OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

2023年7月のカレンダー

2023年06月29日 | 今日このごろ


7月 Prozeuglodon atrox Andrews (原鯨類)
文献:Andrews, Charles William 1906. A desctiptive catalogue of the Tertiary Vertebrata of the Fayûm, Egypt. pp. 1-323, plates 1-26. British Museum (Natural History). (エジプト、Fayûmの第三紀脊椎動物の記載カタログ)
 Andrewsは、この論文で新属・新種としてProzeuglodon atroxを提示した。それに先立ってAndrews は下記の論文でZeuglodon isis を提示した。
参考文献 Andrews, Charles William 1904. Further Notes on the Mammals of the Eocene of Egypt. Part III, The Geological Magazine, or, Monthly Journal of Geology. New ser. 5, vol. 1, No. 5: 211-215. (エジプトの始新統の哺乳類に関する更なる記録)
 この論文は、いくつか種類のFayûmの哺乳類を報告するもので、1906年の論文の一部を先出しにしたもの。Pterodon (肉歯目) の新種、Geniohyus, Megalohyrax, Saghatherium(いずれもハイラックス類)の新種とともに、「Zeuglodon isis, Beadnell MS」というのが書かれている。「まもなく出版されるBeadnell氏の地質に関する論文にその名が出てくる」という。現代の命名規約ではこういう予告のような命名は認められない。その論文はたぶん下記のもので、確かに翌年発行されている。
参考文献 Beadnell, Hugh John Llewellyn 1905. The Topography and Geology of the Fayûm Province of Egypt. Survey Department Cairo, pp. 1-101, pls. 24.(エジプト、Fayûm地域の地形と地質)
 この論文は地質・地形(というより古地理)に関するもので、古生物に関する記載はほとんどない。Birket el Qarum 層に関する記事の中で44ページ・47ページにZeuglodon Osiris, Z. Isis, さらにZ. Zitteliの産出が記されているだけで、その区別については大きさの違いがあることだけしか記されていない。もちろん化石の図はないが、発掘地の地図がある。

Beadnell 1905. Plate 18. 発掘地付近の地質図。スケールはkm。

 白:始新世 黄色:漸新世 薄黄色:第四紀の段丘堆積物、「bone pit」(骨の発掘地)の記入がある。この場所はカイロの南西80km付近にある。ここをGoogle Earthの衛星写真で見ると、ほとんど砂漠で何もないところ。始新世の地層の上にある段丘堆積物のところがわずかに明るい色になっているのと、左上にある漸新世の地層との境目の崖が判読できる。Google Mapでは発掘地を通って崖と平行な直線で、左上(西北)のギザ地区と右下のファユム地区の境界線が走る。
 Andews 1906 に戻る。243ページにProzeuglodon (新属)の記述が始まる。属の話が長くて、種Prozeuglodon atrox (新種)が出てくるのは254ページ。「現在この一種だけが知られる。」としてあるから、もちろん模式種である。


Andrews 1906. p. 244, Text-Fig, 80. Prozeuglodon atrox頭蓋スケッチ 全長 60cm

 ややこしいことに、Kellogg 1936はProzeuglodon属はみとめたが、それに属する種はP. isisだけとし、P. atrox はそのシノニムとした。従って、現在使われる学名は、Prozeuglodon isis (Andrews, 1904)となる。
 Andrews, Charles William (1866-1924) はイギリス、大英博物館(自然史)の学芸員を務めた古生物学者。モンゴルの恐竜などの探検をしたアメリカの探検家・博物学者Roy Chapman Andrews(インディー・ジョーンズのモデルと言われる)とは別人。またHugh John Llewellyn Beadnell(1874-1944)はイギリスの探検家・地理学者・地質学者。
 このころのArchaeocetiの研究史の中で、やや特異な先駆者の業績がある。下記のもの。
参考文献 Smith, G. Elliot 1902. The Brain of the Archaeoceti. Proceedings of the Royal Society of London. Vol. 71: 322-331. (Archaeocetiの脳)
 この論文はFayûmで発見された鯨類の頭骨の化石(標本は2個)に注目して、その脳函から脳の外形を調べたもの。化石の保存や剖出の不完全なことに言及して、分類については控えめな意見しか述べていないが、絶滅動物の脳の形態から機能の解釈に進もうとした点で非常に先進的な内容となっている。

