OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

3月のカレンダー

2023年02月25日 | 今日このごろ
3月 Zeuglodon cetoides Owen (原鯨類)
文献:Owen, Richard 1839. Observations on the Basilosaurus of Dr. Harlan (Zeuglodon cetoides, Owen). Transactions of the Geological Society, London, Ser. 2, vol. 6: 69-79, pls. 7-9.
 アメリカのHarlanはBasilosaurus標本を、権威のイギリスのOwenのもとに持参して、意見を乞うた。Owenは、歯根が二つあることなどから、これを哺乳類と判断した。またHarlanの論文を検討して、属名の命名としては不十分とし、新属名Zeuglodonを提唱した。Owenの図は1月の図と同じ標本(右上顎)でHarlanの図と比べてわかりやすいが、前方が欠損しているのはなぜだろう? 
 Owenは上記の論文で新種名をZeuglodon cetoidesとしたが、のちにKellogg他は、属名Basilosurusを有効としたので、Basilosaurus cetoides と表すことになった。現在の表記は命名者名をカッコに入れてBasilosaurus cetoides (Owen)となる。
 Richard Owen (1804-1892) はイギリスの生物学者・古生物学者。
 前月の解説で、中生代の大型絶滅爬虫類の最初に命名された属、魚竜類、長頚竜類、モササウルス類・恐竜を記したが、二名法の確立前のものだから、すべて属名と模式種の命名論文が異なる。化石鯨類を含めて最初の属の命名者と模式種の命名者を整理しておく。
魚竜類:最初の属 Ichthyosaurus 1821 Beche et Conybeare:模式種 I. communis Conybeare 1822
長頚竜類:Plesiosaurus 1821 Beche et Conybeare:模式種 P. dolichodeirus 1821 Conybeare
モササウルス類:Mosasaurus 1822 Conybeare:模式種 M. hoffmannii 1829 Mantell
恐竜:Megalosaurus 1824 Backland:模式種 M. backlandi Mantell ただし、このとき「恐竜」という名称はまだなくて、1842年にOwenが初めて使用した。その論文についてはまもなく「古い本」シリーズで記す予定。
化石鯨:Basilosaurus 1835 Harlan:模式種 B. cetoides (Owen)
 
Owen 1839 Plate 2.(一部)Zeuglodon cetoides 上顎頬歯の歯根断面図

Owen 1839 Plate 3. 上腕骨 

 上記のOwen論文には3枚の図版がある。Plate 1が、カレンダーの図、Plate 2は歯根が2つあることを示す断面図と長い脊椎骨(たぶんこれがholotype)、Plate 3は上腕骨。図版説明はなくて、本文中に解説してある。サイズもあまり書いてない。たとえば上腕骨のサイズは「実物の二分の一」としてあるが、ディジタル化の比率がないから原本を見ないとわからない。Kellogg 1936は多くのBasilosaurus cetoides標本を精査した。この上腕骨は"Refered specimen"の最初にある標本の一部で、United States National Museumの標本番号840、全長420mmの左上腕骨と記している。なお、holotype はAcademy of Natural Sciences of Philadelphia のNo. 12944Aという長さ約18cmの椎体。実際にはカレンダーの1月と3月に使った上顎の方が豊富な情報を持っている。Owenが脊椎骨に注目しているのは、骨端が哺乳類であることを示しているからだろう。Owenの記載では、この脊椎骨について詳しく記載されているが、holotypeであることが明確に示されているのだろうか?

アプティクス化石の型取り

2023年02月21日 | 化石

 先日入手した化石の型取りをしてみた。とくに必要はなかったのだが、たまには型取りをしないと腕が鈍るし、印象材も長持ちするわけではないので、使用しないともったいない。

1 購入した標本 ラベルは「Aptychus 」Mühlheim, Germany ジュラ紀(再録)

 標本はゾルンホーフェンのアンモナイトの顎器で、残念ながら中央で割れている。ラベルにはAptychusとしてある。これはアンモナイトの中に入って見つかれば、種類がわかるが、この標本のように単独で見つかると、判別は難しい。そこで、顎器だけに提要する分類名をつけることが多い。この標本はおそらく Laevaptychus 属のものだろう。この属は1927年にTrauthという人が命名したものだが、文献は下記のものだと思うが入手できなかった
○ Trauth, Friedrich 1927. Aptychenstudien. I. über die Aptychen im Allgemeinen. Annalen des Naturhistorischen Museums in Wien, Bd. 41; 171-259. (Aptychusの研究 1.  Aptychus全般について)
 Laevaptychus 属には種の記載もあるようだが、文献を読めなかったからLaevaptychus sp. としておこうか。Laev- については「左」という意味というが、意味が通らないので疑問。ラトビア語で「船」と出てきたが偶然だろう。
 二枚の貝殻状のものが対になっているのだが、こちら側のが割れている。どうやらこのaptychusは膨らみがかなりあるらしくて、ネットで販売されているものでもかなりの割合で割れている。この標本を入手したのは内側の形態が分かるかとおもったのだが、あまり保存が良くない。ネットの標本では、二枚貝の歯のような複雑な構造はない。

