OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

古生物学会に参加

2014年06月29日 | 今日このごろ
古生物学会に参加

九州大学で開催された「日本古生物学会2014年年会」に参加した。毎年6月末と1月末頃に開催される学会もので、私のメイン学会である。
 すでに引退している私が学会発表をすることはない、と思っていたら、後輩に託した未研究標本の調査が進んで、3件の発表がされ、それぞれ私の顔を立てて発表者のリストに加えて下さったから、なんと3件(うち2件はポスター発表)もの発表を行なったことになった。
 初日に行われたシンポジウム・総会はパスして、夕刻の懇親会からの出席とした。
 懇親会は福岡市内のホテルで盛大に開催された。知人が多く、とくに福岡近郊にお世話になった方が多数いらっしゃるから、会場でも挨拶がいそがしい。9時頃にお開きとなって、この日は博多駅近くのビジネスホテルに一泊した。


1 懇親会(福岡市GPホテル)

 翌日はJRで九大に向う。博多駅前は7月1日から本格化する博多祇園山笠の準備が進んでいて、駅前にも巨大な山笠が飾ってある。この日はまだカバーが掛けられていてよく見えなかったが。


2 駅前に飾られた山笠


3 博多駅で見かけた蒸気機関車動輪を摸したエスカレーター


4 会場となった九大箱崎キャンパスの入口

 箱崎で降りて会場の九大博物館へ。ポスター発表や口頭発表をいくつか見てあとは休憩室で雑談。いろいろなお願いをされ、またお願いをし、名刺や別刷りの交換をして時間を過ごす。発表風景や休憩室は顔が写るので撮影を遠慮した。
 終了後、たまたま同時刻に大学の門を出た、統一感のない11人が集まって、街に繰りだして夕食。大変盛り上がって、さあ二次会へ、ということになったが、私は小倉の自宅に帰る計画なので、一次会で別れて帰宅した。この投稿をしている本日最終日は参加しない。
 次回の学会は豊橋とのこと。参加するかどうかは決めていないが、やや消極的な気持。


最後の蒸気機関車たち その81 1972年10月

2014年06月25日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その81 1972年10月
The last steam locomotives in Japan. No. 81 (Oct. 1972)


1972年10月に関西本線・草津線の蒸気機関車を撮影に行った


426N 関西本線柘植駅 1972.10. D51-906 1293列車
426-427: Kansai line, Tsuge Station, Mie Pref.

これにも「つばめマーク」がついている。全国でいくつの機関車にこのマークがついていたのだろうか? D51-906は、1973年11月に廃車。


427N 関西本線柘植駅 1972.10. D51-906 1293列車


428N 草津線石部駅付近 1972.10 D51-497 1793列車
428-430: Kusatsu line, near Ishibe Station, Shiga Pref.

D51-497は、1973年8月に廃車。ただし、最終所属が山口となっており、この時の撮影記録が誤っている可能性がある。


429N 草津線石部駅付近 1972.10 D51 724列車

石部駅では、手近な山に登って遠景を撮った。まだ客車列車が走っていた。


430N 草津線石部駅付近 1972.10 D51 724列車

夕暮れが迫ってきて、あきらめて帰宅した。デジタルカメラでなかった当時は、ちょっと暗くなると撮影困難だったのだ。
1972年の撮影はこれでおしまい。蒸気機関車がいなくなるまであと3年。
登場蒸機 D51(写真426~430)

2020.6.21 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

孔子鳥化石産出地をたずねて その9

2014年06月21日 | 昔の旅行
孔子鳥化石産出地をたずねて その9 鹿間時夫先生
Visit to the Locality of Confuciusornis: Part 9. Dr. T. Shikama.

