自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

多摩森林科学園2 タヌキの溜め糞

2014年01月11日 | 多摩森林科学園
多摩森林科学園では定期的にカメラのチェックをしています。アナグマやイノシシが写っていました。カメラの近くにタヌキの溜め糞がありました。近づいてみるとギンナンが入っているのがわかりました。





 
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多摩森林科学園1 ウラギンシジミ

2014年01月10日 | 多摩森林科学園
12月14日にまた多摩森林科学園に行きました。とても天気の良い日で、陽気にさそわれてウラギンシジミが飛んでいました。これはオスで力強く飛びます。

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イチョウ

2014年01月09日 | 植物 plants
12月11日の麻布大学です。少しベストタイミングを過ぎていますが、なかなかきれいでした。

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ジャノヒゲ

2014年01月08日 | 植物 plants
ジャノヒゲは雑木林にはどこにでもあるし、庭や畑などにも植えられています。きれいな青い実をつけますが、葉のあいだに隠れていて見つけにくいです。手で葉をかきわけてやっと見つかります。これで本当に動物に散布されるのだろうかと疑問に思うほどです。それにしても、この青のすばらしさ。





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多摩森林科学園 イモムシ

2014年01月07日 | 多摩森林科学園
園を出て石垣の脇を歩いていたら、いっしょに行ったカミさんが
「あれ、なんかへんじゃない?」
といいます。みると大きな芋虫がひょこひょこと進んでいるのですが、なんだか腹が上にように見えます。けがでもして上下がわからなくなっているのかもしれないと思って、ひっくり返して「まとも」な腹を下に向けておきました。しばらくじっとしていましたが、動き出すとまた「背泳ぎ」状態になりました。どうやらこれが常態のようです。これは大発見と思ったのですが、昆虫に詳しい人が、「よく見るよ」といったので、ああ自分は何も知らないのだなと思いました。

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多摩森林科学園 テントウムシ

2014年01月06日 | 多摩森林科学園
さて、また自然観察にもどりましょう。昨年末に、多摩森林科学園のことを書いていたのでした。展示室を出ると、テントウムシがいました。

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切符

2014年01月05日 | うた
あきれたことにまだ歌が続きます。
中島みゆきの「ファイト」の中に

 うっかり燃やしたことにして やっぱり燃やせんかったこの切符

という歌詞があります。今日はこのことについて。

 地方から都会に出た者にとって、汽車(東京の人は電車といいますが、少なくとも山陰では電車はチンチン電車で、ふつうの列車は汽車という)の切符というのは独特の感覚があります。それも今風の名刺サイズではなく、たて3cm、横5cmほどの小さなもので厚みがありました。私は仙台から米子までの切符を買うとき、ちょっと胸がどきどきしました。なくしたら大変なことですから。当時は18時間かかりました。
 もっとも仙台は私にとっては都会ですが、地方都市ですから、地方と都会という意味ではちょっと違います。
 米子にいたとき「出雲」という夜行列車があり、それは東京行きでした。当時の東京はすてきな都市で、都市にあるよさはたくさんあって、都市に避けがたくある悪さはあまりありませんでした。しゃれていて文化的で誰もがあこがれる町でした。「出雲」を見るまなざしには「ああ、これに乗れば東京にいけるのだ」「この汽車は東京につながっているんだ」という思いがありました。

 同じ中島みゆきに「ホームにて」という歌があります。これもよくわからないところがあり、そこが私の想像力を刺激してくれて惹かれるのですが、たとえば次のような歌詞があります。

 ふるさとは 走り続けた ホームの果て
 叩き続けた 窓ガラスの果て
 そして手のひらに残るのは白い煙と乗車券
 涙の数、ため息の数、溜まってゆく空色のキップ
 ネオンライトでは燃やせないふるさと行きの乗車券


 都会での孤独感、本当にほっとできる収まりのなさ、そういったものは若者にはつらいものです。いろいろな思いで都会に出た、あるいは出てしまった若者は、「やっぱり考えが足りなかったかな」「威勢のいいことを言ってでてきたけど、自分には無理みたい」と感じながら、ふるさと行きの切符を買ってはみたが、でも乗る直前になって「いや、やっぱりやめとこう」と逡巡する。詩人としての中島みゆきはその思いを「空色のキップ」ということばに凝縮します。あの硬めで今のペラペラと違うキップはうすい水色をしていました。それを改札バサミで切るので切り痕がありました。私は歌がこの部分にさしかかるとき、「空色のキップ」が目に浮かんで学生時代の味と匂いの混じったような感覚が蘇るのを覚えます。
 心細い異郷と家族やなつかしい友達のいるふるさとつなぐ空色のキップ。汽車に乗ってしまえば楽になるがそれは敗北だ。当時の若者にはそういう思いがありました。
 
