは書いてない。ちなみに・鯨類の三種類の「ひれ」は前肢にあたるのが「flipper」、尾にあるのが「fluke」、背中のが「dorsal fin」と、それぞれ別の英単語で表される。以前和歌山県で(祖先帰り的な)後肢のヒレのあるイルカが捕獲されたが、その時の後肢のヒレは、英語でどう呼んだのだろうか?

 魚竜類の最初の属から長くなってしまった。以上をまとめる。
Ichthyosaurus De la Beche and Conybeare, 1821 模式種:Ichthyosaurus communis Conybeare, 1822.
産出地 イギリス

私の旅行データ 2 訪れた県と空白域

2023年01月17日 | 旅行
 市町村の訪問を県別にみると、全部を訪れたのは、富山県・静岡県・三重県・滋賀県・福岡県・佐賀県・大分県の7県。残り1町村のところは無く、残り2町村が岩手県(葛巻町と九戸村)・栃木県(芳賀町と那珂川町)・石川県(川北町と志賀町)・福井県(池田町と越前町)・愛知県(設楽町と豊根村)・京都府(和束町と伊根町)・愛媛県(上島町と伊方町)の7府県。逆に多いのは、沖縄県(23市町村)・長野県(22町村)・北海道(21町村)・鹿児島県(21市町村)・奈良県(12町村)。これを比率で見ると、下の図のようになる。一番率が低いのは沖縄県(43.9%)、次いで鹿児島県の51.16%、60%台で山梨と奈良が続く。

訪問県2 県別の訪問率

 これら低い県は、1 島の市町村の多いところ(沖縄・鹿児島)、2 町村合併の進んでいないところ(長野)、そして3 私の住んでいるところから経路に当たらないところ(山梨・奈良)が目立つ。
 それぞれの県を何日訪問したか調べてみた。古いところはやや間違いがあるだろうが、傾向は確か。

訪問県3 県別の訪問日数(2021年末まで)

 鉄道で通過しただけ、というのも日数に加えたから、「訪問」と言うのもちょっと変だが。在住した3府県以外で、最も多かったのが岐阜県で、609日。やはり東海道・山陽新幹線の利用が多いから、そのラインにだけ多い都府県が並ぶ。北海道は善戦。少ないのは山梨県(4日)・沖縄県(5日)、以下鳥取・愛媛(7日)島根(9日)秋田(10日)までが10日以下である。

旅行の空白域 A

 現在、日本の鉄道路線はほとんど乗車済みである。だから、海岸線の近くをずっと通ったことになる。ここからしばらくは、主要4島に限って行ったことのない空白域を調べる。これから記すように、ほとんどの経路は学生時代に旅行したところ。だからあまり良い写真が残っていない。銀塩写真時代はお金がかかったのだ。
 一番遠いところは旅行経路から30kmと少し離れている。最初に30km以上の8か所を記す。まず、北海道知床岬。鉄道が行っていない岬の先端というのは遠くなりやすい。

30km-1 知床岬 
 凡例:水色:海 緑:10km 黄色:20km ピンク:30km 青線 私の旅行経路 P(青)写真の撮影場所。
 地名 大文字:町・集落 S斜里 Uウトロ R羅臼 N中標津
    小文字:行政区 sh斜里町 ra羅臼町 sb標津町 ki清里町 na中標津町 sc標茶町
 
 岬の先端の狭い範囲が30km以上に当たる。半島北側の知床五湖まで行ったことがある(1969年7月)。

30km-2 知床五湖 1969.7

 そこから岬先端までの距離が約31.2kmである。なお半島南側については、何度か羅臼訪問を検討したが、まだ行ったことはない。かつて運行していた標津線の標津終点近くが南海岸の最接近。羅臼まで行ったとしても、岬先端の距離が近づくわけではないが、緑色の10kmの面積は大幅に減る。しかし南西側の大きな空白は岬と分離して残る。
 この項目で、幾つかの写真を出すが、行ったことのないところの写真は無い。そこで、最も近づいたところのものを紹介する。

名古屋に行ってきました

2023年01月13日 | 旅行

 1月7日に、名古屋市で開催された高校の同窓会主催の講演会に参加した。今回の講師の方は、高校の同期生でクラスは共通でないが同じクラブの方で、さらに小学校の6年間同クラス(クラス替えなし)だったので、お会いしたくて参加した。
 講演会は12時開始。ちょっと早起きして小倉831発の「のぞみ」に乗車。昨日の天気予報では名古屋は雨、ということだったが、今日見ると曇りとなっている。夜半に北九州は雨だったのが止んで、濡れた路面を歩いてモノレール駅へ。その雨を兵庫県あたりで追い抜いたが、激しい降り方はしていなかった。

1 雲の中の伊吹山 2023.1.7 以下同日

 モノレール・新幹線・そして名古屋では地下鉄と、運転時刻の正確な交通機関で赴くから、予備時間を取らなくて済む。この雨が雪だったら遅刻も覚悟していたが、ご覧のように難所・関ヶ原に積雪・降雪はない。名古屋駅の新幹線から地下鉄東山線への乗り換えを7分で済ます計画であったが。日曜で混雑した名古屋駅中央コンコースの人混みをすり抜けて無事通過。下車した今池駅から会場までを4分と見込んでいたが、思ったよりも遠くて5分を要した。会場着は集合時刻の2分前の11時58分。後で考えると、桜通線の方が車内は空いているし、名古屋駅乗り場がJRコンコースの下で、平面図では少しだけ近い。しかし、後からできた桜通線は地下深いから上下に時間がかかる。エレベーターの位置を熟知していないからリスクが大きい。地下鉄の乗車時間は同じようなものだから、よく知っていて運転間隔の短い東山線が正解だったようだ。
 12時から講演会。津田梅子さんの話題を興味ふかく聞いた。

2 講演会場 

 ご講演終了後、会場を変えて会食。コロナになってから、会話もしにくいし乾杯も小声で盛り上がらない。

3 会食 (一部を画像処理した)

 会食後、同期の会員二十数名で茶話会。各自近況を話したが、やはり病気の話が多い。昨年はかなりの数の方の訃報を聞いた。三次会ののちホテルに入って宿泊。
 8日には名古屋にいる家族を訪ねた。数十年ぶりに訪ねたが、家の場所は記憶どおりだったので、問題なく到着。家族はちょっと体調に問題があるが、思ったよりは元気そう。夕食までに北九州に帰着。二日とも暖かく、この季節としては快適だった。