2 型の作成 2023.1.30

 左上が元の標本、右上は雌型(シリコンラバー印象材を使用。商品名はブルーラバーミックスII)下の三つが抜いた型で未着色。材料は歯科材料(商品名ユニファスト)。高価だから母岩の周りを小さくとって、節約した。

3 着色して完成 2023.2.20

 細い筆を用いて着色。ひとつひとつの色を拾ったわけではなく、全体の印象で着色した。化石部分の表面を接着剤で軽く艶出しした。まあまあの出来ばえである。一個を友人に差し上げた。右下の型は、割れたところを直したもの。これは、シリコンの雌型の割れてむこうに落ち込んでいる部分の周辺に(左側を残して)カッターナイフで切れ目を入れ、表面の高さや角度が合うように表面から押して固定し、できた隙間をラバーで埋めて型取りして作成した。
 ここしばらく使っていた青いシリコン印象材を使い切った。やや硬くて慣れていないので、新しいドイツの製品を購入。

私の旅行データ 5 空白域 D

2023年02月17日 | 旅行
私の旅行データ 5 空白域 D

 下北半島の空白地を埋めるには、大湊線の大湊か下北駅から大間まで定期バスがあるからそれに乗車し、さらに下北半島西岸の国道338号線を定期バスが走っているからそれに乗れば30km空白地は解消する。天候が良ければ函館から船便で大間に来るのも面白い。また下北半島の西岸と津軽半島の間の平館海峡を運行する船便が、いくつかの小さな港に立ち寄るから、時間をかければ踏破することは可能。
 その海峡はかつて青函連絡船で何度も通った所だから、すでに10kmぐらいまで接近しているとも言えるのだ。大間崎は青函連絡船の航路から少し外れるが、1974年9月に室蘭から青森までフェリーに乗船したから、すぐ近くを通ったことが確実。ただし、今回の調査では陸上の経路だけを対象とした。船と飛行機による接近はそのルートが分からないから。

30km−10 恵山沖を航行する室蘭・青森フェリーから見た夕暮れの駒ヶ岳 1974.9.10

下北半島のデータ:10km以上の未接近地 [青森県] 1市1町3村(尻屋崎を含む)(うち大間町・佐井村・風間浦村・東通村には足を踏み入れたことがない)。面積は約230平方km(+尻屋崎 約39平方km)
20km以上 [青森県] 大間町・風間浦村・佐井村・むつ市。約590平方km (+尻屋崎の東通村。約30平方km)
30km以上 [青森県]  大間町・佐井村。約26平方km
最も経路から離れた地点は佐井村の海岸。31.1km

 尾瀬付近も30kmクラスの内陸型空白地。

30km-11 尾瀬
 凡例:水色:海 緑:10km 黄色:20km ピンク:30km 青線 私の旅行経路 P(青)写真の撮影場所。
 地名 大文字:町・集落 Ko小出 Mu六日市 Mi水上 Ma前橋 Ki桐生 To栃木 Ni日光 Aw会津若松
 小文字:行政区 ya柳津町 am会津美里町 sh昭和村 ta只見町 hi檜枝岐村 ma南会津町  uo魚沼市 mu南魚沼市 miみなかみ町 kb川場村 ka片品村 nu沼田市 ki桐生市 ni日光市 

 広い空白地で、北側は1973年11月に通過した只見線、西側はおおむね1969年8月に通過した上越線、南側の前橋・桐生間は、2006年12月に乗車した上毛電鉄線。桐生から入り込んでいるところは、わたらせ渓谷鉄道で、終点の真藤まで2005年6月に行ってきた。日光から入り込んでいるところは、1961年4月に観光バスで行ったが、正確なルートは不明。日光(下今市)から北に向かう線は、東武鬼怒川線・野岩鉄道・会津鉄道で、2003年6月に通った。空白地の中で私の経路から一番遠いところは約33km。なお、上の図にはわたらせ渓谷鉄道の東の10kmクラス空白地が書き込まれている。その部分の行政区の凡例はkn鹿沼市、sa佐野市。