Smith 1902. p. 324. Fig. 1. (左) p. 325. Fig. 2.(右)脳の人工キャストの背面観。文字は大きく書き直した
略号 op: olfactory peduncles (嗅柄). fs: fragments of skull. (頭骨破片) ch: cerebral hemisphere (大脳半球). c. cerebellum (小脳). dr: dorsal rostrum(背側突起). ib: irregular boss on the cerebral hemisphere(大脳半球の異常な膨らみ).

 これは、このころに脳の外形について現生哺乳類の観察結果を記した論文が多く報告されたのが良い材料になった。化石鯨についてはこういった研究は稀で、南極半島のLlanocetusの産出報告でMitchell (1989)が報告したのが数少ない例のひとつであろう。
 Sir Grafton Elliot Smith (1871−1937)は、オーストラリア生まれ・国籍で、イギリスとオーストラリアで研究を行った解剖学者。エジプトのミイラの脳についての研究が有名。

古い本 その145 古典的論文 モササウルス類 5

2023年06月25日 | 化石

 Arambourg, 1952に出てくるるモササウルス類の4種類目はGlobidens aegyptiacusで、これまでとはまったく違う丸くて低い歯冠を持っているからすぐにわかる。Globidensの命名は1912年で、本シリーズ(1924年までのモササウルス類属)の最後で扱う。モロッコのモササウルス類の化石は、たくさん販売されているから、入手できるが、種類を決めるのは難しい。

539 モロッコ産 Mosasaurus の歯 購入

 Arambourgの分類は古いのであてにならない。最近の産出リストは下記の文献にあるようだが、まだ読んでいない。
⚪︎ Bardet, Natalie, Alexandra Houssaye, Peggy Vincent, Xabier Pereda Suberbiola Mbarek Amaghzaz, Essaid Jourani and Saïd Maslouh, 2015. Mosasaurids (Squamata) from the Maastrichtian Phaophates of Morocco: Biodiversity, palaeobiogeography and palaeoecology based on tooth morphologuilds. Gondwana Research, vol. 37. No. 3: 1068-1078. (モロッコのMaastrichtian燐酸堆積物からのモササウルス類(有隣目):歯の形態学に基づいた多様性・古生物地理・古生態)(未入手)

 Arambourg. 1952に言及したために、年代順から外れてかなり混乱してしまった。年代順(1870年ごろ)に戻って、次の属はTylosaurus、命名した論文は次のもの。
⚪︎ Marsh, Othniel Charles, 1872. Note on Rhinosaurus. The American Journal of Science and Arts, Ser. 3, vol. 4, no. 20: 147.(Rhinosaurusについてのノート)
 たった6行の論文で、内容は「Rhinosaurusは先取されていたので、Tylosaurusで置き換える。」というもの。ただし、すでに「Copeによって暗示されていたRhamphosaurusという名称への置き換えは保持されない」という追記があるが、Rhamphosaurusは、現在Tylosaurusと同名とされている。Copeは、下記の論文で、Marshの研究を何項目も批判したが、その中の一つがRhinosaurusRamphosaurusの名称が先取されていること。ただし、Ramphosaurus属は新しく立てるほどのものではないと考えていたようである。
⚪︎ Cope, Edward Drinker, 1872. Remarks on Discoveries recently made by Prof. O. C. Marsh. Proceedings of the Academy of Natural Sciences of Philadelphia. vol. 24: 140-141.(Marsh教授の最近の発見についての指摘)
 だから代替名を書かなかったしMarshが「暗示した」とするのも分かる。Marshが提示したRhinosaurusの新属、R. micromusの新種提示の論文は次のもの。
⚪︎ Marsh, Othniel Charles, 1872. On the Structure of the Skull and Limbs in Mosasauroid Reptile, with descriptions of new Genera and Species. American Journal of Science and Arts, Ser. 3, vol. 4, no. 18: 448—464, Plates 10-13.(モササウルス類の頭蓋と四肢骨の構造について、付・いくつかの新属・新種)
 標題のように、前半はモササウルス類の構造を論じている。ここで調べたのは454ページからの新属・新種の記載で、次の種類が出てくる。
Lestosaurus, gen. nov.   4種の新種
Rhinosaurus, gen. nov.
R. micromus, sp. nov. near Smoky Hill River, Western Kansas
Elasmosaurus, Marsh  1種の新種
 4枚の図版があるが、Rhinosaurusに関する図は1枚だけ。