 この満蒙報告書とは別に、鹿間先生の研究がある。鹿間時夫博士は、1942年から新京工業大学・満洲國中央博物館に勤務して、脊椎動物化石の研究を行った。研究成果の中でもっとも有名なのが、中生代の哺乳類エンドウテリウム(エンドテリウムの方がいいかもしれないが、名の由来を重視してここでは「ウ」をいれた。)を報告したものである。私が鹿間先生にお目にかかったのは数回しかなく、そのうち1973年ごろにどんな経緯かは覚えていないが横浜国立大学の教授室に一人でおじゃましたことがある。その折に、鹿間先生の研究論文の別刷りを多数いただいたがその中で特に印象深かったのがその論文である。Teilhardosaurus and Endotherium, New Jurassic Reptilia and Mammalia from the Husin Coal-Field, South Manchuria という題で、学士院紀要(1947とあるが実際の印刷はもう少し遅れたようだ)に掲載されたものである。この論文の別刷りの実物をいただいたのは感激した。当時の印刷事情のせいか、きれいな写真ではない。ここに示した写真の中央がテイリャードサウルスの下あごで、その左にエンドウテリウムの下あごがある、というのだが、よく見えない。だから論文中のスケッチで見るしかない。エンドウテリウムの標本は失われたらしいが、最近雌型の方の石が博物館に保存されているのが再発見されたという噂もきいた。


14 エンドウテリウム・テイリャードサウルス記載論文{別刷り}の表紙
14 Reprint title of the Description paper on Teilhardosaurus and Endotherium.


15 同論文に掲載されている標本写真
15 Published photo of the type specimen.

 その頃鹿間先生が執筆した熱河に関連する論文としては、この他に、マンチュロケリスの記載(遠藤隆次・鹿間時夫, 1942)や小型恐竜の足跡を報告した論文(矢部・稲井・鹿間, 1940)が、満洲國中央博物館の研究報告に掲載されている。この研究報告は確か6号まで発行されていると思うが、関連部分だけコピーを持っているのにどこで原本を見たのか思い出せない。足跡につけられた学名 Jeholosauripus にJeholの名が用いられている。
 こういった標本のほとんどがその後の混乱で失われたのは、日本に責任があろう。私が初めて中国に行ったのは武漢市1991年だったが、武漢地質学院大学で通訳をしていただいた方は愛新覚羅氏と名乗られた。それまで英語で話をしていたが、日本語で「では皇帝とお続きのある方ですか?」と聞くと、「皇帝はおじに当たります。」とのお返事であった。帰ってから系図を調べたが、該当する人物はわからなかった。「おじ」という言葉の示す関係が日中で違っているらしい。それにしても世が世なら通訳をお願いするなどおそれおおいことであろう。氏は地質学院で日本語の先生をしているということであった。笑顔の気持ちのよいお年寄りであった。陳丕基先生や、愛新覚羅氏など戦争を経験された世代の方は満州の話題などは持ちだしたりされないが、中国とのつきあいをする限り、戦争時代のことは切り捨てることはできない。今回も旧満州地区への巡検だけに何か関連のあることと出会うだろう。