30km-12 日光いろは坂 1961.4

 将来この地域に踏み込むのは、自宅から遠いし現地も時間がかかるので簡単ではない。尾瀬に行けばかなり埋めることができるが、どうしても宿泊が必要だし、徒歩の距離も長いから、私にはできそうにない。北半分には定期バスもあるようだから、不可能ではない。

尾瀬のデータ:10km以上の未接近地 [福島県] 5町2村  [新潟県] 2市 [群馬県]  2市1町2村 [栃木県] 1市 (うち昭和村・檜枝岐村・片品村・川場村には足を踏み入れたことがない)。面積は約3100平方km
20km以上 [福島県] 只見町・南会津町・桧枝岐村  [新潟県] 魚沼市 [群馬県]  川場村 みなかみ町・沼田市。 約940平方km 
30km以上 [福島県] 桧枝岐村  [新潟県] 魚沼市。 約90平方km
最も経路から離れた地点は檜枝岐村の山中。32.7km

古い本 その135 古典的論文 長頚竜類1

2023年02月13日 | 化石

 今回から長頚竜類に入る。このグループも古くから知られていて、恐竜よりも長い研究史を持っている。最初の属はPlesiosaurusで、Ichthyosaurusと同じ論文で提示されている。
⚪︎ De la Beche, Henry Thomas, Sir and Conybeare, William Daniel 1821. Notice of the discovery of a new Fossil Animal, forming a link between the Ichthyosaurus and Crocodile, together with general remarks on the Osteology of the Ichthyosaurus. Transactions of the Geological Society, London. Vol. 5, pp. 559-594, Plates 40-42. (Ichthyosaurus とCrocodileを繋ぐものとなる新しい化石動物の発見の知らせと、Ichthyosaurusの骨学に関する一般的な指摘)(既出) 
 著者のうちConybeare は、この後いくつかの長頚竜に関する論文を出した。例えば次のもの。
⚪︎ Conybeare, William Daniel, 1822. Additional Notices on the Fossil Genera Ichthyosaurus and Plesiosaurus. Transactions of the Geological Society, London. 2nd Ser., vol. 1, Pt. 1: 103-123, Plates 15-22.and their explanation in 1 page.(化石属 IchthyosaurusPlesiosaurusについての追加)
⚪︎ Conybeare, William Daniel, 1824. On the Discovery of an almost perfect Skeleton of the Plesiosaurus. Transactions of the Geological Society, London. 2nd Ser., vol. 1, Pt. 1: 381-389, Plates 48-49.and their explanation in 1 page.(Plesiosaurusのほとんど完全な骨格の発見について)
 これらの論文では、二つの名称は「属」であることは何か所かで明記されているが、種名の提示はなく、だからもちろん二名法は使われていない。もう一つこれらの論文の共通点は、ずいぶん初期の出版物であるのに、複数の図版(化石骨のスケッチ)を伴うこと。図はスクライブ技法らしく見え、レベルは高い。のちの初期の恐竜の(とくにアメリカの)論文がほとんど図を伴っていないのとは対照的である。

502 De la Beche and Conybeare, 1821. Plate 41. Plesiosaurus脊椎骨(最下段を除く)

 上の図は最初の論文の図版で、Plesiosaurusの脊椎骨の特徴をよく捉えている。最下段の薄っぺらい脊椎の列は魚竜類で、この図を見るとその違いがわかりやすい。ところで、この図の配列はすこしおかしい。魚竜の脊椎骨がとくに左下で長頚竜と近すぎる。おそらく魚竜の図を後から入れ込んだのではないか? とくに魚竜の神経棘を追加したのかな。

503 Conybeare, 1822. Plate 19. Plesiosaurus頭骨と復元図

 この図は、Conybeare, 1822のPlesiosaurusのほぼ完全な頭骨で、この時代には珍しくカラーである。着色の方法はわからないが、骨の部分は茶色に、岩石の部分は青みを帯びた暗灰色に見える。

504 Conybeare, 1824. Plate 49. IchthyosaurusPlesiosaurusの全身復元図

 三つの論文の最後のものでは全身の復元図が示されている。現代の理解と非常に近い図が1824年という早い時代にできていたのだ。繰り返すが恐竜の最初の論文が出た頃で、有名な水晶宮のガマガエルのような恐竜復元(1851年公開)よりもずっと前の時代。ただし、魚竜類の尾で、二股のヒレのうちの背側に脊椎列が伸びるために、一か所で折れ曲がっていることはこの図に描かれていない。
 なお、模式種は1824年の論文で提示されたPlesiosaurus dolichodeirusが選ばれている。

Plesiosaurus de la Beche and Conybear, 1821. 模式種:Plesiosaurus dolichodeirus Conybear, 1824
産出地 1822論文:Bristol付近・他 1824論文:Lyme Dorset州 イギリス

