自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

寝袋

2013年11月30日 | その他 others
アファンの森の調査に行って帰って来た日、例によって週末に家族が集まりました。この日は長女の家に集まることになりました。じいさんは山からそのまま行きました。思いついて寝袋を出して孫たちに説明しました。
「この中にこう入って眠るんだよ」
初めて見たものなので孫たちは目を丸くしていました。
「なんだかいも虫みたいだね」
そういえば子供たちは「腹ぺこあおむし」という絵本が大好きです。それからはもうたいへん、しばらくは寝袋に入ってあおむしになりきって大騒ぎでした。







しばらくあそんだあとは、お楽しみのデザートの時間。子供たちはぺろっと平らげます。じいちゃんが子供の頃はこんなおいしいお菓子はなかったなあ。いとこどうし、仲良くたべています。



あ、もう一人忘れていました。仲間にくわわった8ヶ月君です。今のところ、一人っ子だけど、毎週にぎやかな中で過ごしているから、ふつうの一人っ子とはずいぶん違うと思います。それにしても、赤ちゃんの写真はぶれがちです、すみません。




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福島 研究者として

2013年11月29日 | 研究など research
私は福島の被曝地のイノシシの食性を分析することになりました。なぜそういうことになったかというと、私にとって3.11は人生観を変えるほどの大きなことでした。仙台で十代の終わりから40代までを過ごし、調査地が海岸部だったので、そこが被害を受けたということの衝撃、自分が結果として無批判に原発建設を容認してしまっていたことへの後悔、この国が災害列島であることを知りながらそれを浅知恵で「自然を押さえ込もう」としてきたわれわれ世代の自然観への反省、そういうことが背景にあり、この問題に対してなんとか役立ちたいという強い気持ちがありました。そのひとつとして、一市民として「ナラの木」という詩の紹介をしています。これは被災された人の心の支えにしてもらえるのではないかという気持ちからです。しかし研究者として何かできないかという気持ちもありました。昨年、職場の麻布大学で日本哺乳類学会を開催し、そのときに福島県の獣医さんで溝口先生という方が発表されました。そのときに私で役立てることがあったら声をかけてくださいといっていました。水口先生はすばらしい研究や保護活動をしてこられましたが、さまざまなことを考えた末、イノシシについて詳細な調査をすることにし、その中に胃内容物の分析も入れておられて、私のことを覚えておられたようで、声をかけてもらいました。
 フクシマ問題は被害問題としてとらえられています。もちろん私は東京電力という加害組織が断罪されなければならないと思っていますし、被害者である福島県の人々に強く同情をします。しかし、先月出版した「動物を守りたい君へ」のなかにも書きましたが、この問題を空の上からながめ、冷静に客観視したとき、加害者は東電だけではなく、私たち日本社会全体であり、日本列島とそこにすむ動植物が被害者なのだということに気づきます。
 私は具体的にはイノシシの食べ物を調べるという作業をすることを通じて、なぜこういう食性をもっているかということから、読み取れることがあります。イデオロギーや経済の論理を語るのではなく、事実を示すを通じて、イノシシになりかわって、今の福島県の土地で起きていることの意味を伝えること、それが私のミッションだと思います。
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福島 分析

2013年11月28日 | 研究など research
イノシシの胃内容物を分析していますが、一部結果を紹介します。一番多いのは何だと思いますか?
実はお米です。稲籾がよく出て来ますし、米そのものも出て来ます。サンプルが九月のものだということもあります。広葉樹林で捕獲されたものからはミズキの種子がよく出ます。ほかの種子が出て来てもいいはずなのですが、ミズキばっかりです。種子の形が特徴的なのでわかるのです。ただし、驚いたことにほぼ全部が破壊、粉砕されています。イノシシの臼歯はほんとうに臼のような形で、強力に粉砕できるようです。数百にひとつ、割れていないのを見つけて撮影しました。そのほかトウモロコシが出て来たサンプルもありました。「イモ虫」と仮称しているムシも出て来ましたが、どうも昆虫の幼虫ではなさそうです。脚が6本ありません。妙に扁平です。たくさん出て来たので、イノシシが地面を掘って食べたものと思われます。

これで福島の話題を終わります。


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福島 イノシシ

2013年11月27日 | その他の調査地
この調査は、放棄された農地でイノシシが増えて、被災前と群落利用などが変化したのではないかということから、帰農に備えてイノシシを例に野生動物との向き合い方についての調査をするという計画の中に位置づけられています。その趣旨で、私たちが分担する予定のイノシシお食性分析をするため、現地を見て、土地勘を得ておこうということを目的にしました。
 現地を見ながらだいたいの感覚はつかんだのですが、予想もしなかったのに、真っ昼間に田んぼの脇にいるイノシシを見つけました。望遠レンズを用意していなかったので、コンパクトデジカメでしか撮れませんでしたが、こんな感じでした。これが私たちの対象動物になるのだ、と気持ちを新たにしました。


