保育社の「原色化石図鑑」について、前回は函や表紙のことを記した。今回は内容。なお、今回の投稿にあたって前回の誤りを見つけたので先ほど訂正した。
ページ数は268ページ、サイズはA5よりわずかに大きい。化石を全部網羅するというわけにはいかないので、当然トピックをとりあげて解説するもの。「はじめに」から「目次」までを別ノンブル(I-X)とし、図版とその解説部分が1から192ページなのだが、図版はノンブルが打ってない。図版は1-96まで。そのあと「概説」(193-247)索引(249-268)で、総計374ページという長いものである。
初版と10版とはほとんど同一である。表紙などの浜田博士の肩書きについては前回記した。他にも肩書きの変化は改訂してあるようで、例えば42ページの亀井助教授が亀井教授に変わっている。そういうところ以外には本文はほとんど変わっていないようだ。巻頭のXページの「装丁説明」は、初版ではカバーバックなども詳しく書いてあるが、10版ではかなり省略されている。なお、函のカエルの学名に誤りがあり、初版も10版も間違っている。
図版部分は、1-3が「生きている化石」、4からは時代順で先カンブリア代から順に古生代末が36図版、中生代が71まで、最後の図が「日本列島のサンゴ礁」で終わる。原色図鑑と言っているが、半数の図版だけがカラーで残りは白黒写真である。図版ページだけが紙質が良いから、カラーと白黒の図が裏表になっている。このブログでは内容についてくわしく書くことを避けている。今回は西南日本のシルル系に関係する二つの図版についてのみ記す。この本に掲載されている化石は外国のものがほとんどで、国内産のものは少ない。収蔵している機関は大学が多い。この時代では当然であるが、現在は外国の化石がアマチュアにも容易に手に入ることと、博物館が良い標本をたくさん持つようになった点が大きく違ってきている。
1枚目は図版13のコロノセファルスCoronocephalus kobayashii Hamada(三葉虫)で、宮崎県祇園山の標本。凝灰岩?中に保存された不完全な頭部である。
31-1 原色化石図鑑 第13図 祇園山の三葉虫コロノセファルス
この標本は本の著者の一人の浜田隆士博士が採集したもので、1959年に英文で新種記載した。九州の三葉虫の中でも最初の記録であろう。産出地は論文中にもあまり細かく記録されていないが、祇園山の西を回る道路の山側のカッティングだと言われている。現在は植生にだいぶん覆われてしまった。祇園山の化石は、石灰岩を探すのが普通だから、その中では異色のもの。私も30年ほど前にそこを探してみたが、何も見つからなかった。
31-2 1968年に北から見た祇園山
化石図鑑にもう一つある日本のシルル紀層についての記事は、最後の第96図版にある。
31-3 原色化石図鑑 第96図 横倉山遠景
この写真は、高知県の横倉山をずっと東の方の越知町甲あたりから撮影したもの。中央の鋭い山が横倉山で、石灰岩の採掘をしていた。ここの石灰岩は薄桃色を帯びた石材で、「土佐桜」の商品名で販売されていた。図版の写真で化石標本でなく「景色」のものは、これとその下にある千葉県沼のサンゴ化石礁だけ。浜田先生は、西南日本のシルル紀の地層の総括をした論文「西南日本外帯ゴトランド系の層序と分帯」で博士号を取られたから、祇園山と横倉山のことが記してあるのは頷ける。なお、「原色図鑑」では浜の字を新字で書いてあるが、ここからは本来の濱の字にする。
濱田隆士博士(1933−2011)は東京大学教養部教授として長く研究をしておられた。三葉虫研究の縁でお付き合いがあり、何度か採集にも同行した。私が北九州に移ってからも、お会いして、藍島などの化石調査に同行した。
31-4 濱田先生と私
写真は濱田先生とどこかの海岸で撮ったものだが、残念ながら日付も場所も記録がない。私のマフラーの色から1993年よりも後、持っているのがデジカメなら2000年よりも前ということになる。海岸は北九州ではない。
益富壽之助博士(1901-1993)は、日本鉱物趣味の会を主催し、日本地学研究会館館長を勤められた。薬学博士で、正倉院の薬物、特に化石鉱物関係のものの研究で有名。
31-5 益富・鹿間 1955 「正倉院薬物」別刷
写真は「正倉院薬物」植物文献刊行會・発行 朝比奈泰彦・編修 の「龍骨」の最初の部分。この後鹿間時夫の論考が続く。
京都の益富先生のご自宅に何度もお邪魔したが、一介の学生の私を専門家(ほんとうはひいき目に見てもその卵)として扱っていただいた。大学院生のときには、岐阜県の福地温泉にお迎えした。当時私はここの「ひだ自然館」のお手伝いをしていて、そこの山腰館長さんのお世話になっていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/98/778756ae31f289ef4da8045f18dd4a6b.jpg)
31-6 上宝村(現・高山市)福地にあったひだ自然館の入り口で 1971.11.19
写真向かって左端が私、二人おいて中央が山腰館長、一人おいて益富夫妻。いつも奥様と一緒に旅行しておられた。
ページ数は268ページ、サイズはA5よりわずかに大きい。化石を全部網羅するというわけにはいかないので、当然トピックをとりあげて解説するもの。「はじめに」から「目次」までを別ノンブル(I-X)とし、図版とその解説部分が1から192ページなのだが、図版はノンブルが打ってない。図版は1-96まで。そのあと「概説」(193-247)索引(249-268)で、総計374ページという長いものである。
