2025年5月27日
乙女高原のフクロウの食べ物分析
高槻成紀
乙女高原から900メートルほど離れた林の下で植原彰さんがフクロウのペリット(図1)を拾ったとのことで、分析しました。ペリットは2025年4月20日が1個、5月1日が1個、5月20日が4個の6個です。

図1. フクロウのペリット。2025年5月1日採取
分析の結果は表1の通りで、草原にすむハタネズミ、森林にすむアカネズミ属、モグラ(アズマモグラ)、カエルが検出されました。これらを含み検出したものを図2に示しました。
表1. フクロウのペリットからの検出物の数. +は多数




図2. フクロウのペリットからの検出物
それ以上のことは現段階ではわかりませんが、ここのフクロウは森林内でアカネズミ属を食べるだけでなく、おそらく乙女高原まで行ってハタネズミを捕えることもあることを示唆します。モグラもどちらかと言えば草原的な環境にいるので、これも乙女高原で捕えた可能性があります。カエルは種類がわからないので池や水路にいるタイプのものか、林の下の地面にいるタイプのものか不明ですが、何らかのカエルを食べていたことは確かなので、興味深いです。植原さんによると、カエルがまとまって食べられていたということは、「カエル合戦」(メスを求めてオスが集まってメスに抱きついて大混乱になる)をするカエルで、ヒキガエルかヤマアカガエルかだろうということで、今後特定できるかもしれません。
このように分析結果にはわからないことの方が多いのですが、わからないことは他にもあります。1つは5月1日のペリットが大きく、直径3センチ、長さ8センチもあったことです。そして中に3つのネズミ頭骨がありました。
もう1つは5月20日のペリットで、カエルの骨ばかりでしたが、それも四肢の骨ばかりで、椎骨や頭骨などはないという不思議なものでした。
可能であれば、今後もペリットを回収してここのフクロウが季節的に食べるものを変えるかどうか追跡したいものです。
津田塾大学の樹木が伐採されるのをみたことは報告しました(こちら)。その時、伐採された樹木をどうしたかと訊いたら、ほとんどは処分したが、一部は残してあるというのでみに行ったら大きな樹木が並んでいました(こちら)。これもいずれは処分するということだったので、できたら一部を薄いものでいいから確保してもらえないかと交渉しました。多分大丈夫だと思うということでしたが、昨日(4/11)連絡があって確保したので鳥に来てもよいということでした。それで早速引き取りに行きましたが、暑さは10cm程、直径は1m近くもあり、私の軽自動車に乗るかどうか心配なほどでした。座席を倒して後ろのドアからなんとか入れて持ち帰りましたが、それからが大変でした。それでも、廊下に新聞紙を並べ、円盤を回転させながらなんとか書斎に持ち込みました。

これからカンナを使いながら年輪数を読み取ろうと思いますが、その後これらをどうしたものか・・・。それはおいおい考えるます。黙っていたら消えてしまうものですから、なんとしても確保することを優先しました。

アオイスミレ 25.3.21

アズマイチゲ 25.3.21

オオイヌノフグリ2 25.3.21

コハコベ 25.3.21

タチツボスミレ 25.3.21

タネツケバナ 25.3.21

ニリンソウ 25.3.21

ノジスミレ 25.3.21

ミスミソウ 25.3.21
「小金井市長への問責決議を可決」との見出しで6日の議決が紹介された。市長報告に不適切な引用があり、市長報告を撤回したことで市政に混乱を招いた責任を問うもので、市長は「厳しい決議を受け止めている」とした。記事では、これまでの経緯をまとめ、市長は道路中止・見直しを公約としたが、2月17日の報告で「道路の必要性は否めない」と公約を翻したこと、それを個人的な考えと発言したことも撤回したとしている*。そして、道路計画は報告提出前のフラットな状態に戻ったとしているという。
*3月5日の朝日新聞は市長報告は撤回したが、道路の必要性は変わらないと発言したとしていた。
今、残っているチョウはかつての数を富士山に例えれば、小指の先ほどもないということになる。私の心は残った小指の先ではなく、失われた富士山の方にあった。というのは私は昆虫が溢れるようにいた昭和の日本で育ったからだ。それを半世紀余りの日本の社会が抹殺した。
力のこもった公園のため、質問の時間はなく、お開きとなったので、私は奥本先生に思い切って話しかけた。
「奥本先生ですよね?」
「はい」
「愛読者です」
立ち話ではあったが、次のような話をした。
++++++++++++++
私は昭和二十四年生まれで、先生よりは少し後輩ですが、昆虫が溢れるようにいました。矢後さんたちの努力は素晴らしいですが、あの昆虫をいなくした日本人のことを考えるんですよ。
江戸時代の農民は害虫に苦しめられながらも供養をしたそうですね。皆殺しにすれば楽になるかもしれないが、それはお天道様の喜ぶことではないということを感じる心があったからだと思います。蚊取り線香はかつては「蚊遣(や)り」といったそうですね。殺さないで追い払うということだと思います。私が子供の頃は殺虫剤を部屋の中で噴霧するようになっていました。我が家で使っていたのは「センメツ」という名前でした。子供だからカタカナで覚えていましたが「殲滅」ですよね。あの頃から日本人は自然を畏れなくなったように思います。それでも昆虫は溢れるようにいました。
その後の日本は蚊帳もしなくなったし、殺虫剤がなくても困るほどのハエやカもいなくなりました。昆虫好きとしては実に寂しくなりました。
奥本先生は
「みんなトランプみたいになってしまいました」
といい、運営しておられる「虫の詩人の館にも遊びに来てください」
と言われ、お別れした。
少年の頃のように胸がドキドキした。
死体の除肉をするとき、砂嚢を取り出して輪切りにしたら赤い種子がいられました。

イカルの砂嚢の断面
赤い種子?思い当たりません。取り出して水洗したらサクラの種子であることがわかりました。赤い色はサクランボの果肉か果皮からついたものとおもれます。

検出されたサクラの種子