 次の属はElasmosaurus で、1868年の記載。1821年のPlesiosaurus以来47年もの間一つの属で済ませていたわけだ。論文は次のもの。
⚪︎ Cope, Edward Drinker, 1868. On a new large Enaliosaur. The American Journal of Science and Arts, series 2, vol. 46, No. 137: 263-264.(新種の巨大なEnaliosaurについて)
 Enaliosaurと言うのは、当時使われていた分類群で、現在のIchthyorsauriaとPlesiosauriaを足したもの。Elasmosaurus属を脊椎の関節の形態などでPlesiosaurusと区別した。図はない。
Elasmosaurus Cope, 1868 模式種 Elasmosaurus platyurus Cope, 1868
産出地 Fort Wallace, Kansas州 アメリカ

私の旅行データ 4 空白域 C

2023年02月09日 | 旅行

 次の空白域は岬型の積丹半島。

30km−6 積丹半島30km
 凡例:水色:海 緑:10km 黄色:20km ピンク:30km 青線 私の旅行経路
 地名 大文字:町・集落 Fu古平 Yo余市 Ka神恵内 To泊
 小文字:行政区 sh積丹町 fu古平町 ka神恵内村 to泊村

 半島付け根の経路は函館本線(1969年7月)北側の余市には1976年ごろ(記録なし)に行った。南側は、1974年9月に岩内線(1985年7月廃止)に乗車したついでに、泊まで定期バスに乗車した。
 半島の海岸を巡る定期バス路線があるから、それに乗れば中央に10kmの空白が残るだけになる。

積丹半島のデータ:10km以上の未接近地 [北海道] 2町2村(積丹町と神恵内村には足を踏み入れたことが無い)。面積は約510平方km
20km以上 [北海道] 積丹町・神恵内村。約220平方km 
30km以上 [北海道] 積丹町。約20平方km
最も経路から離れた地点は積丹町の神威岬。37.7km

 次も北海道の半島部で、瀬棚と江差の間の日本海側。

30km-7 瀬棚/江差30km

 凡例:水色:海 緑:10km 黄色:20km ピンク:30km 青線 私の旅行経路
 地名 大文字:町・集落 Se瀬棚 Ya八雲 Mo森 Es江差 Ha函館 Ki木古内
 小文字:行政区 seせたな町 im今金町 ya八雲町 ot乙部町 mo森町 ho北斗市 as厚沢部町 es江差町 ki木古内町

 北海道の半島部は、東側を函館本線(1969年7月)がとおり、そこから3本の支線が日本海に抜けていた。北から前回の岩内線、今回の北側を区切る瀬棚線(1974年8月乗車、1987年3月廃止)、南から北上する江差線木古内・江差間(2004年7月乗車、2014年5月廃止)である。南側の直線的な経路は北海道新幹線(2017年5月乗車)。
 江差や瀬棚からバスの便があるが、海岸全てにあるわけではなさそうなので、この空白を埋めるのは難しそう。

瀬棚・江差間のデータ:10km以上の未接近地 [北海道] 1市8町(厚沢部町と乙部町には足を踏み入れたことが無い)。面積は約1600平方km
20km以上 [北海道] せたな町・八雲町・乙部町・厚沢部町。約8.0平方km 
30km以上 [北海道]  せたな町・八雲町。約1.8平方km
最も経路から離れた地点はせたな町・八雲町境界付近のポンモシリ岬。31.6km
 本州に入り下北半島にも30kmクラスの空白域がある。これも岬型。

30km-8 下北半島
 凡例:水色:海 緑:10km 黄色:20km ピンク:30km 青線 私の旅行経路 P(青)写真の撮影場所。
 地名 大文字:町・集落 Im今別 Om大間 Muむつ
    小文字:行政区 om大間町 sa佐井村 ka風間浦村 muむつ市 hi東通村

 岬先端は下北半島の大間崎(青森県大間町・佐井村)。そこに接近したのは、2008年7月に大湊線に乗車した時の終点の大湊駅である。国鉄時代から乗りつぶしをしてきて、ここでJRの全線に乗車した。

30km−9 大湊駅 2008.7.25

 大湊駅は大間崎から36.1kmも離れている。ただし、岬の先端は北海道の函館駅から29.4kmしか離れていない。さらに、2010年12月に函館市恵山で一泊した時に、汐首岬というところを通ったが、そこは大間崎から18.8kmのところにある。そして、津軽半島側にも海を越えて接近した所があるから、30km以上のところは下北半島の西岸に分布し、最大距離は32kmと見積もられる。