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福島 雑草

2013年11月26日 | その他の調査地
きのう紹介した集落は山あいでしたが、そこから低い場所におりたら、広い田圃が広がり、県道クラスの大きな道路が走る平野になりました。田んぼも広く、米産地であることがわかります。しかしこの広い田圃にも稲はなく、セイタカアワダチソウやヒメムカシヨモギが大群落を作っていました。ススキが繁茂するのも哀しいものですが、それでも日本の野草です。しかしこれらの草は外来雑草であり、なにか日本の伝統産業がけがされたような不愉快な思いがしました。「汚された」、いや、まさにそのことがこの土地で起きたのです。

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福島 離村

2013年11月25日 | その他の調査地
ある集落に行ったとき、峠を越えたら急に景色が変わりました。いや、地形的にも、植生的にもなんの違いもないのですが、行政的な境界で、ある市からある町になると、農地のようすが変わったのです。放射能汚染により、この市までは大丈夫だが、この町は立ち退きが執行されたということです。家はそのままで、いまにも家から人が出てきそうなところなのに、シーンとしています。ゴーストタウンとはこのことです。田んぼは放棄され、ススキが伸び放題に伸びていました。
 先祖から受け継いだ田んぼを、まったく理不尽な理由で手入れを放棄せざえうをえなくなり、こののどかな集落を去らねばならなかった人たちの思いを察すると心が苦しくなりました。


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福島 除染

2013年11月24日 | その他の調査地
阿武隈山地は平坦なので、主尾根というものがなく、小山を超えると谷があり、流れが会って、その先にまた小山があって、川が逆に流れていたりして、自分がどのあたりにいるのかわからなくなります。そんな沢筋を走っていらら、見慣れないものがありました。



除染した土壌を入れた黒い袋で、「ああ、こういうことか」と重い気持ちになりました。その後、あちこちでこれを見ました。私たちはだんだんと東のほうに進んで行きました。
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福島 クズ

2013年11月23日 | その他の調査地
放棄田んぼのわきに繁茂していたクズの話題を続けます。クズというのは秋の七草のひとつでもあり、まあ、好感をもたれている植物といっていいでしょう。ススキもそうですが、古代の日本人の花への好みはほんとうにすばらしい。いわゆる華麗で可憐な花はほかにもいろいろあるのに、こんな大きな葉の植物を選ぶなんて、大胆です。クズは紫色の花、この花はとても強い香りがします。私にはファンタグレープにそっくりの匂いだと感じられます。
 でも、これは油断のならない植物でもあります。ご覧の通り、あらゆる植物を被ってしまいます。スギの林なども飲み込むように被ってしまい、そうなると被われた植物のほうは光を奪われて元気がなくなってしまいます。
 つる植物というのはずるいといえばずるい。植物は葉で光合成をしますが、光を得るためにはいろいろな工夫が必要です。そのためには高い位置にあるほうが有利です。そのために茎を伸ばします。葉で生産したものを茎に投資しないといけませんが、生産量には限りがあるから、そのバランスが問題になります。ススキのような草本は一気に伸びて繁茂しますが、茎はありません。パッと伸びてパッと枯れます。低木であればある程度茎に投資し、翌年は茎の先から葉を出せばよいことになります。木はゆっくりですが、低木よりももっと茎(幹)に投資し、何年もかけて低木よりも高くなります。だから撹乱があると草本に有利、木には不利となります。それぞれに一長一短があり、どちらが繁栄するかは状況によります。ところがつる植物はこの「自立」するための丈夫な茎を作ることなく、ほかの木が時間をかけて投資をした幹をちゃっかり利用して、するすると登って光を得てしまうのです。
 人間の価値観を投影してずるいとか手堅いとかいうのは意味がありません。その動植物にとって最大限の有利さ、つるでいえば、高いところで光を得ることを最低の投資で実現したのは、見事というほかありません。
 そのクズを目で見て楽しんだことの陰には、農民が勤勉に農地の管理をしていたということがあります。日本の気候ではちょっと手を抜くとあっというまにクズが被ってしまうのです。勤勉な農民はクズがほかの植物を被わない程度に管理していたということです。


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福島 測定

2013年11月22日 | 読後感想
福島県の職員の方に案内してもらいました。線量測定器を持参して、あちこちで測定していました。人体に影響のあるようなレベルではありませんが、しかし確実な数値が出ていました。私もだんだんと「このきれいな景色が汚染されているのだ」という実感が湧いてきました。




