OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

最後の蒸気機関車たち その1 1965~1968

2012年02月26日 | 最後の蒸気機関車
最後の蒸気機関車たち その1 1965~1968

蒸気機関車が姿を消したのは1975年頃である。最後の定期運行蒸気機関車牽引列車は、1975年12月(北海道)といわれる。ちょうどそのころ、私は大学生で旅行好きだったから、各地で蒸気機関車と出会い、撮影をしたものだ。当時は情報も集まらず、鉄道雑誌で月ごとに知った断片的なことから推理して撮影したが、腕だけではなくカメラやフィルムも悪く、現在それらをスキャンしてもなかなか良い画像は得られない。それでも数百枚はあると思われるので、年代順に紹介してみよう。フィルムの一部は濃度がなくなって見るに耐えないので(捨てたものも多い)、プリントからスキャンした。カラーのものもあるが色は悪い。蒸気機関車以外の車両も一部紹介する。一回の投稿で、5枚ぐらいずつとすると、計算上は100回ちかくになるが、やってみないとわからない。
家には「最後の蒸気機関車たち」1~6と、「北海道蒸気機関車写真集」1・2 の8冊のアルバムがつくってある。これにならって記すが、データが正確でないものが(とくに初期のものには)ある。日付は一日程度の誤差がありうる。

初めて自力で遠距離の旅行をしたのは1965年7月の東北旅行。当時、鉄道乗り潰しの記録をしていなかったが、後に計算したところでは1965年7月に一度目の東北旅行の最初の部分で国鉄の10%を乗った(東北本線・宮城県内)ということになっている。その東北旅行では岩手開発鉄道の写真を撮っている。


001N 岩手開発鉄道、駅不明、たぶん長安寺駅 1965.7.25

岩手開発鉄道(旅客運送部分:9.5km)は、1992年4月1日に旅客営業を止めたが、現在も貨物運輸を行っている。私はこの時に盛から長安寺まで(3.3km)乗車したが、その先の岩手石橋方面は乗っていない。
現存するフィルムで、最初に蒸気機関車が写っているのは、1966年6月26日、京都府の夜久野に化石採集に行った時の、おそらく福知山駅でのショット。駅に停車中の車内から撮影したものである。蒸気機関車の運行が終わるまで約10年。


002N たぶん山陰本線福知山駅 1966.6.26 C57-番号不明


二番目は東北旅行(2回目)の夜行明けに、盛岡駅で撮影したもの。以前このブログで紹介したものだが、再録しておこう。


003N 盛岡駅 1967.7.20 C61-20 と特急「ゆうづる」(再録)

C61-20は、このころ青森機関区に在籍し、旅客列車の牽引をしていたが1971年に宮崎に移籍、1973年には廃車された。ところが、2010年に復元が行われて、2011年復活し、現在高崎で動態保存されている。
なお、このシリーズでは「C61-20」のように、型式番号の後にハイフンを入れている。無いのが正しいが記述しやすくなるので。
この頃、「機関車を撮影して残そう」というような気持ちはあまりなかったが、鉄道に限らず何でも写真を撮っていたように思う。1967年4月には、部活(合唱団)の合宿のため通った赤穂線で国鉄乗車率が20%に達した。

二度目の東北旅行では青森を真夜中に通ったが、青函連絡船の写真がある。もちろん駅から撮ったものなのでよくわからない。北海道に行きたいと思ったのはこれが最初かも知れない。


004N 青森駅 1967.7.25 大雪丸

大雪丸は1988年1月6日に運行を終了した。その後、長崎でホテルとして使用されたが、2008年に中国に売却された。
1968年になると、すこし機関車写真を撮ろうという気持が強くなってきたようだ。しかし、そのために旅行するようなことはなく、化石採集についでに撮ったものがほとんど。次の写真もその一つで、和歌山県にアンモナイト採集に出かけた時撮影した有田鉄道のディーゼル車両。


005N 有田鉄道、たぶん金屋口駅 1968.3.4 250

有田鉄道(藤並・金屋口間:5.6km)は2002年末に廃線となった。列車は藤並駅からではなく次の湯浅駅から国鉄の線路を使って運行していた。この区間は独自にレールを所有していたが、すでにこのころは国鉄を通っていた。私はこの時に全線乗車。
一回目では蒸気機関車があまり出てこなかったが、次回に期待いただきたい。
登場蒸機 C57(写真002) C51(写真003)

Trivial database of a retired curator, Ok.
The last steam locomotives in Japan. No. 1 (1965-1968)
001 Iwate Kaihatsu (Development) line (private), Choanji Station†, Iwate.
002 San’in line, Fukuchiyama Station?, Kyoto.
003 Tohoku line, Morioka Station, Iwate.
004 Daisetsu-maru†, a ship of Seikan Ferry†, Aomori Station, Aomori.
005 Arita line (private) †, Shimotsuno Station†, Wakayama.

