今年も閉じようとしています。まずは、独りよがりな問わず語りにご訪問いただいたたくさんの皆様にお礼もうしあげます。ありがとうございました。
今年についてはあまり振り返りたくもない気持ちが強いですが、今年がどんな一年だったかを考えるのも意味のあることでしょう。
このブログは写真でもっているので、この一年を振り返って一枚を選ぶとするとこれでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/27/edb8e5e8526669886555ffe400fffcd7.jpg)
これは岩手の三陸海岸で、この8月に訪問しました。若い頃よく調査で行ったところで、景色は当時と何も変わりませんが、海岸におりると悲惨な現実がありあました。小さな港町に行きましたが、病院の3階まで窓ガラスが全部割れていました。患者を津波が直撃したことが想像されました。「なんで日本で一年半もたったというのに復興できないんだ。」というもどかしさ、行政への不信がつのります。
選挙では自民党が圧勝し、安倍首相は「美しい日本をとりもどす」といいました。そして実際にやることは「エネルギーはとても大切だから民主党の原発ゼロは白紙撤回する」といいました。
私も日本は美しい国だと思うし、それを後世に伝えたいと思います。しかし安倍首相とは2つの点でまったく違う考えをもちます。
ひとつは美しさは日本の自然の豊かさにあり、そのことへの思いはこのブログの根幹にあり、私の一生を支えて来たのも自然の賛美にあります(もっともそれは国境をこえていますが)。日本列島は中緯度の島国であるがために、寒帯から亜熱帯まで、流氷からマングローブまである、世界でも比類のない多様な自然に恵まれています。のちに日本人になったヒトは2万年くらい前にこの列島に入り、狩猟採集をし、その後稲作をし、平野を改変し、植林をしと、国土を改変しながらくらしてきました。この国の自然はしかし、やさしいばかりではなく、台風、地震、豪雪など災害列島でもありました。農林業に生きて来た日本人は自然と対立はしないで、恐れ敬いながらつきあってきました。里山とよばれる景観はその産物、あるいは「作品」といってよいほど美しいものでした。世界に誇るべき景観といってよいでしょう。
それを放射能汚染してしまった。2万年の歴史になかったことをしてしまったのです。ただ、町や建物が破壊されても、これまでしてきたように日本人はいかに困難なことでも、時間をかけて復興することでしょう。しかし放射能汚染はまったく質の違う災害であり、しかも永遠に続くことです。この汚染を最少限にすることは事故を起こした我々の世代の責任ですが、同時に今後は一切原発を作らないことは絶対にしなければならないことです。安倍首相はこれだけの犠牲を出し、取り返しのつかないことをしながら、それをあえてしようとしているのです。美しい日本をとりもどすどころか、永遠に続く穢れを一度ならずおこそうとすることをしようとしているのです。これは列島に対して、地球に対して倫理的に許されざることだというのが私の考えです。
日本の美しさのもうひとつは自然だけでなく、人の心にあると思います。人は私たちを個性がないとか、ユーモアがないとか、くそまじめだとか、アガリ症だとかいろいろケチをつけます。それらはみな当たっています。ではなぜそういう国民性が産まれたか。やはり自然や社会の産物だと思います。自然に対する畏敬についてはすでに書きました。肉体的にも平均的に小さく、筋力は弱く、視力が悪いなどの特徴は認めないといけないでしょう。哺乳類に共通なこととして島では小さい傾向があるので、生物学的な背景はあるのだと思います。私は日本の自然が豊かだからこそ、多少筋力が弱くても、目が悪くても、生き延びて来れたのだと思っています。モンゴルに行くと、「ここでは弱かったり、目が悪かったら死んでしまう」と思うことがあります。稲作は大規模な土木作業を要し、田植えも稲刈りも協力が必要です。そのためには勝手な意見をいう奴は敵です。非協力的な人間は排除しなければ共同作業は成り立ちません。そういう生活が数百年も続けば没個性的な人間が主流になるのは必然でしょう。個性的であることは今でこそ、よい意味で使われますが、稲作社会においては悪そのものでした。農作業は忙しく、動植物はことばでごまかすことはできません。ヘラヘラ笑ったり、口先で人をだましたりする軽薄な人間は排除されます。そういう人間よりは寡黙で勤勉で誠実な人間が評価されます。そういう人は大衆の前で話したりすることは苦手で尻込みしてしまいます。
そういう国民性を、まったく違う歴史や社会をもつアメリカと比べて、違うからよくないとすれば日本人はよくないことだらけです。しかし、それらは違いであって善し悪しではないことに気づくべきです。アメリカ人のような国民性ではこの災害列島で米作りはできなかったはずです。
私はそういう日本人の特徴を全部よいとは思いませんが、協調性や互助性という部分は「美しい」と思います。そして農民のもつ、産み出す者は産み出した物を粗末にしない態度も美しいと思います。いまの日本は生産する人よりも消費する人が中心になっています。というより、国そのものが消費することを軸にしています。食料自給率の低さはそれを象徴的に表しているでしょう。資源やエネルギーを浪費することを重要と考えるような社会を私は好みません。安倍首相はしかし「エネルギーはとても大切だから」と、そちらを見直すことはなく、それを前提として原発を含むエネルギー確保を政策とするようです。
それらは「美しい日本をとりもどす」ことにならないばかりか、まったく逆を向いていると思います。毎週多数の人が原発反対のデモに結集し、国民の8割が原発ゼロといっているのに、首相がまったく違う方向を推進しようとしている。不幸なことです。これをどうすれば次世代に顔向けできるか、出口が見えないまま重苦しい気持ちをかかえながら年を閉じようとしています。