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「動物を守りたい君へ」の感想

2013年11月21日 | 読後感想
獣医さんらしい人が以下のような文章をどうやら獣医学を学ぶ学生に向けてかいておられます。なんと出版直後に書かれたものです。にもかかわらず読み込みが深く、日頃からこのことを考えておられることがわかります。

http://takehiro-vet.sakura.ne.jp/wordpress/archives/12876

独り言
管理人:名古 孟大
2013.10.19

獣医師になりたい君へ。
 高槻成紀さんの『動物を守りたい君へ』(岩波ジュニア新書)という本が出た。
 印象的な導入部から始まる本である。
 動物生態学者である著者の研究室を訪れた女子中学生が、著者に質問をする。
「獣医になって、事故などで傷ついた野生動物を助けたいが、どのような勉強をすればいいのか?」
 と。
 それに対して、著者は、1年間で交通事故に会うタヌキの個体数や、傷ついた動物が野生復帰できる可能性について伝えた上で、こう答える。
「野生動物を守るために本当に大切なことは、事故などで傷ついた野生動物を治療することではなく、動物が事故に遭わないようにすることだ」
 野生動物を助けたいのなら、目指す方向が間違っているぞ、というわけだ。
 小・中学生向けの新書レーベルによくこれが採録されたな、というくらいの、なかなか過激な書き出しである。
 しかし、著者の言っていることは、間違ってはいない。
 真理と申し上げてもいいくらいのものだ。
 漁網に巻き込まれたウミガメを治療したり、交通事故にあったシマフクロウの治療をしたり、といった活動は、ドラマチックなために世間の耳目を集め、「野生動物の保護とはそういうものだ」というイメージをもたれやすいけれど、そういった活動は、野生動物の保護の本質ではない。むしろ、「本質的な活動」がうまくいっていない場合の、敗戦処理に近い。本質的な活動とはもちろん、著者の言う、「動物が事故に遭わないようにすること」である。どんなにいい保険に入っていても自動車事故を起こさないのがいちばんであるように、動物だって傷つかないのがいちばんだからだ。
 獣医学は、動物が交通事故に遭わないための環境設計については、なんの知見ももたらさない。
 野生動物を保護するための本質的な活動を担っているのは、私たち獣医師ではなく、生態学者や行動学者の方々である。
 だから、本気で、「野生動物を守りたい」と考えるのなら、そういう方面の勉強をするべきである。獣医学ではなくて。いや、獣医学的知識が役に立つこともなくはないが、それは、生態学的知見を補助するものであって、単品ではあまり役に立たないのだ。
 野生動物の分野で活躍してる獣医さんもいるでしょう、と言うかもしれないけれど、よく見て欲しい。そういう人はその足に、二足の草鞋を装着しているはずだ。
 獣医師の仕事は、基本的には、人間社会の内側で、産業動物や伴侶動物の健康管理をすることと、衛生的な環境を維持することに限られる。それ以外のことは、「社会から求められるから」助力をするのであって、自らしゃしゃり出る類のものではないのである。
 では、そういう場所では中心的な役割を担っているのか、というと、そうではない場合が実はしばしばある。
 やっぱり、「敗戦処理」をしていることはけっこうあるのだ。
 たとえば、乳牛に発生する病気のほとんどは、「商用に牛乳を生産する」ということそのものに起因するものである。日本中に、安価で安全な牛乳を安定供給するために、乳牛には、年間で8000リットルくらいの牛乳を生産することが求められているが、そのこと自体が、彼女の身体に様々な障害を発生させるのである。日本における乳製品の消費量が半分くらいになったら、あるいは私たちが牛乳に倍の値段を払うようになったらたぶん多くの問題は解決するはずで、つまりそもそもの問題は我々の社会設計にある、ということになる。社会設計に不備があるので、その矛盾を解決するために獣医師が働いているのである。
 あるいは、チワワという犬がいる。愛玩用として極端に小さく改良されたために、しばしば難産である。獣医師は分娩を介助し、あるいは帝王切開をし、母子の生命を守るわけだが、この問題は、チワワがもっと大きくなればおそらく解決するはずで、つまり問題の根は「小さい犬が欲しい」という我々の欲望の内にある。その欲望と、「犬」という生物の物理的生理的制約との間に矛盾があるので、それを解決するために獣医師が働いているのである。
 ここでも、ほんとうに大切なことは、「乳房炎を治したり難産を助けたりすること」ではなく、「乳房炎になるほど牛に負荷をかけなくてもいい社会を作ること」や「難産になるような品種を作出しないこと」の方である。そして、そういうことを実現するためには、いわゆる獣医であるよりは、官僚や政治家になった方がいいかもしれない。
 動物を守るために獣医になる、というのは、崇高な志ではある。そのような志を持つ人は、「他のことよりは動物好きだからなんとなく」というぼんやりした理由でこの道を選んだ私に比べたらほとんど聖人だとも言える。
 が、しかし。
 「動物を守る」という仕事には、獣医師を登場させる前にやるべきことがたくさんあり、獣医師を登場させないことが「成功」である場合がたくさんある、ということは、心にとどめておくべきだろうと思う。
 『動物を守りたい君へ』という本には、そのためにどうすればいいのかを考えるためのヒントが詰まっている。
 受験勉強も佳境かもしれないが、余裕があったら読んでみてくれ。
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