2014.6.13 抜井さんという方からのコメントで、有田鉄道の写真(005)の撮影駅は終点「金屋口」駅ではなく二つ手前の「下津野」であるとのご指摘を戴いた。情報のご提供に感謝し、訂正する。

2020.6.01 写真を入れ替えた。番号の後に「N」が付いているのが改善した写真。

鰭脚類フィギュア 第26回(最終回) 補遺

2012年02月22日 | 鰭脚類フィギュア
鰭脚類フィギュア 第26回 補遺

この「鰭脚類フィギュア」連載を始めてから入手したものや、どこかに入れるべきところ漏れたものを紹介する。


セイウチストラップ

長さ2.7センチ。プラスチック製のセイウチのストラップで、ベルトが付いている。ベルトに「Marine Mammals c」とある。たぶんカロラータ社の製品で、最初のころに紹介したセイウチモデルと大きさは違うがよく似ている。


新ガラスセイウチ
昨年(2011年)下関の水族館で家族が入手したもので、長さ約3.4センチ。ガラス製で刻印などは無い。


新ガラスアシカ
上のものと同時に入手したもので、長さ約3センチ。ヒゲは針金で、先端にガラス玉がつけてある。口の両側の白い造型は何だか分からない。やはり刻印はない。

今回紹介したのは5種5点。


集合写真 一部入っていないものがある。

これでコレクションの全容を紹介した。通算139種165点。関係国は21国。私は旅行先で自然史系博物館はできるだけ訪れるし、行けばそのショップは必ず見るが、鰭脚類のコレクションを本格的にするなら水族館巡りをしないと増えないだろう。また九州にいるというのは、このテーマには不向きで、やはり北の方に住んでいる方が集めやすそう。外国もあまり行かないのでこれも今後の課題。逆にミネラルフェアなどによく行ったので鉱物製品はよく集まっていると思う。カタログやネット販売を通じて買うのは好きでないので、海洋堂など日本の誇るミニチュア・フィギュアの製品は含まれていない。今後範囲を広げるなら、海牛類(ジュゴン・マナティー)は加えてもいいかな、と思うが、鯨類はやらない。鯨・イルカ類はあまりにもたくさん売られているから。逆に海牛類は少なすぎる。

長らく連載した「鰭脚類フィギュア」は、一応終了。読んでくださった方々にお礼申し上げる。今後、新しいものを入手したら、いくつかずつまとめて紹介したい。
次の連載ものとして「最後の蒸気機関車たち」を掲載する。長い連載にな利、興味の無い方にはたいくつだろうと思われるがご容赦を。

鰭脚類フィギュア 第25回 特殊その2

2012年02月18日 | 鰭脚類フィギュア
鰭脚類フィギュア 第25回 特殊その2

これまでの紹介したコレクションに追加する。


ガラス貫通 セイウチ

長さ4.5センチ。プラスチック製。胴体が輪切りになっていて、そこに強い磁石が埋め込んである。窓ガラスなどに両側から付けるとガラスを貫通しているように見える…、というフィギュア。刻印などは無い。


ガラス貫通 アシカ

長さ6.5センチ。プラスチック製。上と同じくガラス貫通型。しかし、細工の仕方や磁石の色など違いが多いので別の会社かな。刻印などは無い。


アザラシ ピンバッジ

アザラシの長さ3センチ。非鉄金属製。裏面は銀色で「NAT. SCI. MUS. TOKYO」「タテゴトアザラシ C  M. K. IND. CO.」の陽刻が見られる。東京の国立科学博物館ショップで入手。M. K. IND.は、Matsumoto Kisho Industry Co. であることがベースの厚紙の印刷でわかる。松本徽章工業株式会社は台東区の伝統のあるバッジメーカー。


アシカ ピンバッジ

ピンの横幅3センチ。非鉄金属製。裏面に書き込み無し。表の灰緑色の台の下端に「SEAL COLONY DUNEDIN NZ」と書いてある。ベースの厚紙にも「Dunedin Souvenirs」「MADE IN DUNEDIN NZ」「P.O. BOX 5322, DUNEDIN」とある。Dunedin はニュージーランド南島2番目(クライストチャーチに次ぐ)の都市で、3回訪れたのでそのいずれかで入手したもの。