今年についてはあまり振り返りたくもない気持ちが強いですが、今年がどんな一年だったかを考えるのも意味のあることでしょう。
このブログは写真でもっているので、この一年を振り返って一枚を選ぶとするとこれでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/27/edb8e5e8526669886555ffe400fffcd7.jpg)
これは岩手の三陸海岸で、この8月に訪問しました。若い頃よく調査で行ったところで、景色は当時と何も変わりませんが、海岸におりると悲惨な現実がありあました。小さな港町に行きましたが、病院の3階まで窓ガラスが全部割れていました。患者を津波が直撃したことが想像されました。「なんで日本で一年半もたったというのに復興できないんだ。」というもどかしさ、行政への不信がつのります。
選挙では自民党が圧勝し、安倍首相は「美しい日本をとりもどす」といいました。そして実際にやることは「エネルギーはとても大切だから民主党の原発ゼロは白紙撤回する」といいました。
私も日本は美しい国だと思うし、それを後世に伝えたいと思います。しかし安倍首相とは2つの点でまったく違う考えをもちます。
ひとつは美しさは日本の自然の豊かさにあり、そのことへの思いはこのブログの根幹にあり、私の一生を支えて来たのも自然の賛美にあります(もっともそれは国境をこえていますが)。日本列島は中緯度の島国であるがために、寒帯から亜熱帯まで、流氷からマングローブまである、世界でも比類のない多様な自然に恵まれています。のちに日本人になったヒトは2万年くらい前にこの列島に入り、狩猟採集をし、その後稲作をし、平野を改変し、植林をしと、国土を改変しながらくらしてきました。この国の自然はしかし、やさしいばかりではなく、台風、地震、豪雪など災害列島でもありました。農林業に生きて来た日本人は自然と対立はしないで、恐れ敬いながらつきあってきました。里山とよばれる景観はその産物、あるいは「作品」といってよいほど美しいものでした。世界に誇るべき景観といってよいでしょう。
それを放射能汚染してしまった。2万年の歴史になかったことをしてしまったのです。ただ、町や建物が破壊されても、これまでしてきたように日本人はいかに困難なことでも、時間をかけて復興することでしょう。しかし放射能汚染はまったく質の違う災害であり、しかも永遠に続くことです。この汚染を最少限にすることは事故を起こした我々の世代の責任ですが、同時に今後は一切原発を作らないことは絶対にしなければならないことです。安倍首相はこれだけの犠牲を出し、取り返しのつかないことをしながら、それをあえてしようとしているのです。美しい日本をとりもどすどころか、永遠に続く穢れを一度ならずおこそうとすることをしようとしているのです。これは列島に対して、地球に対して倫理的に許されざることだというのが私の考えです。
日本の美しさのもうひとつは自然だけでなく、人の心にあると思います。人は私たちを個性がないとか、ユーモアがないとか、くそまじめだとか、アガリ症だとかいろいろケチをつけます。それらはみな当たっています。ではなぜそういう国民性が産まれたか。やはり自然や社会の産物だと思います。自然に対する畏敬についてはすでに書きました。肉体的にも平均的に小さく、筋力は弱く、視力が悪いなどの特徴は認めないといけないでしょう。哺乳類に共通なこととして島では小さい傾向があるので、生物学的な背景はあるのだと思います。私は日本の自然が豊かだからこそ、多少筋力が弱くても、目が悪くても、生き延びて来れたのだと思っています。モンゴルに行くと、「ここでは弱かったり、目が悪かったら死んでしまう」と思うことがあります。稲作は大規模な土木作業を要し、田植えも稲刈りも協力が必要です。そのためには勝手な意見をいう奴は敵です。非協力的な人間は排除しなければ共同作業は成り立ちません。そういう生活が数百年も続けば没個性的な人間が主流になるのは必然でしょう。個性的であることは今でこそ、よい意味で使われますが、稲作社会においては悪そのものでした。農作業は忙しく、動植物はことばでごまかすことはできません。ヘラヘラ笑ったり、口先で人をだましたりする軽薄な人間は排除されます。そういう人間よりは寡黙で勤勉で誠実な人間が評価されます。そういう人は大衆の前で話したりすることは苦手で尻込みしてしまいます。
そういう国民性を、まったく違う歴史や社会をもつアメリカと比べて、違うからよくないとすれば日本人はよくないことだらけです。しかし、それらは違いであって善し悪しではないことに気づくべきです。アメリカ人のような国民性ではこの災害列島で米作りはできなかったはずです。
私はそういう日本人の特徴を全部よいとは思いませんが、協調性や互助性という部分は「美しい」と思います。そして農民のもつ、産み出す者は産み出した物を粗末にしない態度も美しいと思います。いまの日本は生産する人よりも消費する人が中心になっています。というより、国そのものが消費することを軸にしています。食料自給率の低さはそれを象徴的に表しているでしょう。資源やエネルギーを浪費することを重要と考えるような社会を私は好みません。安倍首相はしかし「エネルギーはとても大切だから」と、そちらを見直すことはなく、それを前提として原発を含むエネルギー確保を政策とするようです。
それらは「美しい日本をとりもどす」ことにならないばかりか、まったく逆を向いていると思います。毎週多数の人が原発反対のデモに結集し、国民の8割が原発ゼロといっているのに、首相がまったく違う方向を推進しようとしている。不幸なことです。これをどうすれば次世代に顔向けできるか、出口が見えないまま重苦しい気持ちをかかえながら年を閉じようとしています。