OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

2023年12月のカレンダー

2023年11月29日 | 今日このごろ

12月 Basilosaurus cetoides (Owen)
文献:Kellogg, Remington 1936. A Review of the Archaeoceti. 366pp., 37pls.
 Kelloggの大作は図版だけで37あり、その標本もすばらしいが、本文中にあるFigureは、スクライブ技法の技術が高く、しかも全部で88図もある。ここに示したFig. 10(39ページ)は、Basilosaurus cetoidesのほぼ完全に揃った頸椎と第一胸椎の左側面図で、微妙な凹凸がかなり少ない線で表現されている。標本番号はNo. 4675で、Alabama州Melvinの2マイル南西の地点で発見されたもの。こういうデータもしっかりと記載されている。この種類の標本として記載されているのは17の標本。もちろん一つの標本というのは一個の骨ではなく、一か所の標本のセットのことを言う。このNo. 4675の場合には、「24個の連続した脊椎骨(第一頸椎から第二胴椎)で、これらの7個の頸椎、15個の胸椎、それに第一胴椎は U. S. National Museumの組み立て骨格に使われた。」とし、さらに、「以下の骨が同一個体のものらしいので組み立て骨格に用いられた。13個の肋骨(完全なものもある)、4個の胸骨、左右の肩甲骨、左の上腕骨(肩側の3分の1は失われている)、左の尺骨・橈骨、・・・」以下に頭骨の破片や歯も含まれている。このような書き方で、大変詳しく記述されている。このように上の図の第一頸椎から第一胸椎までは同一個体。現生の鯨類と比較して大きく違うのは、この間に脊椎の列が背腹方向にS字型にカーブしていること。

12-1  Kellogg, 1936. Plate 1. (一部)Basilosaurus cetoides 復元骨格

 図のように、この動物は頭を持ち上げていたのだ。この点で、脊柱の延長方向にまっすぐになっている現生の鯨類とは違う。ついでに違いを挙げておくと、それぞれの頸椎が前後に短くなることと、しばしば幾つかの頸椎が癒合してその間の可動性を減らす傾向が著しい。鯨の首の回旋は、ほとんど頭骨と第1頸椎の間だけで起こっている。
 現生の鯨類の頸椎の癒合のタイプを見ると、まずヒゲクジラのホッキョククジラとセミクジラ・ミナミセミクジラでは7つの強く短縮した頸椎が癒合してひとかたまり。

12-2 van Beneden et Gervais, 1868-1879. Planches 4, 5 (一部)ホッキョククジラ Balaena mysticetus 7個が癒合した頸椎 左上から 右側面 頭側 尾側 背側 腹側

ところが、それ以外のヒゲクジラ類(コククジラとナガスクジラ科各種)では短縮はしているが癒合が見られない。

12-3 van Beneden et Gervais, 1868-1879 Planche 14. (一部) “Balaenoptera schlegerii” 癒合していない頸椎 左から第7頸椎から第1頸椎までと 組み合わせた頸椎の右側面

 図の頸椎は、原文ではBalaenoptera schlegerii となっている。この種類はイワシクジラに相当する。当時のイワシクジラは、のちにニタリクジラ・カツオクジラを分割し、数種類にあたるが、そのうちどれにあたるのかは、判定できなかった。
 ハクジラのマッコウクジラでは第一頸椎だけが遊離していて、第2から7までが一つに癒合する。このタイプはマッコウクジラだけに見られる。

12-4 van Beneden et Gervais, 1868-1879. Planche 18. (一部) マッコウクジラPhyseter macrocephalus 第1頸椎と癒合した第2から第7頸椎 左上から 斜め尾側 頭側 尾側 右側面

 近縁のコマッコウでは7個全部が癒合する。
 マイルカ科やネズミイルカ科の各種では前方の幾つかの頸椎が癒合するが、その数はマイルカ科では第1頸椎と第2頸椎だけ。

12-5 van Beneden et Gervais, 1868-1879. Planche 40. (一部) マイルカDelphinus delphis 左から第7頸椎から第3頸椎右側面 癒合した第2・第1頸椎右側面 第1頸椎頭側