 チューリップに「ああ、だから今夜だけは君を抱いていたい」という印象的なフレーズの歌があります。「心の旅」といいます。これに続くのは「ああ、明日の今頃は僕は汽車の中」という歌詞です。財津和夫は福岡ですから、九州から山陽本線に乗って東京に行くわけですが、当時は山陽新幹線はありません。長い旅のはずです。ふるさとで休みをすごした若者が高校時代のガールフレンドに会って楽しい時間を過ごし、あしたはあの東京に行く。もう切符は買っている。東京には夢を求めて行くのだが、でも東京の暮らしはつらいんだ。その思いは歌詞にはありませんが、「明日の今頃は僕は汽車の中」に思いが詰め込まれています。

 昭和の40年から50年くらい、地方から都会に出るという轟々たる流れがあり、そのことを当然とする空気がありました。人にとって生まれ育った土地で大人になり、生涯を過ごすことが一番幸せであるはずなのに、そうさせない空気がありました。そうして、気がつけば親が亡くなり、自分は都会での生活しか知らない人間になり、子供が育ち、ふるさとに帰ろうにも帰れなくなってしまいました。ふるさとに暮らせない根無し草がどこか「これでよかったのかな」という思いを抱きながら人生の夕暮れを迎えています。

 さあて、年末年始の惚けた放談はこれくらいにして、また平凡な自然観察にもどりましょう。

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吉田拓郎 3

2014年01月04日 | うた
そんなつもりはなかったのですが、歌の話題が長引いております。自然好きの人にはまことに恐縮です。

吉田拓郎の歌う「ファイト」は絶品だと思います。全体にこの歌はよくわからんのですが、すごみがあり、わからないなりに、すごいことを歌っているのだと想像させるのが中島みゆきの手法です。見事です。
 その歌詞の中にここだけ、おそらく福岡と思える方言がでてきます。あるいは長崎かもしれんとです。


 薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
 出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
 うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
 あんたに送るけん持っとってよ にじんだ文字 東京行き


この歌詞のおそろしさ。それは東京弁では表現できないものです。中島みゆきはその効果を十分に計算しています。これが東北出身者で、盛岡あたりで家庭に複雑な事情があったとして、こういう凄みはでません。

 そこでです。この部分を歌うときの拓郎がぞっとするほどリアリティがあるのです。それは私が吉田拓郎をいいかげんな奴だと思うことと関係しています。私は鳥取の出身で、父親は大分なので、西日本の言葉の雰囲気がわかります。拓郎が広島出身者だということも知っています。拓郎が「あんたに送るけん」というとき、それは彼の腹の底から語る響きがあります。
 「結婚しようよ」で拓郎は都会育ちの軽い男を演じました。髪が伸びたら結婚しよう -- 東京の若者はあの歌を聴いて、「なんだか軽い感じでいいな。結婚は自分たちが好きだからしていいんだ」と、その気軽さを歌で表現した新鮮な感覚を受け入れたのでした。しかし終戦直後の広島に育った拓郎という背景を知る私には、あの歌を歌う拓郎には嘘が見えてしまったのです。あれは本心ではなく、ただ売れるために作ったのだと。
 東京の人にはわからないことですが、母語でないことばを使うときの恥ずかしさというものがあります。それは自分の心から湧いてでる言葉ではなく、それを一度翻訳するのですが、どうもそれはぴったりではない。旧友にはそういう言葉を使う自分を絶対見られたくないという感覚があります。
 拓郎のしゃべりは魅力的だし、半世紀東京に暮らすのだから、完全に東京弁を使えるのはよくわかるが、それでもなお彼の心の中には
「わしの歌ぁ聞いたかのぉ。よかろうが、そらぁ年季が入っとるけぇのぉ」
という広島弁があるのに、それを
「あのサ、ボクのうた聞いた?いいと思わない?だってサ、年季が入ってるモン」
と言い換えて気取っているのがわかるのです。
借り物の言葉で本当の芸術ができるか。
それをしないあいつはいいかげんだ。そういう思いが私にはあるのです。