初版と10版とはほとんど同一である。表紙などの浜田博士の肩書きについては前回記した。他にも肩書きの変化は改訂してあるようで、例えば42ページの亀井助教授が亀井教授に変わっている。そういうところ以外には本文はほとんど変わっていないようだ。巻頭のXページの「装丁説明」は、初版ではカバーバックなども詳しく書いてあるが、10版ではかなり省略されている。なお、函のカエルの学名に誤りがあり、初版も10版も間違っている。
図版部分は、1-3が「生きている化石」、4からは時代順で先カンブリア代から順に古生代末が36図版、中生代が71まで、最後の図が「日本列島のサンゴ礁」で終わる。原色図鑑と言っているが、半数の図版だけがカラーで残りは白黒写真である。図版ページだけが紙質が良いから、カラーと白黒の図が裏表になっている。このブログでは内容についてくわしく書くことを避けている。今回は西南日本のシルル系に関係する二つの図版についてのみ記す。この本に掲載されている化石は外国のものがほとんどで、国内産のものは少ない。収蔵している機関は大学が多い。この時代では当然であるが、現在は外国の化石がアマチュアにも容易に手に入ることと、博物館が良い標本をたくさん持つようになった点が大きく違ってきている。
1枚目は図版13のコロノセファルスCoronocephalus kobayashii Hamada(三葉虫)で、宮崎県祇園山の標本。凝灰岩?中に保存された不完全な頭部である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/79/aa4fc3b516cfafd27e07026be421bc0f.jpg)
31-1 原色化石図鑑 第13図 祇園山の三葉虫コロノセファルス
この標本は本の著者の一人の浜田隆士博士が採集したもので、1959年に英文で新種記載した。九州の三葉虫の中でも最初の記録であろう。産出地は論文中にもあまり細かく記録されていないが、祇園山の西を回る道路の山側のカッティングだと言われている。現在は植生にだいぶん覆われてしまった。祇園山の化石は、石灰岩を探すのが普通だから、その中では異色のもの。私も30年ほど前にそこを探してみたが、何も見つからなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/bc/9c72dae078db8e3bd43592476e33c8a3.jpg)
31-2 1968年に北から見た祇園山
化石図鑑にもう一つある日本のシルル紀層についての記事は、最後の第96図版にある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/85/90404a85b090dba2ecb8a35c5adad6b3.jpg)
31-3 原色化石図鑑 第96図 横倉山遠景
この写真は、高知県の横倉山をずっと東の方の越知町甲あたりから撮影したもの。中央の鋭い山が横倉山で、石灰岩の採掘をしていた。ここの石灰岩は薄桃色を帯びた石材で、「土佐桜」の商品名で販売されていた。図版の写真で化石標本でなく「景色」のものは、これとその下にある千葉県沼のサンゴ化石礁だけ。浜田先生は、西南日本のシルル紀の地層の総括をした論文「西南日本外帯ゴトランド系の層序と分帯」で博士号を取られたから、祇園山と横倉山のことが記してあるのは頷ける。なお、「原色図鑑」では浜の字を新字で書いてあるが、ここからは本来の濱の字にする。
濱田隆士博士(1933−2011)は東京大学教養部教授として長く研究をしておられた。三葉虫研究の縁でお付き合いがあり、何度か採集にも同行した。私が北九州に移ってからも、お会いして、藍島などの化石調査に同行した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/16/c63da4088b2cce45e929ef6d4b91520d.jpg)
31-4 濱田先生と私
写真は濱田先生とどこかの海岸で撮ったものだが、残念ながら日付も場所も記録がない。私のマフラーの色から1993年よりも後、持っているのがデジカメなら2000年よりも前ということになる。海岸は北九州ではない。
益富壽之助博士(1901-1993)は、日本鉱物趣味の会を主催し、日本地学研究会館館長を勤められた。薬学博士で、正倉院の薬物、特に化石鉱物関係のものの研究で有名。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/76/7ef9d9102208626b6c324f9356c60120.jpg)
31-5 益富・鹿間 1955 「正倉院薬物」別刷
写真は「正倉院薬物」植物文献刊行會・発行 朝比奈泰彦・編修 の「龍骨」の最初の部分。この後鹿間時夫の論考が続く。
京都の益富先生のご自宅に何度もお邪魔したが、一介の学生の私を専門家(ほんとうはひいき目に見てもその卵)として扱っていただいた。大学院生のときには、岐阜県の福地温泉にお迎えした。当時私はここの「ひだ自然館」のお手伝いをしていて、そこの山腰館長さんのお世話になっていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/98/778756ae31f289ef4da8045f18dd4a6b.jpg)
31-6 上宝村(現・高山市)福地にあったひだ自然館の入り口で 1971.11.19
写真向かって左端が私、二人おいて中央が山腰館長、一人おいて益富夫妻。いつも奥様と一緒に旅行しておられた。