 これに対して、ネズミイルカ科ではスナメリで前から第3ないし第5まで、他ではもう少し後ろまで癒合し、リクゼンイルカに至っては7個全部が癒合する。
 ハクジラ類の中で原始的と言われるカワイルカ類では癒合が起こっていない。

12-6 van Beneden et Gervais, 1868-1879. Planche 32. (一部) アマゾンカワイルカInia geoffrensis 左から第7頸椎から第1頸椎右側面 第2頸椎頭側 第一頸椎頭側 第1頸椎背側

 アカボウクジラ類は多様。前方の幾つかが癒合する種類が多い。

12-7 van Beneden et Gervais, 1868-1879, 1868-1879. Planche 23b. (一部) ツチクジラBerardius bairdi 左から第3頸椎尾側 第1頸椎頭側 第3から第1頸椎右側面 右列上から 癒合した第1から第3頸椎背側 第4から第7頸椎背側

 このように、クジラ類の頸椎の癒合はほとんどの科であらわれるものの形式は多様で進化系統との間にはっきりとした派生の関係がない。分岐分類学的に大変におもしろいテーマになりそう。
 頸椎の癒合に関するデータは西脇昌治, 1965「鯨類・鰭脚類」東京大学出版会 から拾い出した。また、頸椎の図は下記の古い論文を参照した。どちらも分類が古いから、現在使われている学名を探したが、チェックが不十分で誤りがある可能性がある。また、癒合の進化に関しては化石のデータが少ないので議論が進まない。
参考文献:van Beneden, Pierre Joseph et Paul Gervais, 1868-1879. Ostéographie des Cétacés vivants et Fossiles, comprenant la description et l’Iconographie du Squelette et du Système dentaire de ces animaux. Atlas. Planche 1-64. Arthus Bertrand, Libraire-éditeur, Paris. (現生および化石鯨類の骨学. クジラ類の骨格と歯列の解説と図像)

私の旅行データ 27 夜行列車

2023年11月25日 | 旅行

 残念ながら夜行列車の乗車記録は、完全ではない。1973年3月に上野から仙台まで乗った「あづま2号」が、夜行列車として42番目という記録で、それ以前のデータは記憶に基づいて復元したが、41回のうち10回の日時や列車名がわからない。
 記録のある最初の夜行列車は中学校の修学旅行で、名古屋から小田原までの時と思われるが、列車名は不明。「東海」あたりかと思われる。
 記録が不完全な41回目まで31回の夜行は、すべて長距離を安く移動するための夜行乗車である。約20年間に乗ったところは、1 東京〜東北地方10回 2 山陽本線関連6回 3 北海道内5回 4 東海道本線 3回 4 九州内3回 他7回(京都から北陸本線・名古屋から中央本線.九州内 各2回と広島から山陰連絡1回)。
 夜行列車に乗った時の写真は殆どない。フィルムの感度が低かったから夜間に写真を撮るという発想がなかったから。それでも幾つか関連する写真が残っている。

旅42 盛岡駅 1967.7.20

 上野駅から急行「十和田2号」に乗って、盛岡駅に着いたところ。向こうのホームにブルートレインの「ゆうづる」が停車している。1966年6月の時刻表がネットにあったが、それによると下り「ゆうづる」は545盛岡着、553同発となっている。上りは真っ暗な0時台なので対応しない。下り「十和田2号」は、540着558発となっているから、盛岡で「ゆうづる」に抜かれる。「ゆうづる」の最後尾が見えているとすると、こちらのプラットホームにいる蒸気機関車は、南を向いていることになるから、東北本線の上り列車(または山田線の到着列車)ということか。すれ違いが合わないので、ちょっと変だが。もしかすると「ゆうづる」はここで機関車を付け替えているところで、先頭側がみえているのだろうか。

