ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ベラルーシの新聞紙上でゴシケーヴィチが撮影した湿板について掲載

2014-10-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 大変お待たせいたしました。ようやくベラルーシの新聞「ゴラス・ラジムィ」にゴシケーヴィチが撮影したガラス湿板が同志社大学で保管されていたことが記事になりました。
 このガラス湿板には同志社大学の創立者である新島襄が写っています。

 この新聞は現在ネット上で閲覧できます。詳しくはこちらをご覧ください。

 ベラルーシの新聞紙上で大きく取り上げられたこと、大変うれしく思っています。
 150年前にベラルーシ人が日本で撮影した湿板が大切に保存されていることを新聞を通じてベラルーシ人にも知ってほしいです。
 記事の内容ですが、このブログで書いてきたことと内容はほぼ同じです。湿板に行きつくまでのいきさつ、さらにベラルーシではあまり知られていない新島襄についてもきちんと説明してあります。

 新島襄が写っているガラス湿板ですが、現在同志社大学社史センター内で、新島襄が父親に宛てた手紙とともに保管されています。ガラス湿板そのものをデジタル撮影した画像を今回の記事に掲載する予定で、社史センターから許可をいただいていたのですが、結局掲載されませんでした。
 この湿板のデジタル画像を私は拝見したのですが、表面がかなり暗くて、確かに人物が写っているのが分かる程度なのです。
 これを新聞紙上で印刷しても、「何が写っているのか分からない。」と購読者から言われそう・・・と編集部のほうで判断されたらしく、掲載許可を出してもらったにも関わらず、掲載されませんでした。
 私個人の感想としてはこの点が少し残念でもあり、また一方で仕方ないという気持ちの両方です。
 1988年に同志社大学社史センターが発行した論文集「同志社談叢第8号」に掲載された桑島洋一さんの寄稿「新島襄の函館脱出時の写真について」のコピーのほうが結局掲載写真として選ばれましたが、考え方によってはこっちのほうが新聞読者にとって分かりやすいかもしれません。

 それからこの記事に人物が撮影されたガラス湿板の画像が掲載されていますが、これは林儀助という人で、これもゴシケーヴィチが撮影したとされている湿板です。

 1865年6月の撮影会でゴシケーヴィチが撮影した写真のうち現存しているのは3枚ですが、全てかなり暗く写っており、(要するにゴシケーヴィチは撮影に失敗しています。)林儀助さんの湿板も暗かったのですが、ご本人がその後、湿板を複製しており、そのときに露出を明るくするよう調整したのです。
 それが今回新聞に載った写真ですが、3枚あるうち一番きれいな写真なので、掲載採用されたようです。

 ご報告が大変遅くなってしまいましたが、この記事が出るために、同志社大学でコピーをしてくださったり、ベラルーシまで届けてくれたり、日本国内で調べてくださった方々に感謝しています。
 多くの方のご協力とご理解がなかったら、この記事は発表できませんでした。
 撮影したゴシケーヴィチ、撮影を勧めたニコライ主教、被写体となった新島襄の3人を結び付けたガラス湿板が現在を生きる私たちも結び付けてくれたことに感慨を覚えます。