★学名について
 本文に出てきた学名についてそのつど簡単に解説をする。熱河生物群のものについては、公表当時ジュラ紀とされていたものが多いが現在は大部分が白亜紀前期として扱われているので注意。例によって研究者のお名前には敬称を付けていない。
☆テイリャードサウルス
 Teilhardosaurus carbobarius Shikama 1947 遼寧省阜新Hushinの石炭層からエンドウテリウムと同一の岩片から産出したトカゲ。論文は本文に記述。Teilhardは中国に長く滞在したPierr Teilhard de Chardin (フランス:1881-1955)で、北京原人の研究にも関係した神父・古生物学者。種小名carbobariusは石炭を意味する。
☆エンドウテリウム
 Endotherium niinomii Shikama 1947 中国名「遠藤獣」。地層・産出地・論文は上と同じ。中生代哺乳類の研究史上重要な種。Endoは遠藤隆次博士(1892-1969 満州中央博物館)。種小名niinomiiは「鳴き砂」の新帯國太郎博士への献名であろう。新帯國太郎(1882-1971)は、愛知県知多出身の地質学者で、当時満鉄の地質調査所か、大連地質調査所にいたと思われる。新帯氏は日本のサッカー黎明時代の歴史にも関わる。私の父が生前、氏を敬っていた記憶がある。父(1910-1982)は1960年頃まで知多郡で小学校の校長をしていたから、時代的には面識があった可能性がある。
☆マンチュロケリス
 Manchurochelys manchoukuoensis Endo and Shikama 1942 中国名「満州亀」。R. Endo and R. Shikama. 1942. Mesozoic reptilian fauna in the Jehol mountainland, Manchoukuo. Bulletin of the Central National Museum of Manchoukou 3:1-20。 首の脊椎を横に曲げる亀類のアジアの例として有名であるが、最近はそう考えていないようだ。語源はいずれも「満州」に因む。
☆ジェホーロサウリプス
  Jeholosauripus ssatoi Yabe, Inai and Shikama 1940 足跡に付けられたichnospesies(生痕種)。最近はJeholosauripus属を使うことはあまりないようで、Grallator Hitchcock 1858 属に入れるのだろう。Jeholoは熱河に由来。sauripusは、おなじみsaurusに足跡の生痕学名語尾をつけたもの。種小名ssatoiは、原文では二つのsの間にハイフンがあって(命名規約により除かれる)、標本寄贈者満州鉱業株式会社の佐藤晋三氏に因む。論文「満州国錦州省羊山より発見されたる中生代恐龍の足跡化石」地質学雑誌47(559): 169-170. 記事は、古生物学会記録のようで、「假に命名」とか書いてあって、引用としては少し苦しい。産地は錦州省羊山付近四家子とあるので、今回の宿泊地の一つ、朝陽市の市域にあって中心街から30kmほど南にあたる。著者矢部久克博士(1878-1969)は東北大教授で鹿間時夫の指導者。稲井 豐は鹿間時夫と一緒に現地の地質調査を行ったとあり、東北大学の研究者。同名の人物はFortipecten takahashii (記載時はPecten takahashii)のホロタイプの採集者である。たぶん同一の人物であろう。


最後の蒸気機関車たち その80 1972年9月

2014年06月17日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その80 1972年9月
The last steam locomotives in Japan. No. 80 (Sep. 1972)


北海道旅行の帰りに東能代機関区に立ち寄って撮影。


419N 東能代機関区 1972.9.13 28667
419-422: Higashi-Noshiro SL depot†, Akita Pref.


420N 東能代機関区 1972.9.13 28688

灰落しをするピットの中に潜り込んで撮影。


421N 東能代機関区 1972.9.13 28688


422N 東能代機関区 1972.9.13 28688

こんどは石炭の積み込み台に登って撮影。


423N 東能代駅 1972.9.13 28688
Ou line, Higashi-Noshiro Station, Akita Pref.

五能線の列車は蒸気機関車が牽いていた。奥羽本線は既に電化されていたから、駅構内は架線がわずらわしい。


424N 東能代・能代間 1972.9.13 28688
424-425: Gono line, between Higashi-Noshiro and Noshiro Stations, Akita Pref.

東能代駅から西にしばらく行ったところで撮影。五能線の踏切である。


425N 東能代・能代間 1972.9.13 28688

東能代での撮影で、長い長い北海道旅行も終わった。
登場蒸機 8620(写真419~425)

2020.6.20 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

Trivial database of a retired curator, OK.

孔子鳥化石産出地をたずねて その8

2014年06月13日 | 昔の旅行
孔子鳥化石産出地をたずねて その8 熱河動物群と日本の満蒙調査
Visit to the Locality of Confuciusornis: Part 8. Jehol Biota and the Expedition to Manchoukuo.