旅43 広島駅 1970.9.18

 呉線の蒸気機関車の撮影に行った時の写真。夜行急行上り「安芸」の広島出発の写真。これを見送ったあと、芸備線・木次線経由で山陰線に入る夜行急行「ちどり」に乗車した。

旅44 肥薩線一勝地駅 1971.4.1

 博多から肥薩線まわりの夜行1121列車に乗車した。一勝地駅で早朝834列車とすれ違う時の写真。目をさまして、すれ違う列車に気づいてあわてて撮影した。蒸気機関車は二輌で牽いている。
 ここまでが、記録の不完全な期間。その後、1986年まで21回夜行列車を利用した。東北方面での利用が多く、7回。北海道内で4回だが、この夜行列車とは別に青函連絡船で3回の夜行を利用している。また京都から北陸本線方面にも「立山」を4回使った。これは岐阜県の福地温泉に向かうのに使ったものが多い。福地に向かうのには、その他に名古屋から高山までの夜行「のりくら」を2回使っている。残り4回は長野から名古屋への「きそ3号」と高松から窪川への731D列車、名古屋から東京への「出雲2号」と東京から小倉への「あさかぜ1号」である。この期間の夜行列車に関係する写真は全くない。その理由は出張での乗車なので大変忙しかったからだろう。ずっと以前のこのブログの「私の使った切符」シリーズにいくつかの夜行急行の切符がある。その時掲載しなかったが、東京から小倉に帰ってくる時の「あさかぜ1号」の切符がある。

旅45 東京から小倉 B寝台 寝台指定券 1986.10.18

 この時にどんな仕事で出張したのか、記録がない。前日17日に小倉駅で「東京往復割引きっぷ」を購入し、同時に帰路の「あさかぜ」の寝台券を入手している。この列車の東京発は1845だから、17日に新幹線で東京に行って一泊し、東京で朝からの会議?にでて午後終了して東京駅に駆けつけて寝台列車に乗ったことになる。この買い方なら、個人的な趣味で行ったのではない。小倉着は翌日の10時直前で、そのまま仕事に出たのだろうか。
 このころブルートレインに乗車した記録としては、名古屋から東京まで寝台特急「出雲2号」に乗車したという記録がある。他に「富士」の切符が残っている。

旅46 大分から行橋 特急券 1987.9.11

 ただし、これは寝台使用部分ではなく昼間の乗車で、大分発が1706。行橋着は1809で、普通列車に乗り換えて安部山公園駅の近くにあった自宅に戻った。この時の仕事も記録がないが、大分駅で特急券を購入する時に、通常の(当時はL特急だったか?)と、「富士」が近い時刻で運転していたので、話の種にこれを選んだという記憶はある。
 1986年に「あさかぜ1号」で寝台車に乗ったあと、夜行列車には20年以上乗っていなかった。新幹線が整備されたこと、阪神大震災をきっかけとして、出張で空路を使うのが普通になったこと、それに体力的なことを考えると、車中泊のメリットがあまりなくなったから。
 2010年と2014年に、「北斗星」に乗ったのは、趣味のためであった。2010年には下り、2014年には上りの北斗星の旅行を楽しんだ。2010年12月に乗車した記録は、このブログの記念すべき最初の記事で、2011年3月4日から5日にかけて掲載した。2014年の記録も、同年12月9日から数回にわたって掲載した。このときには奮発して食堂車「グラン・シャリオ」でのディナーをいただいた。