540 Marsh, 1872 Rhinosaurus の腰帯(左上の3方向に伸びる骨)・大腿骨(右下)・上顎の先端(中央)。右上と左下の骨はLestosaurus

 まとめておこう。
Tylosaurus Marsh, 1872. (旧名Rhinosaurus Marsh, 1872)模式種:Tylosaurus micromus (Marsh, 1872) = Rhinosaurus micromus Marsh, 1872
産出地:Smoky Hill River付近 Kansas州西部 白亜紀後期

 次の属はTaniwhasaurusである。論文は他にない地域のもの。
⚪︎ Hector, James. 1874. On the fossil Reptilia of New Zealand. Transactions and Proceedings of the New Zealand Institute, vol. 6: 333-358, 363-364, plates 27-31.(ニュージーランドの化石爬虫類について)
 標題の通りこの国の化石爬虫類をまとめたもの。全部で次の13種類について記録している。
Plasiosaurids
1. Plesiosaurus australis (Owen) 原典Pl. australis Owen, 1861. 現在Cimoliasaurus anstralis (Owen)
2. Pl. crassicostatus (Owen) 原典Pl. crassicostatus Owen, 1870. 現在 疑問種
3. Pl. hoodii (Owen) 原典Pl. hoodii Owen, 1870. 現在Cimoliasaurus hoodii (Owen)
4. Pl. holmesii, n. sp. 現在Gronausaurus holmesii (Hecter)
5. Pl. traversii, n. sp. 現在 no data
6. Pl. mackeyii, n. sp.
7. Polycotylus tenuis, n. sp. Polycotylus属 Cope, 1869現在Cimoliasaurus tenuis (Hecter)
8. Mauisaurus haastii, n. sp. n. gen. 疑問属
9. M. brachiolatus, n. sp.  疑問属
Mosasaurids
10. Liodon Haumuriensis, n. sp. 現在 Tylosaurus haumuriensis (Hecyer)
11. Taniwhasaurus oweni, n. sp. 現在 Taniwhasaurus oweni Hecter
Others
12. Crocodilus ?
13. Ichthyosaurus australis, n. sp. 現在 Platypterygius anstralis (Hecter)
 この表は、Hecterの種名表の後に、私が現在の取り扱いを記したもの。James Hecter(1834−1907)は、イギリス生まれの地質学者で、長い期間ニュージーランドで活躍した。

541 Hecter, 1874. Plate 29. Mauisaurus Haastii Hecter

私の旅行データ 14 空白域 M

2023年06月23日 | 旅行

 やっと関東地方に入る。

20km-29 甲武信ヶ岳
凡例:緑:10km 黄色:20km 青線 私の旅行経路 青字のPは写真撮影の場所。
地名 大文字:町・集落 Ka軽井沢 Yo横川 Sn下仁田 Ku小海 Ch秩父 Ok奥多摩 Ko甲府
小文字:行政区 [群馬県]  sn下仁田町 nm南牧村 ue上野村 [埼玉県] ch秩父市 [東京都] ok奥多摩町 hi檜原村 [長野県] sa佐久市 sh佐久穂町 ka北相木村 ma南相木村 kk川上村  [山梨県]  ho北杜市 kai甲斐市 ko甲府市 ya山梨市 ks甲州市 tb丹波山村 kg小菅村 ot大月市 un上野原市

