■Debussy 「子供の領分」 Golliwogg's cake walk の arpeggio について■
~ 「 子供の領分 」 は、どこの出版社の何版を使うべきか その2 ~
2012.7.7 中村洋子
★きょうは、7月 7日の 七夕です。
旧暦の 七夕ですと、夏空に満天の星ですが、
新暦では、梅雨のただなか、雨も仕方ありません。
★石川県立音楽堂で開催しました 「 Debussy Golliwogg's cake walk
アナリーゼ講座 」 で、次のようなご質問がございました。
私が自筆譜から、写譜しましたテキストの中で、
「 右手 24小節目最後の g1 d2 の二和音に、
arpeggio アルペッジオ がついていないのは何故?」
★私は、 Debussy の自筆譜を詳細に分析し、
Welte-Mignon piano roll recordings で、ドビュッシー自身の演奏を聴き、
ドビュッシー本人が arpeggio をつけていませんので、
“ arpeggio をつける ” という、発想すらありませんでしたので、
とても、驚きました。
★前回のブログで、お薦めしました Wiener Urtext Edition で、
その個所を確認しましたところ、 arpeggio 記号を、
括弧にして、書いていました。
しかし、なぜ、括弧をして arpeggio を記入したか、
その理由は、critical notes に書いてありませんでした。
★括弧をつけた言い訳のように、 Golliwogg's cake walk の
自筆譜 ( Bibliothéque National, Paris ) 第 1ページの写真だけが、
曲集 「 子供の領分 」 の冒頭に、掲載されています。
そこでは、当然のことながら、 arpeggio はついていません。
★ここで、私は “ エディーターのいつもの癖が出た・・・ ” 、
と、直感いたしました。
★詳しく、分析いたしますと、
自筆譜も、実用譜とも、 10 ~ 13小節目までの 4小節と、
18 ~ 21小節目 4小節までは、ディナミークのみ異なり、
ほぼ、同じ音楽です。
つまり、18 ~ 21小節目は、10~13小節目までの反復と、
言っていいでしょう。
★自筆譜、実用譜ともに、その各 3小節目にあたる
12、 20小節の一番最後の、右手和音 es1 b1 の二和音に、
arpeggio が、付されています。
その二和音は、その前の 12小節目 2拍目、20小節目 2拍目の 「 b 」 と、
8分音符どうしで繋いでおり、 「 b 」 から二和音に slur スラーが掛り、
二和音には、 staccato の 「・」 記号が、付されています。
★それに続く、 22小節目から 25小節目までの 4小節間は、
前述の 10~13、18~21小節までの 4小節の音楽とは、
全く、異なっております。
ただ、その 3小節目に当る、 24小節目の右手リズムは、
12小節や 20小節の、右手リズムと同じなのです。
★2拍目は、8分音符の [ f ] と、 [ g1 d2 ] が、8分音符で繋がれています。
しかし、ドビュッシーは、
12小節や 20小節と異なり、 2拍目の [ f ] にアクセント、
次の2和音に、さらに、強力なアクセントを意味する 「Λ」 記号を書き、
その下に staccato を、付しています。
ですから、この 24小節目は、12小節目、20小節目とは、
全く異なった音楽と、みるべきです。
★ドビュッシーの演奏を聴いていますと、そのことが、実感できます。
その個所を、強烈な ff フォルテシモ で弾いており、
右手 二和音を、 arpeggio で分離させますと、
この緊張感は、表現できません。
★しかしながら、エディターは、多分、12、 20、 24小節を、
“ 同じ形が 3回出現している ” と、捉え、
“ 3回目の arpeggio を、ドビュッシーが書き忘れたのではないか ” 、
という、いつもながらの、 「 余分なおせっかい 」 から、勝手に
加えたのではないか、と思われます。
★作曲家の観点から言いますと、 「 同型反復 3回 」 の
3回目を変化させることこそが、作曲家の ≪ 見せ場 ≫ なのです。
それを、凡庸なエディターが、同じ形であるべきと、
勝手に手を加えるケースが、大変に多いのです。
★前回推薦しました Bärenreiter も、Durand 、 Henle も、
各々、饒舌な critical commentary を、いろいろな部分について、
たくさん、書いていますが、
この arpeggio については、何故か、何も書いていません。
そして、理由を書かないまま、 arpeggio を付しています。
★おかしなことに、Wiener Urtext と Bärenreiter は、
ドビュッシーが、この同じ 24小節目 1拍目で、
おかしたケアレスミス ( 右手 2番目の音 [ 8分音符 f1 ] に、
置くべき staccato を、1拍目の 16分音符 [ f1 ] のアクセント記号
「Λ」の下に書いた、というミス ) については、
それを、さも、重大なミスであるかのごとく、勝ち誇ったように、
critical notes で、指摘しています。
この staccato は、16分音符の [ f1 ] に続く、 slur で繋げられた、
8分音符の [ f1 ] に、付けるべき staccato ですので、
ドビュッシーの単純ミスであるのは、誰が見ても、明らかなことです。
★しかし、重要な、同じ小節の最後の音の arpeggio については
何の理由も書かず、黙って、付け加えているのです。
★ドビュッシーのケアレスミスは、自筆譜を見ますと、既に、
その部分に、斜線が引かれており、
ドビュッシー自身も気付き、その斜線で訂正したつもりだったのでは、
ないでしょうか。
その場合、尚更、 arpeggio を書き落としたのならば、
ドビュッシー自身が気づいているはずです。
★このような混乱が起きている理由は、ドビュッシーの自筆譜と
Durand から出ました初版との関係が、いまひとつ、
はっきりしないからです。
★私が、作曲家でありますので、大変によく分かるのですが、
・自筆譜が間違っている場合、
・初版が間違えている場合、
・自筆譜から初版が出る間に、作曲家が考えを変える場合、
が、考えられます。
★しかし、今回のケースは、どの版にも、
何故、 arpeggio があるのかという、本来、
説明すべき理由や考察が、書かれていません。
日本で出版されています実用楽譜は、
Durand 初版の、孫引きですので、
参考にならないのは、言うまでもありません。
★私は、
①作曲家の自筆譜に arpeggio がない
②作曲家の自演にも arpeggio がない。
③さらに、音楽的分析として、ドビュッシーが、
24小節目最後の ≪ g1 d2 の二和音 ≫ を、
25小節目 1拍目 ≪ 「Λ」 「・」 記号付き d1 b1 の明確な二和音 ≫ に対して、
あたかもアウフタクトのように演奏している、ことから見て、
≪ arpeggio は、必要ない ≫ と、思います。
arpeggio をつけますと、緊張感が抜けてしまうのです。
★24小節目最後の二和音、25小節目1拍目の二和音、
2拍目のオクターブの二音に、3ヶ所とも、
「Λ」 「・」 の記号が、付けられており、
この 3つが、一つの纏まりとなるよう、
ドビュッシーは構想していた、と思います。
その最初の音である、 24小節目最後の 二和音だけに、
arpeggio を付けるのは、やはり、無理がありますね。
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