旅47 「北斗星」グラン・シャリオのプレート 2014.12.5

旅48 「北斗星」ディナーのメインディッシュ 2014.12.5

古い本 その157 古典的論文補遺 その8

2023年11月21日 | 化石

Iguanodonのタイプ変更
 Iguanodonに関する記事は、「古い本 その92(古典的恐竜3)1825年(2022年3月29日掲載)にある。ここで、まとめとして、この属の模式種をIguanodon angulicus Holl, 1843とした。このブログでは調査が行き届かなかった。のちにベルギーのBernissartで完全な骨格がいくつも発見されたことから、ベルギーの種類 I. bernissrtensis が模式種に変更されていた。そのことは国際動物命名委員会の次の文で公告された。
⚪︎ ICZN 2000. Opinion 1947 Iguanodon Mantell, 1825 (Reptilia, Ornithischia): Iguanodon bernissartensis Boulenger in Beneden, 1881 designated as the type species, and a lectotype designated. The Bulletin of Zoological Nomenclature, Vol.57: 61-62.(Iguanodon Mantell, 1825(爬虫類・鳥脚類)についてIguanodon bernissartensis Boulenger in Beneden, 1881を模式種に指定、及び後模式標本の指定)
 そこに以下のIguanodon bernissartensis の原記載が引用されている。
⚫︎︎ Boulenger in Beneden, 1881, Bulletin de l’Academie Royale des Sciences, des Lettres el des Beaux-Arts de Belgique. Classe des Sciences. (3)1(5): 606. =ICNZの引用のまま。このブログの引用形式に直すと次のようになる。
⚪︎ Boulenger, George Albert 1881. [in Beneden] Sur l’arc pelvian chez les Dinosaurien de Bernissart; [par G. –A. Boulenger.] Bulletin de l’Academie Royale des Sciences, des Lettres el des Beaux-Arts de Belgique. Classe des Sciences. Série 3, Tome 1, No. 5: 600-608. (Bernissart の恐竜の腰帯について)
 いろいろと、命名のルールに関わることがある。まず、この論文は、van Beneden がBoulengerの意見を紹介する、という形式をとっている。この場合の命名者は規約ではその意見を表明した人として、Boulenger になりそう。日本でも化石脊椎動物の種類で、私信で記された新種を手紙の差出人の命名としている例もある。差出人が発表に同意したのかとか、気になることも多い。第一、BenedenはBoulengerの手記を紹介しておきながら、いくつか理由を挙げて「掲載に値しない」とまで言っているのだ(それなのに紹介はしている)。上記のICZNのこれに関する論文ではBoulenger in Beneden, 1881という形で記しているが、このブログでは、Boulengerの著作として扱った。
 George Albert Boulenger (1858-1937) はベルギー生まれ、イギリスで活躍した動物学者。2,000種以上の新種(主に魚類・両生類・爬虫類)を記載したという。
 対象となった標本は1878年にベルニサールの炭鉱で発見されたもので、後で述べるように翌年から詳しい記載がされる。Boulengerの論文は骨盤に限ったものである。文中次のように記されている。「(ベルニサールの)Iguanodonではその仙椎は6個からなる。一方大英博物館のものは5個からなる。.... 個体差をも考慮して、Boulenger 氏はベルニサールの種類を未知のものと考え、Iguanodon bernissartensis という名を追加した。」なお、この論文は図版を伴わない。Owenのモノグラフを探してみると次の図がある。

589 Owen 1854. Monograph Issue 27, Tab. 3. Iguanodon 仙椎腹面

 この標本がBoulengerの比較したものかどうかは分からないが、5個の仙椎が癒合している。前後両側の状態が今ひとつ明瞭ではないが。OwenはIguanodon 属のものとしている。標本の産出地は有名なイギリス南岸のWight島で、Sauli 氏の博物館所蔵。
 ベルニサールの完全骨格の研究はDollo が行った。彼はIguanodonに関して多数の論文があるというが、一番重要なのは1882年から1883年にかけて公表した4つの論文だろう。それらが次のもの。
⚪︎ Dollo, Louis Antoine Marie 1882a. Premiére Note sur les Dinosauriens de Bernissart. Bulletin du Musée Royal d’Histoire Naturelle Bergique.Tome 1: 161-178, Planche 9.
⚪︎ Dollo, Louis Antoine Marie 1882b. Deuxiéme Note sur les Dinosauriens de Bernissart. Bulletin du Musée Royal d’Histoire Naturelle Bergique.Tome 1: 205-211, Planche 12.
⚪︎ Dollo, Louis Antoine Marie 1883a. Troisième Note sur les Dinosauriens de Bernissart. Bulletin du Musée Royal d’Histoire Naturelle Bergique. Tome 2: 85-120, Planche 3-5. 
⚪︎ Dollo, Louis Antoine Marie 1883b. Quatrième Note sur les Dinosauriens de Bernissart. Bulletin du Musée Royal d’Histoire Naturelle Bergique. Tome 2: 223-248, Planche 9. (Bernissartの恐竜に関する第1から第4のノート)
 これらにはそれぞれ図版があるが、合計で6図版と数少なく、文中図はない。文章もそれほど長くはない。いちばん有名な図が、全身の「カンガルー型」復元図である次のもの。

