自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

カヤネズミ

2008年11月29日 | 動物 animals
ススキ群落をかき分けながら進むと、ジュウシマツの巣のようなものがありました。これは鳥の巣ではなく、カヤネズミというネズミの巣です。カヤとは茅あるいは萱と書いて、ススキに代表されるイネ科のことです。カヤネズミは茅場にいるネズミということですから、里山の動物といえます。体重が10gもない、ミニミニネズミで、とても愛らしい姿をしています。手としっぽでススキの茎をつかんで地面に降りることなく器用に移動します。そしてネズミの巣とは思えない球形の巣を作ります。鳥の巣と違うのは、生きたススキの葉をそのまま編んで巣にするので、葉は茎について生きたまま編み込まれる点です。カヤネズミはユーラシアに広く分布していて、イギリスでは保護活動も盛んです。日本のカヤネズミの命運は里山のありかたにかかっています。ゴミ処分場がカヤネズミの避難所のようになっているのはちょっと皮肉なことです。


カヤネズミの巣 2008.11.7 東京都日ノ出町
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ススキ群落

2008年11月28日 | 研究など research
日の出処分場のススキ群落の中に入ると2メートル半もあるススキの中に埋もれてしまい、歩くのもなかなかたいへんでした。かつては屋根を葺くのにススキを使ったので「茅場」として利用・維持されました。家畜の餌としても必要でした。「秋の七草」はこういうところにあり、ススキはそのメンバーでもあります。ここには七草のうち、ススキ、クズ、ナデシコ(カワラナデシコ)、ハギの4つがありました。まあまあというところ。この30年ほどのあいだに東京で一番減少したのが、雑木林などではなくススキ群落なのだそうです。「守らないといけない」理由がみあたらないからです。




ススキ群落とススキの穂 2008.11.7 東京都日ノ出町
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ゴミ処分場

2008年11月27日 | 研究など research
11月7日に東京の西にある日ノ出町というところで調査をしました。ここは東京都が出した膨大な量のゴミを処理し、その上に土をかぶせてグランドなどにしたところです。一部は動植物の再生のためにビオトープとして使おうとしています。グランドを取り巻く周囲の雑木林の黄葉がきれいで、空には秋らしい巻雲が流れるように広がっていました。
 私が仙台に住んでいたとき、東京のゴミを不法に捨てに来た車があって、問題になりました。自分が東京に住むようになるとは思ってもいなかったので、「自分のゴミくらい自分で処理しろ」と腹を立てました。物資もエネルギーも産み出さないでいて、消費したものを外に捨てるというのは、ごく単純に考えて身勝手なことです。そういうことがあったので、東京に来て、東京のゴミが東京に処分されているのを知って、「なかなか」と見直す気持ちになりました。しかも土でふたをする前の、まさにゴミ捨て場だったときから、ここの動植物を18年も継続調査している人たちがいたのです。そういうことがあって、私はこの土地の使い方について生態学の立場からアドバイスすることになりました。


日の出処分場のまわりの山 2008.11.7 東京都日ノ出町
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ノイバラ果実

2008年11月26日 | その他の調査地
八ヶ岳の木の実は2週間ほどのあいだにぐっと少なくなり、残ったものもしなびてしまっていましたが、ノイバラの赤は健在でした。私が調査に入った日は未明が0℃だったということですから、日中は5℃かそれ以上あったはずですが、夏モードから切り替わっていない体には寒さが染み、駅のホームに立っているのもつらく感じられました。

ノイバラ 2008.11.5 長野県野辺山
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カラマツ林

2008年11月25日 | その他の調査地
八ヶ岳のカラマツがは黄葉にはやや時期を過ぎていましたが、直線的なラインがきれいでした。私のイメージの中ではもう少し黄色い葉のように思っていましたが、意外に赤みの強い褐色でした。




カラマツ林 2008.11.5 長野県野辺山
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最高地点

2008年11月24日 | その他の調査地
11月の初めにまた八ヶ岳に行きました。野辺山というところは国鉄*の最高地点があることで知られていますが、その辺りを電車が走ったとき、八ヶ岳が見えました。写真では視野が切り取られますが、その広大さを察してください。


最高地点 2008.11.5 長野県野辺山

* 例によってよけいなことを付け加えると、私は国鉄がJRと名を変えた辺りからなんだか世の中がいかがわしくなったように感じています。なにがJRだ。「国鉄マン」と胸を張っていた人が「JRマン」といえるか。なにか「公」よりも「私」が妙な形で幅を効かすような感じというか、社会のために役立つことを見下げるような風潮というか、そういう感じが気に入りません。あの頃から日本人が水を買うようになり、どうもあの辺で経済的な豊かさに魂を売ってしまったような気がします。そして私はこうるさい爺さんになってきました。
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黄葉