園芸店 アザラシ2種

ともに長さ5.5センチ。素材はテラコッタ風の焼き物と思われる。表面は色塗り。腹部下面に穴があってそこに竹串のような棒が刺してあった。園芸店で入手したもので、植木鉢などのアクセントとして刺すものらしい。書き込みは無い。まつげがあったりしてかわいらしすぎるが、コレクションに数えよう。

今回紹介したのは6種6点。通算134種160点。関係国は21国。

長らく連載した鰭脚類フィギュアシリーズは次回(第26回)でおしまい。今度は1970年代頃の蒸気機関車シリーズを開始する。全80回以上の大作となる。興味の無い方にはたいくつだろうが、読み飛ばしていただければ幸いである。

名古屋に行ってきました(その5)

2012年02月14日 | 旅行
名古屋に行ってきました(その5)

可動橋見学・同窓会の翌日・29日(日)は、午前中に旧友に会った後、化石を趣味とするアマチュアの会合に出席した。アマチュアといっても化石に詳しく、発見・採集だけではなく議論や学会発表・出版もするという集まり。ここで象化石の話を行った。ずいぶん専門的な話も出てくるし、「じゃあどこに行ったら次の象化石が見つかるのか?」といった、好きでなければ出てこない話にもなっていく。40年以上前の当日・1月29日が、その会と私の関係のできた日だ、ということを写真で紹介した。
こちらも夕方から食事の会。昔の話、とくに昔よく参加していた12月30日の採り納め採集会がずっと続いていることなどを伺った。

30日(月)の帰りの新幹線は15時過ぎに取ってある。それまでどこかで時間を潰すつもりだったが、天候がいいので岐阜県御嵩町に行くことにした。目的は昔象の化石の出てきた場所の確認。バッグをコインロッカーに預け、名鉄名古屋から、犬山で広見線に乗り継ぐが、新可児で乗り換えがある。この駅は行き止まり駅で、犬山から来る線と御嵩に向かう線がスイッチバックのようになっている。広見線全部を直通する電車はなく、すべて乗り換えが必要。さらに御嵩に向かうホームには構内の改札があって、ほかと区分されている。なぜこうする必要があるのだろうか?この先はICカードが使えないが、その対策だろうか。


22 新可児駅の行き止まり。左が御嵩に行くホーム。

結局名鉄名古屋から二度乗り換え、1時間半で御嵩駅に降り立った。御嵩の駅前で客待ちしているタクシーの運転手さんに「番上洞に行きたい」と告げたが、地名を知らないとのことで、運転手さんが役所に電話して聞き取り、行けそうだと現地に向かう。「洞」というのは「ほら」と読んで、このあたりで行き止まりの小さな谷のこと。現地に行き、確認のために谷の入口のOさんの家を尋ねた。ちょうど畑仕事の帰りかと思われる男性が横からみえたのでうかがうと、確かにここが番上洞で、昔象の化石が出たということもよくご存知だった。「杉林の向こうのお墓の手前右」という丁寧な情報に従って小道をタクシーで入った。その通りの景色の所で写真を撮り、確認が出来たので戻ることにした。


23 番上洞の化石産地


24 番上洞で発見されたアネクテンスゾウの上あご


25 同下あご

途中、杉林の中で先ほどのご家族が走ってこられた。3年生ぐらいの女の子や化石のことをよく知っている文化財保護にかかわっているSさんを伴っていた。そこで詳しいお話を伺い、さらに一部標本が御嵩町の展示館「中山道みたけ館(御嵩町郷土館)」にあるということも聞くことができた。
残念なことにその展示館は月曜休みだったのだが……走ってこられた女性と、文化財保護員の方が役所の方に交渉して、館を開けてくださると言う。すぐに御嵩にもどって、標本を見に行った。生涯学習に係わっているA係長がお休みのところ出てきてくださったのだ。写真は禁止されていたが、その化石のレプリカを見ることができた。ここの象の化石は全部で3点あって、1914年に報告された上顎の部分(現在瑞浪市化石博物館所蔵)と1931年発見のほとんど完全な下顎骨(京都大学所蔵)、それに2004年再発見された、付近のSgさんが保管しておられた下顎の牙、である。牙は京大の標本と割れ口が合うといわれる。上顎と下顎は発見された時代が大きく違い、上顎は東北大学で研究されたこともあって、合わせてみたのは1974年ごろに私たちが初めて行った。その結果これらは同一の個体の象であることがわかった。
現在の発掘地点は潅木に覆われているが、最近まで畑にいれる土を取るため、はげ山だったのだそうだ。土は麦の栽培時に芽を埋めるのに使ったと、番上洞入口のOさんは言われる。番上洞からは、象だけではなくサイの大腿骨(現・岐阜県立博物館所蔵)も見つかっている。あの山を掘り起こせばまだまだ出てくるのだろう。
標本を見終わった所で先のSさんが駆けつけてこられた。女の子も一緒である。ちょうど御嵩駅付近に用があったとのこと。お礼を言ってからちょうど間に合った電車で名古屋に帰った。御嵩町ではどなたも親切に教えてくださった。短時間だったが知りたいことはすべて分かった。ここにお礼申し上げたい。