590 Dollo 1883a, Planche 5. Iguanodon bernissartensis. スケールは書き直した。

 他にも、頭骨のスケッチは美しい。

591  Dollo 1883b, Planche 9(一部).  上Iguanodon bernissartensis 頭骨左側面. 下 同左下顎舌側 一部を取り出して並べ直した。

 この論文には仙椎の図は含まれない。しかし、Dolloは、彼はそれまでに発表された幾つかの種類のIguanodonを3種類にまとめた。仙椎が4個の脊椎からなるIguanodon Prestwichii、 5個の仙椎を持つIguanodon Mantelli、それに6個の脊椎を持つIguanodon Bernissartensis である。つまりこの論文の分類はすぐ前の年のBoulengerの骨盤の研究にかなりの重要性を認めて頼っている。それなら、Boulengerの書いた図(Benedenにより、出版物に採用されなかった)などそこに関する図がありそうなものだ。Dolloの多くの論文のどこかに仙椎のスケッチがある可能性があるが、探せなかった。

私の旅行データ 26 アメリカの空港

2023年11月17日 | 旅行

 あまり外国旅行をしていないので、残るのはアメリカとカナダである。ロスアンジェルス空港はいい写真がない。

旅34 ロスアンジェルス空港に隣接したホテルから 1991.7.10

 写真は帰途につく日の朝撮ったもの。アメリカに到着したのもここで、空港内で随分待ってソルトレイクに飛んだ。

旅35 ソルトレイク空港

 ソルトレイクでまた時間を潰して、モンタナ州のビリングスという小さな空港へ向かった。

旅36 ビリングスへ 1991.7.3

 この時乗った飛行機が現在までで一番小さな機体だった。座席は3列しかなく、左端の一人席に座った。

旅37 ソルトレイク付近 1991.7.3

 離陸するとすぐに日が暮れた。左の水面は塩湖である。ビリングスに着いたのは真夜中。車でお迎えが来て、恐竜発掘地に向かった。
 二度目のアメリカは、関西空港から出発。

旅38 関西国際空港のエア・カナダ機 2002.3.9

 最初に降りたのはカナダのバンクーバー空港だったが、ここでアメリカに入国する形をとり、空港内のアメリカ国内扱いの狭い区画で数時間過ごした。そのあと国内線扱いでシアトル・タコマ空港へ。9.11のテロの半年後だったから、空港での検査がきびしかった。カメラはレンズを外して中を見られ、CDプレーヤーは「ここで音楽を流してみせよ」と言われた。それに出張そのものが計画よりも遅れて、年度末ギリギリの予算執行となった。

旅39 バンクーバー空港 2002.3.9

 日付変更線を越えたので、同じ日付だ。双発機で胴体の上の位置に翼があるという飛行機。

旅40 バンクーバー市街 2002.3.9

 帰途も同じルートだったが、バンクーバーで外に出て一泊した。

旅41 シアトル・タコマ空港 2002.3.16

 帰りのバンクーバーへの飛行機は違う種類の機体だった。

 航空機利用の距離は、当然国際線の長いものが多い。これまでの積算距離は、約21.8万km。国鉄・JRの乗車距離(通勤を除く)42.3万kmのちょうど半分ぐらい。なお、私鉄・第三セクターの総乗車距離は約2万kmとずっと短い(積算漏れが多いが)。バス乗車距離・乗船距離は計算していない。
 次回は夜行列車やナイトフライトについて記す。