 5都県にまたがる広大な空白域。北縁は北陸新幹線(2015年4月乗車)と信越本線(2000年6月、その南の経路は、群馬県の恐竜化石産出地を訪ねた時(2015年4月:車で送っていただいた)。さらに秩父鉄道に乗車(1984年4月、他)、東京に出かけて宿泊した奥多摩など。南側は中央本線(1974年9月)。西側は小海線(1970年8月)など。

20km−30 鉄道最高点の野辺山付近を走る列車 1970.8

 このように、いくつかの経路でこの空白を攻めているが、まだまだ広く残っている。

甲武信ヶ岳のデータ10km以上の未接近地 [群馬県]  1町2村  [埼玉県] 1市  [東京都] 1町1村 [長野県] 1市1町3村 [山梨県]  7市2村(檜原村・北相木村・南相木村・丹波山村・小菅村には訪問したことがない)
面積は10km以上 約997平方km
20km以上 [山梨県] 山梨市。約8.7平方km


20km-31 湯田中東
凡例:緑:10km 黄色:20km 青線 私の旅行経路 青字のPは写真撮影の場所。
地名 大文字:町・集落 Yu湯沢 Ii飯山 Na長野 Yd湯田中 Ku草津温泉 Mi水上 Ts嬬恋 Sh渋川 Ka軽井沢 Ta高崎
小文字:行政区 [群馬県]  miみなかみ町 na中之条町 ts嬬恋村 ng長野原町 [新潟県] tn津南町 to十日町市 [長野県] sa栄村 ki木島平村 ya山ノ内町 ta高山村 su須坂市 ue上田市 tm東御市 ko小諸市 my御代田町

 外周の東側は、主に上越新幹線(1996年6月乗車)、一部が上越線、南側は主に北陸新幹線(2001年11月)で、一部は信越本線(1970年8月:のちにしなの鉄道)、北側は飯山線(1983年7月)であるが、長野電鉄(2006年12月;一部はのちに廃止)や吾妻線(1981年4月:一部は2014年12月、経路付け替え後に乗車)、それに草津温泉までのバス路線(2014年12月)が入り込んでいる。

20km-32 草津温泉 湯畑 2014.12

湯田中東のデータ10km以上の未接近地 [群馬県]  3町1村 [新潟県] 1市1町 [長野県] 4市2町3村(これらのうち木島平村・高山村は訪問したことがない)
面積は10km以上 約963平方km
20km以上 [長野県]  栄村・山ノ内町。約11平方km

京都に行ってきました 2

2023年06月17日 | 旅行

 嵯峨野観光鉄道の保津峡駅を出てしばらく行くと、鉄橋を渡って保津川の左岸に移る。

11 鉄橋通過 2023.6.10

 1970年にはここに近づいて通過する機関車を撮影した。

12 鉄橋を通過する上り蒸気機関車 1970.11.6

 橋から先は、保津川が右に来るから車窓の写真を撮ってない。最後のトンネルを抜けると京都盆地に入って、左側に山陰本線が並ぶ。すぐにトロッコ嵐山駅。ここに来て初めて知ったのだが、この駅から終点のトロッコ嵯峨駅までは、トロッコ列車は山陰本線の下り線を走る。だから、鉄道のリストを作ると、嵯峨野観光鉄道の営業距離7.3kmのうち、トロッコ嵯峨駅・トロッコ嵐山駅間の1.0kmは山陰本線と重複して計上される。ただし、両駅は山陰本線とは分離して設置されている。

13 嵯峨嵐山駅から見た嵯峨観光線 2023.6.10

 写真は、山陰本線の嵯峨嵐山駅の上りホームから見たもので、トロッコ嵯峨駅を出た嵯峨野観光鉄道下り列車が、山陰本線下り線に入るところ。
 使用した乗車券は、小倉で今回のパック旅行の乗車券類及び宿泊の予約をした時に、一緒に購入した。だから、この鉄道のオリジナル乗車券を見ていない。