2008年11月23日 | 植物 plants
金華山シリーズを終わります。

黄葉のことは何度か書きましたが、今日はいつになくちょっと室内的な話題。黄葉を拾うときに、それを「こんなふうに配置したらおもしろいかもしれない」と思って集めると、また楽しいものです。文字通り無数にある違う種の葉を、自分の好みで選んで配列して、それは自然そのものではありますが、本当の自然界ではありえない組み合わせや配列ができます。この額にはサクラの紅葉とヤマブキのまだ緑のものも混ぜて、グラデーションを作ってみました。ガラスで圧すると二次元になって、サクラの葉の先端のチョンと尖ったところとか、ヤマブキの葉の端正さが改めてわかります。

黄葉のグラデーション 2008.11
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マムシ

2008年11月22日 | 動物 animals
今回はヘビをよく見ましたが、マムシにも会いました。倒れた木の下でとぐろを巻いていました。マムシはほかのヘビに比べて、逃げません。秋に見ることが多いように思います。「エラ」が張っていて、毒蛇らしい感じです。
 以前、親しくしていた院生が伊豆で調査をしていてマムシに噛まれ、おおわらわで宿舎に戻った「武勇伝」を聞かせてくれたことがありますが、先日その彼が環境省のお役人になってテレビに出てきました。


マムシ 2008.10.27 宮城県金華山
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ヘビ

2008年11月21日 | 動物 animals
ヨウシュチョウセンアサガオから思わぬ横道にそれましたが、話題は金華山がつづきます。金華山の山道で小さなヘビを見つけました。動きがなかなかすばやく、見たことのないもののように感じました。ちょっと怖かったけど、毒蛇ではないので、つかまえました。こういうときチャック付きポリ袋は便利です。入れて写真を撮りました。そうしないと動きが速くて写真には無理でした。体の割には顔が大きく、目が怖い感じでしたが、研究室に持ち帰ったら学生は「かっわいー!」といって抱いて(?)いました。シマヘビの若いのだそうです。


子供のシマヘビ 2008.10.28 宮城県金華山
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ダトゥーラの連想7

2008年11月20日 | その他 others
 これでシメにしようかな。
 最初のところで若尾文子がモノクロ映画でみたほうが色香があったということについて。写真は白黒と思っていた時代に、カラー写真があらわれ、すごいなと思いましたが、でも正直言って「ホンモノではない」とも感じました。いま当時のカラー写真をみて白黒よりよいと思う人はいないのではないでしょうか。
 しかし、言いたいことは写真技術のことではありません。人間の感性と制約ということです。モノクロは色彩がないという制約を受けています。でも、「にもかかわらず」ではなく、そうであるからこそ、そこに魅力があるだけでなく、しばしば本物以上に魅力が生じることがあるということです。彫刻に色をつけるとホンモノに近づくのかもしれないが、よくなくなり、ブロンズや木彫のほうがリアリティがあるのも同じ理由によると思います。
 「白黒よりはカラー」というのは「大きいことはよいこと」的な、あるいは「大は小を兼ねるのだから大きければいい」という、粗野さとつながります。微妙な違いをとらえることをせず、平均的な人間を丸めてイメージして、それと違う者は「変わり者」とレッテルを貼るような粗雑な精神に通底します。
 私はむしろ抑制されることによって、人間の深い喜怒哀楽が純化されるのだと思います。島倉千代子(アレッ、せっかく哲学的になったのになんで演歌歌手なんだぁ?)に「からたち日記」というのがあり、「心で好きと叫んでも、口ではいえぬ、ただあの人と」という名台詞がありますが、この心理はたぶん今の女の子にはほとんどわかるまいと思います。抑制されたことがないからです。それはたぶん幸福なことなのでしょうが、ひねくれた私はむしろ彼女らを気の毒に思います。言えないからこそ思いが募る、ということを知らないこと、「好きなら好きといえばいいじゃん」という精神を持つことをうらやましいとはまったく思いません。抑制されたものが達成できてこそ、喜びも大きく、ありがたさも本物になるはずだからです。
 抑制と感性に関することはどこにでもあり、自分を律すれば抑制はいくらでも見いだすことができます。今の時代はさまざまな抑制が解放され、そのほうがよいという大合唱の中で、皆がそのことに鈍感になっているだけです。

追伸:質問をくれた高校生君。匿名では返事ができません。きちんと自己紹介をし、返事ができる形の質問をしてください。メールアドレスも忘れずに。

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