音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■Debussy 「子供の領分」 Golliwogg's cake walk の arpeggio について■

2012-07-07 17:36:24 | ■私のアナリーゼ講座■

■Debussy 「子供の領分」 Golliwogg's cake walk の arpeggio について■
  ~ 「 子供の領分 」 は、どこの出版社の何版を使うべきか その2 ~
                           2012.7.7     中村洋子

 

 

★きょうは、7月 7日の 七夕です。

旧暦の 七夕ですと、夏空に満天の星ですが、

新暦では、梅雨のただなか、雨も仕方ありません。


★石川県立音楽堂で開催しました  「 Debussy  Golliwogg's cake walk

アナリーゼ講座 」 で、次のようなご質問がございました。

私が自筆譜から、写譜しましたテキストの中で、

「 右手 24小節目最後の g1 d2 の二和音に、

arpeggio アルペッジオ がついていないのは何故?」


私は、 Debussy の自筆譜を詳細に分析し、

Welte-Mignon piano roll recordings で、ドビュッシー自身の演奏を聴き、

ドビュッシー本人が  arpeggio  をつけていませんので、

“ arpeggio をつける ” という、発想すらありませんでしたので、

とても、驚きました。


★前回のブログで、お薦めしました Wiener Urtext Edition で、

その個所を確認しましたところ、 arpeggio 記号を、

括弧にして、書いていました。

しかし、なぜ、括弧をして arpeggio を記入したか、

その理由は、critical notes に書いてありませんでした。


★括弧をつけた言い訳のように、  Golliwogg's cake walk の

自筆譜 ( Bibliothéque National, Paris ) 第 1ページの写真だけが、

曲集 「 子供の領分 」 の冒頭に掲載されています。

そこでは、当然のことながら、 arpeggio はついていません。

 

 


★ここで、私は  “ エディーターのいつもの癖が出た・・・ ” 、

と、直感いたしました
 

★詳しく、分析いたしますと、

自筆譜も、実用譜とも、 10 ~ 13小節目までの 4小節と、

18 ~ 21小節目 4小節までは、ディナミークのみ異なり、

ほぼ、同じ音楽です。

つまり、18 ~ 21小節目は、10~13小節目までの反復と、

言っていいでしょう


★自筆譜、実用譜ともに、その各 3小節目にあたる

12、 20小節の一番最後の、右手和音 es1 b1 の二和音に、

 arpeggio が、付されています。

その二和音は、その前の 12小節目 2拍目、20小節目 2拍目の 「 b 」 と、

8分音符どうしで繋いでおり、 「 b 」 から二和音に slur スラーが掛り、

二和音には、 staccato の 「・」 記号が、付されています。


★それに続く、 22小節目から 25小節目までの 4小節間は、

前述の 10~13、18~21小節までの 4小節の音楽とは、

全く、異なっております。

ただ、その 3小節目に当る、 24小節目の右手リズムは、

12小節や 20小節の、右手リズムと同じなのです。


★2拍目は、8分音符の  [ f ]  と、 [ g1 d2 ] が、8分音符で繋がれています。

しかし、ドビュッシーは、

12小節や 20小節と異なり、 2拍目の [ f ] にアクセント、

次の2和音に、さらに、強力なアクセントを意味する 「Λ」 記号を書き、

その下に staccato を、付しています。

ですから、この 24小節目は、12小節目、20小節目とは、

全く異なった音楽と、みるべきです。

 

 


ドビュッシーの演奏を聴いていますと、そのことが、実感できます。

その個所を、強烈な ff フォルテシモ で弾いており、

右手 二和音を、 arpeggio で分離させますと、

この緊張感は、表現できません。


★しかしながら、エディターは、多分、12、 20、 24小節を、

“ 同じ形が 3回出現している ” と、捉え、

“ 3回目の arpeggio を、ドビュッシーが書き忘れたのではないか ” 、

という、いつもながらの、 「 余分なおせっかい 」 から、勝手に

加えたのではないか、と思われます。


作曲家の観点から言いますと、 「 同型反復 3回 」 の

3回目を変化させることこそが、作曲家の ≪ 見せ場 ≫ なのです。

それを、凡庸なエディターが、同じ形であるべきと、

勝手に手を加えるケースが、大変に多いのです

 

 


★前回推薦しました Bärenreiter も、Durand 、 Henle も、

各々、饒舌な critical commentary を、いろいろな部分について、

たくさん、書いていますが、

この arpeggio については、何故か、何も書いていません。

そして、理由を書かないまま、 arpeggio を付しています。


★おかしなことに、Wiener Urtext と  Bärenreiter は、

ドビュッシーが、この同じ 24小節目 1拍目で、

おかしたケアレスミス (  右手 2番目の音  [ 8分音符 f1 ] に、

置くべき staccato を、1拍目の 16分音符  [ f1 ] のアクセント記号

「Λ」の下に書いた、というミス ) については、 

それを、さも、重大なミスであるかのごとく、勝ち誇ったように、

critical notes で、指摘しています。

この staccato は、16分音符の [ f1 ] に続く、 slur で繋げられた、

8分音符の [ f1 ] に、付けるべき staccato ですので、

ドビュッシーの単純ミスであるのは、誰が見ても、明らかなことです。


★しかし、重要な、同じ小節の最後の音の arpeggio については

何の理由も書かず、黙って、付け加えているのです。


★ドビュッシーのケアレスミスは、自筆譜を見ますと、既に、

その部分に、斜線が引かれており、

ドビュッシー自身も気付き、その斜線で訂正したつもりだったのでは、

ないでしょうか。

その場合、尚更、 arpeggio を書き落としたのならば、

ドビュッシー自身が気づいているはずです。


★このような混乱が起きている理由は、ドビュッシーの自筆譜と

Durand から出ました初版との関係が、いまひとつ、

はっきりしないからです。


★私が、作曲家でありますので、大変によく分かるのですが、

・自筆譜が間違っている場合、

・初版が間違えている場合、

・自筆譜から初版が出る間に、作曲家が考えを変える場合、

が、考えられます。

 

 


★しかし、今回のケースは、どの版にも、

何故、 arpeggio があるのかという、本来、

説明すべき理由や考察が、書かれていません。

日本で出版されています実用楽譜は、

Durand 初版の、孫引きですので、

参考にならないのは、言うまでもありません。


★私は、

①作曲家の自筆譜に arpeggio がない

②作曲家の自演にも arpeggio がない。

③さらに、音楽的分析として、ドビュッシーが

24小節目最後の  ≪ g1 d2 の二和音 ≫ を、

25小節目 1拍目 ≪ 「Λ」 「・」 記号付き d1 b1 の明確な二和音 ≫ に対して、

あたかもアウフタクトのように演奏している、ことから見て、

≪  arpeggio は、必要ない ≫ と、思います。

 arpeggio をつけますと、緊張感が抜けてしまうのです


24小節目最後の二和音、25小節目1拍目の二和音、

2拍目のオクターブの二音に、3ヶ所とも、

「Λ」 「・」 の記号が、付けられており、

この 3つが、一つの纏まりとなるよう、

ドビュッシーは構想していた、と思います。

その最初の音である、 24小節目最後の 二和音だけに、

arpeggio を付けるのは、やはり、無理がありますね。

 

 

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