14 嵯峨野観光鉄道の指定席券

 持っていたのはJRの「青帯券」であった。トロッコ亀岡駅での入場に際して改札はなく、トロッコ嵯峨駅で出場の際に回収されるようになっていた。「記念に欲しい」と言ったらちょっと嫌そうだったが結局持たせてくれた。ごらんのように2号車の「8番A席」となっている。8番というのはボックスで、4席にそれぞれにAからDまでの記号がある。偶数番号のボックスが北側、奇数が南側であるから、予約の際川沿いを長く通る偶数を希望した。このルートは、観光のためには京都から片道乗車して、帰途は川下りの船でというのが定番であろう。3月の事故のあと、川下りが再開していないようで、そのため随分混雑していた。8番のボックスは、私と東京から一人旅という女性の二人。反対側の7番は3人の韓国人女性、隣の6番ボックスは4人の西欧人家族、といった調子であった。

 嵯峨嵐山から山陰本線で二条駅へ。

15 山陰本線二条駅のホーム屋根 2023.6.10

 京都にいた頃、何度も化石採集に出たが、山陰本線方面の時にはたいてい二条駅から乗車した。二条駅までは市電できたと思うがどのルートを選んだか記憶がない。今回見ると、二条駅のホーム屋根は綺麗な木造風のハーフパイプで作られていて壮観であった。
 二条駅で京都地下鉄東西線に乗り換えて東山へ。そこで京都市バスに乗って祇園(八坂神社石段下)へ。同窓会の前に二つほど見ておきたいところがある。一つは数年前に訪れた「近江作」のお店の外見を撮ることで、当日撮り忘れたから。もう一つは石段下にある喫茶+展示館「石」を訪れること。面白い化石が展示されていないかと考えたから。大したものがない上に、標本ラベルが不備で、コーヒーだけ飲んでおいとました。学生時代に「喫茶」には入ったことがある。八坂神社前で少し時間を潰して会場へ。石段付近は外国人観光客でいっぱいだった。

16 八坂神社石段から見た四条通。
 
 会合のあと一泊。翌日は朝のうち雨だったが暇だから烏丸丸太町北にある益富地学会館を訪れた。古い知人がいらっしゃったので昔の話をした。午後新幹線で帰宅。外国客が多く、大きなトランクが荷物棚にいっぱい並んで壮観だった。

17. 新幹線荷物棚 2023.6.11

 もっと大きなトランクも平気で載せるから、やや危険を感じたほどだった。

京都に行ってきました 1

2023年06月13日 | 鉄道

 6月10日から1泊で京都に行ってきた。目的は大学の同窓会出席。ただし、同窓会は、遠慮のない会だったから内容は公開に堪えないのでここでは記さない。もっぱら鉄道と京都の観光関連の記事を書く。だからジャンルは「鉄道」に入れておく。
 会は、10日の宵に行われたから、小倉を午後出発しても十分間にあう。それではちょっともったいないので、嵯峨野観光鉄道に乗ることにした。この鉄道は、山陰本線の嵯峨嵐山駅から馬堀の間の路線改良のために廃止された旧線を観光目的で運行しているもの。もちろん旧線時代には嫌というほど通過したから、未乗線にはカウントされていない。では、旧線にいつ乗ったのだろう? 乗車線のリストは、線ごとに全部乗った日時の記録しかないから、山陰線のように、少しずつ乗っていったところは、部分的な乗車が記録されていない。この場所はおそくとも1965年12月に夜久野などの化石採集に出かけた時に通った。その時の乗車券は、私が保存している中で最も古いもの。二条駅から小浜線周りで名古屋への切符である。その後も何度も通過した。1970年代には、蒸気機関車の撮影を試みた。だからその折にはこの区間の唯一の駅である保津峡駅も利用した。

1 二条駅からの乗車券 1965.12.19 (上)日焼けしているので、調整した。
  京都駅からの特急券 2004.10.18 (下)