夕食前に帰宅。長い3日間だった。

名古屋に行ってきました(その4)

2012年02月10日 | 旅行
名古屋に行ってきました(その4)

四日市の鉄道可動橋・末広橋梁の兄弟とも言うべき可動橋が名古屋港にある。昨年5月連休にこれを見に行った。名古屋市地下鉄が延伸されたのを乗りに行ったついで。
地下鉄の名古屋港駅の南端の出口から左に行くと広い道があってこれがおおよそ旧貨物線の径路である。ここは埋め立て地で、北側は運河で切られていた。貨物線は埋め立て地の西端から入ってきて東に向きを変え、東端で逆に北に向っていた。運河をわたる際に高さが足りないのでこれを跳ね上げ橋とする点は四日市と同じ。橋の名称は「名古屋港跳上橋」らしい。文化財として保存されている。この橋にも銘板があって、四日市末広橋梁の銘板とほとんど同じである。


18 末広橋梁の銘板(正面から見たように写真を変形してある。)

全体は長方形の上辺を上に膨らんだ円弧とし、円弧に沿って右から「可動橋設計・製作」、その下にこんどは水平に設置年月、そして大きく「山本工務所」と刻んである(陽刻)点はほとんど同じ。ただし名古屋港では、最下辺に「山本卯太郎」の一行が多いのと、上辺の二文字が後で訂正してあるようで、四日市の「設計」の二文字が「架設」になっている。架設・製作というのは意味が重複するし、順序からいってもおかしい。おそらく元はこちらも「設計」だったのだろう。では変更したのはなぜ?と疑問が湧く。製作は名古屋が早くて昭和2年(銘板は場所があるのに空白)2月、四日市は昭和6年(1931年)12月。山本工務所や山本卯太郎氏については、各種HPにくわしい記述がある。


19 名古屋港跳ね上げ橋


20 名古屋港跳ね上げ橋。枕木が失われている。

防潮堤を切り欠いて、そこに防潮扉を設置してあることなど四日市とよく似ている。橋は少し姿が異なり、鉄塔部分が小さく、跳ね上げ部分を支えるリンク構造がないようだ。上げた位置で固定されている。線路に錆が来ているのはしかたがないが、枕木がずいぶん傷んでいて、このままにすればレールもずれてしまうだろう。文化財として保護するならしっかりとお願いしたい。
この近くには昔はもう一つ道路の可動橋「港新橋」があったが、現在はその跡はほとんど残っていない。両側に短い突堤があり、そのつけ根が道路にありそうなカーブ(隅切り)を描いている。同窓生達のうち、何人かが子供の頃このあたりを遊び場にしていたというのだが。
貨物線はさらに北に向かって更に伸びていたはず。船だまりにそって、何度もカーブしていたと思われるが、歩いてもその跡はわかりにくい。通り掛かりの方が「記念碑がある」というが、見つけられなかった。数か所に舗装がそれらしく曲がっている所や、小さな溝を越える所に線路幅のコンクリートがあったりした。しかし、線路が一本とは限らない。これらをつないでも全体の姿は文献などを当たらないと分からない。名四国道のあたりであきらめて地下鉄に戻った。暑かったので喫茶店でひとやすみ。名古屋は喫茶店があっていいなあ。


21 貨物線の跡

名古屋港の可動橋が文化財として保存されているだけなのに対して、四日市の末広橋梁は毎日働いている。日本ではここだけにしかないという現役可動橋の動く姿をいつまでみられるのだろう。固定した鉄道可動橋が神戸にある。そこ(いわゆる和田岬線)は、旅客運輸に使われているので、いずれは見に行きたい。通ったことはあるのだが、その時は可動橋について知らなかった。“和田岬線”は近いうちに路線が廃止される可能性があるので急ぐ方が良さそう。
ここまでが昨年5月の話。

今年1月28日に戻って、夕方から旭丘高校同窓会の新年会。名古屋メンバーの集まりだが、私以外にも兵庫・和歌山からの参加者もいた。食事をしながら話し合ったあと、二次会に入って、高校当時の話や歳・介護・原発・自然・それに可動橋などの話題に盛り上がった。

(つづく)