以上、理屈っぽい吉田拓郎講座でした。

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吉田拓郎 2

2014年01月03日 | うた

 「クリスマスの約束」の吉田拓郎ではなく、そのものの吉田拓郎についての私の思うことがほかにもあります。いいかげんであるにせよ、作品としてよい歌はよい。「クリスマスの約束」で最後に歌った「人生を語らず」などは佳作というにふさわしい歌です。矛盾することですが、口語で早口の歌詞は、伝統的な「一音符一音」の常識を破壊したもので、その伝統はもともとは文語であればこそ韻文であるということにありました。ふつうのことばでないからこそ心に響くのです。「はじめに言葉ありき」だからおごそかな響きがあるのです。「人生を語らず」は男の心を歌っており、強さと激しさが「語らず」という文語にぴったりで、胸をゆさぶられるような気がします。韻文を否定したということと、それをした拓郎の名曲が文語であることが矛盾するというのはそういう意味です。
 この歌もそうですが、アメリカのフォークソングではまったくなくて、ギターを使ってその影響を受けてはいるが、実に日本的なメロディーで、吉田拓郎らしさがあります。そうして自分の世界を開拓したことはまちがいありません。
 ことろで、私は中島みゆきの「ファイト」を聞いたとき、「これは拓郎だ!」と思いました。そもそも中島みゆきという人はとんでもない人です。想像力が強いというか、なんで帯広育ちの人が九州弁がわかるのか、あの年齢で戦中派の男の心がわかるのか、まったく恐るべきことです。その詩人としての想像力は、その人になりきってしまうことができるのだと思います。彼女は幼女にも老婆にも、少年にも学者にもなれます。
 それで、「ファイト」に出て来る歌詞は壮絶とよべるものなのですが、そのメロディーも歌詞のつけかたも、その歌詞の世界に入り込んだというより、自分が吉田拓郎になりきって作ったのではないかと思うほどです。
 だから、これは拓郎が歌ったらいいのにとっていましたが、なんと実際に拓郎が「ファイト」を歌っているのを知りました。果たしてそれはすばらしいものです。
 「ファイト」についてはもうひとつ。NHKの朝ドラ「おひさま」に出て来て個性的ですてきだなと思っていた女優がいましたが、齢をとると名前が覚えられません。その人がコマーシャルで「ファイト」を歌っていました。これがすばらしい。調べたら満島ひかりという名前でした。ご一聴をお奨めします。
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吉田拓郎 1

2014年01月02日 | うた
正月なので自然から離れた話題をご容赦ください。

 「クリスマスの約束」のことを書きました。東北大学のことがなつかしくて話がそちらに流れてしまいましたが、最初の吉田拓郎とのセッションはすごいインパクトのあるものでした。私は拓郎はあまり好きではありません。なぜなら、全体に「いいかげん」だと思うからです。小田のような一貫性がない。初期には社会的なものも歌っていて、それが大人の価値観をぶちこわせというようなものでした。岡林などと大きく重なるものです。私たちがフォークソングを支持したのは、大人の価値観とは違うものを歌えるからでした。歌詞もメロディーもそうでした。しかし歌で社会が変わるわけはないとも思っていたから、反社会的な歌に重すぎる感じがあって、赤い鳥の民謡をとりあげる姿勢などにも共感しました。それがだんだん貧乏学生の日常を歌うような流れになって、なんだか湿ってきていやな感じがしてきました。そんなときに「結婚しようよ」が出て来て一世を風靡しました。私はあの歌を聴いて、今のことばでいえばチャラすぎると感じました。そして大ヒットしたことにも「売れるなら何でも作るのか」といったいいかげんさを感じたのです。
 でも拓郎の声の硬さ、メロディーのユニークさは歌好きとして好きにならずにはいられないものでした。「うさぎおいしかの山」のように一音に一文字をふりあてる歌が「常識」だったから、PPMの歌の楽譜を見たときはほんとうにびっくりしました。ひとつの単語が1音か2音で歌われていたからです。「これは根本的に違う」と思いました。PPMでそうだからボブ・ディランなどはとても歌えませんでした。「だから英語の歌はカッコいいんだ。とくにフォークやロックには日本語はダサすぎる」と思っていました。拓郎はその日本語の限界を軽々と超え、常識を打破しました(それがサザンやミスチルに影響したのは明らかでしょう)。でも、そうだから、合唱には不向きだったと思います。そういう、音符と字数を対応させないことにも拓郎の「いいかげんさ」を感じました。
 いいかげんさは嫌いだが、歌そのものと声はいい、拓郎は私にとってそういう存在でした。

 「両雄並び立たず」といいますが、小田和正のコンサートに吉田拓郎が来るというのはそういう感じです。でもとてもよかった。拓郎はやせていて、ギターをゆするにも力がないようで痛々しい感じもあったが、音程は確かで、だみ声も健在でした。ゲストの立場をわきまえ、去り際もダンディズムを保っていました。ハーモニーやカノン風のアレンジは小田の力量であり、大袈裟にいえばまったく違う魅力ある歌になっていました。
 小田が番組のあいだのコメントとして「あの拍手をきいて、<やった!>と思った」と語っていたが、まさにそういう迫力でした。それは拓郎の、歌だけでなく、会話の巧みさによって聴衆が魅了されていたからだと思いました。コンサートとはそのときの、その場の雰囲気でしかできない要素があって、だからCDなどでは味わえない感動があるのだと思います。数年前のクリスマスの約束でのキロロの「未来へ」がそうでした。

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