 山陰本線新線は、1989年3月5日に複線で開通した。翌年3月10日に京都〜園部間の電化が行われたというが、新線の開通時に電化工事が行われなかったということはないだろう。亀岡までは電化されていたのかもしれない。私がこの新線に乗車したのは遅くとも2004年10月に園部に行った時。京都駅から特急の「タンゴディスカバリー1号」に乗車したという記録がある。それまでにも乗車したかもしれない。
 そんなわけで、1991年4月に観光鉄道となって再出発した嵯峨野観光鉄道に乗ってみることにした。山陰線旧線であるこの線は、単線非電化。亀岡盆地から京都盆地の間の山地を穿入蛇行する保津川に沿った曲がりくねった路線である。路線はほぼ川に沿って蛇行し、幾つかの短いトンネルでショートカットするところもある。川沿いは道路もほとんどないほどの急崖である。今回の経路に沿って亀岡側から説明すると、中間付近に保津峡駅がありそこを過ぎたあたりで一度だけ橋を渡って北岸に移る。京都盆地に抜ける直前に北側の山に入って、トンネルで平地に出るが、そのあたりの鉄道から見えないところが、有名観光地の渡月橋。
 新線の方は、亀岡盆地の東縁にある馬堀駅で右に分かれてすぐトンネルに入り、京都盆地までトンネルと橋しかない。旧線と違って、橋をかけるのに躊躇しないから、5か所で川を渡る。中間の保津峡駅は橋の上に設置され、その京都側の岸に駅舎がある。そこは旧線の駅舎と近いところで、旧線とはほとんど直角に立体交差する(新線が上)。

2 保津峡の鉄道

 図の赤線が嵯峨野観光鉄道、緑が現在の山陰本線。今回は亀岡側からの片道乗車とした。京都に新幹線で着き、山陰本線乗り場へ。乗り場は駅正面から見て右側に少しずれて設置してあり、京都で行き止まりのホームである。通常のホーム番号と別にナンバーが決められている。乗ったのは33番線という大きな数字のホーム。

3 京都駅33番線 山陰線乗り場 2023.6.10

 観光シーズンの土曜日昼過ぎ。当然混雑していて、座れないかも、と思ったが、混んでいるのは終点側の数車両だけ、随分長い編成の大部分は空いている。皆さん先に歩かないのだ。

4 山陰本線電車 まだ先に数車両ある。 2023.6.10 京都駅

 亀岡行きで1333発車、1357馬堀着。10分ほど歩いて「トロッコ亀岡」駅に。この名称は、山陰本線の馬堀駅の次が亀岡駅で、まぎらわしい。

5 トロッコ亀岡駅 2023.6.10

 田んぼの端にある駅口は低いところで、階段を随分上った高い階に駅事務所やホームがある。

6 トロッコ亀岡駅から京都方面を望む 2023.6.10

 駅ホームは、新線と並んでいるが新線はやや高い位置にあり、京都側ですぐにトンネルに入る。ホームでアジア人の青年と話をしたが礼儀正しい台湾の方。しばらく待って、やっと乗車する列車が到着する。

7 列車到着 トロッコ亀岡駅 2023.6.10

 発車するとすぐに保津川沿いに走る。川との間に樹があって、写真の撮りやすいところは限られる。保津峡駅の先までは左側に川が来るから、そちらに座っていないと撮影はできない。右側の韓国人観光客が写真を撮らせてくれと割り込んでくる。気持ちはよく分かる。客車の乗り心地は悪い。レールのジョイントの振動が直接に伝わって来る。

8. 橋を渡る山陰線電車が頭上を通る。2023.6.10.

9 トロッコ保津峡駅

 渓谷中唯一の下車可能なところ。駅から対岸に歩道の吊り橋がかかっている。1970年には、ここに蒸気機関車の写真を撮りに来た。ここで下車して、南側の尾根に登ったりして写真を撮影した。

10 保津峡駅の蒸気機関車D51 860 1970.11.6

(つづく)