古い本 その156 古典的論文補遺 その7

2023年11月13日 | 化石

 Owen 1881の文中で、ひとつ気になることがある。文頭の83ページの見出しにIchthyosaurus属の提唱者としてKönigをあげていることである。このブログの「その133」では、Ichthyosaurus属の命名はDe la Beche and Conybeare, 1821とした。それ以前に大英博物館展示解説書(1818年。この著者がKönigである。)にその名前が出てくるが、記載を伴わないのと、正式な刊行物ではないと判定した。Owen 1881の提唱者に記号が付してあって、それに対応する脚注には「Icones Fossilium Sectiles, fol., pl. xix, fig. 250.」と書いてある。その文献が次のもの。
⚪︎ König, Charles Dietrich Eberhard 1820-1825. Icones fossilium sectiles. 1-4, plates 1-19. (化石の画像)
 ついに出ました!!ラテン語論文。「古典的恐竜」の最初から引用してきた古い論文は、英語・ドイツ語・フランス語がほとんどで、他に中国語1件(ただし未入手)、ロシア語2件(どちらも英語翻訳が出版されていて、それを見た)、それに南米の恐竜記載が英語とスペイン語の併記だった。発行年月日に幅があるのは,はっきりと記入がないため。命名規約の先取に関してはこのような時は最後の年が命名年とみなされる。この論文は、19枚の画像に250の化石スケッチが系統的でなく並んでいるもの。スケッチははっきり言って稚拙。Fig. 250というのはその最後の一枚である。解説が4ページのテキストとして添えられているのだが、なぜか100番までしかない。それより後は図版の下に番号と種名が列記してあるだけ。「250. Ichthyosaurus latifrons.」と書いてある。

586 König 1825, Plate 19. Fig. 250(橙の線の左)

 図は上から4個の連続した脊椎骨の側面、脊椎骨の前後面、それにかなり揃った脊椎骨列と頭骨である。大英博物館図録でKönigが扱った完全な頭骨ではない。Ichthyosaurus latifrons を調べると、Owenが1840年に記載したというGoogle関連の資料が出てくる。その文献は前に出てきたもので、Owenの著作の中でもかなり古いもののひとつ。
⚪︎ Owen, Richard 1840. Report on British Fossil Reptiles. Report of the Ninth Meeting of the British Association for the Advancement of Science, Reports on the Researches in Science: 43-126. (英国の化石爬虫類の報告)
 その126ページにIchthyosaurus latifrons がリストアップされている。その命名者はKœnigとなっている。従って、1840年命名という資料は誤り。どうやらI. latifronsの命名がKönigのラテン語図録のようだ。それには記載もないし命名の体裁は整っていない。FossilworksではLeptopterygius latifrons (属をのちに移動)を1825年のKönigの命名としている。
 Königの示した標本のスケッチには産地などのデータがない。この標本の頭骨がQwen 1881に掲載されている。

587 Ichthyosaurus latifrons 頭骨. Owen 1881, Plate. 27.

 頭骨だけをKönig 1825と並べてみよう。

588 左:König 1825、右:Owen 1881

 Owenは「Königの標本を示す」とし,「標本はLyme Regisから得られたとされる。」としてかなり詳しい形態の記載をしている。

 なお、当時イギリスの中生代の地層の呼称は、おおざっぱに言って古い方からRaetic(三畳紀後期)・Liassic(ジュラ紀前期)・Great Oolite(またはStonefield:ジュラ紀中期)・Kimmeridgian(ジュラ紀後期)・Purbeck(ジュラ紀後期)・Wealden(白亜紀前期)・Gault(白亜紀前期)・Transylvanian(白亜紀後期)である。Owenの著作はこの時代区分に従って書かれている。カッコ内は現在使われている地質時代名であるが、当時時代名が確立していたのではない。他の用語も含めていくつか現在のものと異なる用法がある。例えば「cretaceous」が小文字の場合には時代を言っているのではなく、岩質を言っているかもしれない。また、イギリスから見た外国の地層名にこれらの名称が出てくる時には、対比が正確ではなく、岩層が似ている場合に名前を転用しているかもしれない。原典に書いてある地層名から時代を機械的に記してきたので、近年の再区分や変更で時代が異なるものがあることはお許しいただきたい。地層の対比について基礎を作ったSmithの「Map of Strata」が発行されたのは1815年である。「化石による地層対比」を用いて書かれた地質図であるが、当初の社会は当初これを土木・農業の情報ととらえ、地質学界では重要視していなかったと言われている。おもしろいことに彼の採集したIguanodonの化石骨は、のちに最も古い採集記録であると推定されている。

 Owenのモノグラフの特徴は、出てきた標本を丁寧に分類。列記したものであること。標本は豊富だがかなり部分的な(そのために分かりにくい)化石も提示している。多数の図があって、興味が尽きないがこのあたりで、次の話題に移る。