 シンポジウムのもう一つのテーマである「熱河動物群」というのは、孔子鳥や中華竜鳥を含む多くの生物全体に関するテーマである。ここでは、どんな生物の化石が含まれるかに加えて、年代論や他の地方の生物群との比較が討論されることであろう。現在までに、恐竜類・鳥類・魚類に加えて、トンボなどの多くの昆虫類、ザリガニやカイエビなどの節足動物、二枚貝、巻貝、多くの植物などの化石が報告されていて、日本との共通のグループも多く、各種の生物の比較などの研究が進められている。「熱河 Jehol」というのは、古い地方名で、満洲時代には「熱河省」が置かれたこともある。その範囲は少しずつ変っているが、後述の第一次満蒙学術調査研究團報告第一部(1933)にある地図では、南側を万里の長城に、山海関付近から東を海岸線と20~30キロ離れて平行する線で区切られ、そこから内陸側にほぼ200キロほどの六角形の範囲を熱河省としている。これに含まれる都市としては、現在河北省に含まれる承徳や同じく遼寧省の朝陽・北票・赤峰等が含まれる。なお、1934年12月に満洲国はそれまでの4省を11省に改めた。これにともない、熱河省のうち、東にある義県・錦州・朝陽・北票付近は錦州省として扱われることになる。熱河の名称は承徳の川が熱かったことから起こったと言われる。承徳にあるかつての皇帝の夏の離宮は現在公園として公開されていて、そこの庭園には現在涸れているが温泉のわき出たところがあり、熱河の名を彫り込んだ石碑が建っているという記事もあった。後にこの石碑を見ることができた。
 熱河動物群の研究はかつての日本にもかかわりがある。大陸に進出を図るため、満洲帝国を強引につくりあげた日本は、そこを利用するために資源を調査しようと多くの科学者を派遣してこの地域の調査報告書を作り上げた。これが「第一次満蒙学術調査研究團報告」(以下では報告書と略記する)である。報告書は25冊3,937ページにわたる大きなもので、第一部 総説、第二部 地質学、第三部 地理学、第四部 植物学、第五部 動物学、第六部 人類学 と分けられて1933年から1940年にかけて出版された。もちろん日本が利用するためだから日本語での記述である。


12 第一次満蒙学術調査研究團報告の一部
12 Two books of the “Report of the first scientific expedition to Manchoukuo”.

 団長の徳永重康早稲田大学教授は、出版の最後の部分の校正のころに急逝されたが、哺乳類化石の研究の重鎮であり、報告書の中にも明石原人の発見者・直良信夫氏と共著の「顧郷屯発掘」に関する二編の論文が見られる。報告書の中で熱河生物群の化石に関する論文は4編ある。なおカタカナ(たった2字だが)をひらがなにした。また一部の旧字を新字に変えた。また「ざりがに」は原文では漢字であるが変換で出ないのでひらがなにしてある。
第二部 地質学 第二編 上野益三 熱河省産昆蟲幼蟲化石 8頁+3図版 1935
第二部 地質学 第三編 斎藤和夫 熱河及び間島中生層レプトレピス科魚類化石 23頁+5図版 1936
第二部 地質学 第四編 松澤 勲 満洲國北票炭田産植物化石と其地質学上の時代 15頁+7図版 1939
第二部 地質学 第四編 坂倉勝彦 熱河中生層ざりがに化石, Astacus licenti VAN STRAELEN 5頁+1図版 1939


13 第一次満蒙学術調査研究團報告にある承徳付近の地質図
13 A geological map around Chengde City in the Report.

 最初のものは、カゲロウの幼虫に関するものである。二つ目のものは、淡水魚類に関するものであるが、間島というのはずっと東方の現ロシア・北朝鮮との国境に近いところの地名である。三番目はネオカラミテスやクラドフレビスなどの中生代型の植物群に関する論文、最後のものはハサミの小さいザリガニで、今回の巡検でこれらに関連するものをすべて現場で見ることができた。私のいた博物館には、執筆者の一人の朝日奈正二郎先生から寄贈いただいたこの満蒙報告書がそろっている。内容はこの地域に関するものがほとんどだが、そのような限定はなく、なんと現在の北九州市内のオオカミ化石についての部分があって驚かされる。
斎藤 弘(1939) 満州顧郷屯発掘ノ犬科化石竝ニ日本ニ発見セル犬科化石ニ就テ. 第一次満蒙学術調査研究團報告書, Part 2, No. 4: 1-18, pl. 1.