5月が終わろうとしています。新学期が始まって4月、5月と、一年で最も麗しい季節が通り過ぎました。大学というところは年度末と新年度ははなはだ忙しく、季節を楽しんでいる余裕を与えてくれませんが、週末を利用して山梨や長野を訪れることがありました。
美しい自然、といっても私たちが眼にするのは、テレビで見るアラスカやヒマラヤの大自然、あるいは原生的な自然ではなく、多かれ少なかれ人手が入った自然です。長野や山梨はそうした「半自然」があふれています。遠くにまだ白い峰を望み、その手前に青黒い森林のある山があり、近くには緑色の雑木林や田圃や畑がある、というのが典型的な景色です。こうした景色を見るたびに、美しさにため息が出ます。同時に、そこには脈々と受け継がれて来た人の暮らしがあり、想像すれば、さまざまな人生のドラマがあったことが、思われます。
こうした田園地帯が美しければ美しいほど、一方で人が溢れ、寸刻を惜しんでホームを走り、狭い土地にぎゅうぎゅうづめになり、人に溢れながらもその誰とも面識がないという、異様な都市生活があります。そうであるのに、同じ国のこの田園地帯では人口流失が起きて、社会が維持できなくなっているという現実があります。なぜ、こんなすばらしい土地が「限界」にならねばならないのか。
私は経済というものがちっともわかりません。働くということの基本は産み出すということで、一次産業がそれをするものであるはずです。産み出せば豊かになる。産み出すというのは自然から利用できる物を引き出すということです。だからこそ生命を産み出す神に感謝した。産み出したものを加工するのももちろん「働き」つまり「仕事」でしょう。でも、誰かが産み出したものを流通させることは「仕事」か。情報を流す工夫をすることは「仕事」か。何十年も毎日毎日畑に出て作物を作って、一生のあいだに作ったたくさんの作物からいくばくかのお金を得て暮らし、中には家の立て替えをするほどがんばる人もいる。社会はそうした努力に支えられてきたし、努力をした人がおおむねそれに応じた豊かさを手にして来ました。しかし情報流通の思いつきをしたあんちゃんや、伸びそうな企業の株を狙って買ったおばさんが、一晩でその何百倍も何万倍も儲け、そうした人がヒーローのようにもてはやされるというのは、どうにも理解ができず、納得もできません。少なくとも感覚としてわかりません。
多くの人が感じている、そういう「なんだかおかしい」感じがこの国ではますます大きくなり、どうにもならないところに来つつあるのではないか。以下のことはすこし飛躍がありますが、「なんだかおかしい」でつながります。
原発の犠牲者が苦しみ、津波を生き延びたのに自殺をする人がいます。一方で、加害者である東電は反省のようすはまるでなく、それに対するマスコミの甘さも眼に余ります。おかしいではありませんか。これだけの恐ろしい体験をし、大飯原発は活断層の上にあることがわかってなお、再稼働をしようとしているようです。夏にこれまでのライフスタイルを維持しようとすれば少し電力が足りないからというのが理由だといいます。正気の沙汰とは思えません。ごく常識的に考えれば、「日本列島は災害列島であり、原発は危険かもしれないと思いながらも、安全策をとり、豊かな電力を産んで来たので、生活もよくなった。これはよいことだと思って来た。しかし、それはとんでもない間違いだということがわかった。今後すべきことは、再発防止のために少し生活は以前にもどるが、国民の安全を守り、世界の放射能汚染を避けるためには、原発は稼働できません。電力使用抑制に協力してください。」となるはずです。
香港やモナコのように土地が狭いのではない、モンゴルのように木が育たないのではない、ヨーロッパのように地震が少ないのではない、アマゾンのように自然利用の歴史がないのではない、北朝鮮のように恐怖政治をしているのではない、世界のどこの国民よりも勤勉な人が多い、その国がどうしてこうもわけのわからない国になってゆくのか、どうにも納得ができません。
美しい自然、といっても私たちが眼にするのは、テレビで見るアラスカやヒマラヤの大自然、あるいは原生的な自然ではなく、多かれ少なかれ人手が入った自然です。長野や山梨はそうした「半自然」があふれています。遠くにまだ白い峰を望み、その手前に青黒い森林のある山があり、近くには緑色の雑木林や田圃や畑がある、というのが典型的な景色です。こうした景色を見るたびに、美しさにため息が出ます。同時に、そこには脈々と受け継がれて来た人の暮らしがあり、想像すれば、さまざまな人生のドラマがあったことが、思われます。
こうした田園地帯が美しければ美しいほど、一方で人が溢れ、寸刻を惜しんでホームを走り、狭い土地にぎゅうぎゅうづめになり、人に溢れながらもその誰とも面識がないという、異様な都市生活があります。そうであるのに、同じ国のこの田園地帯では人口流失が起きて、社会が維持できなくなっているという現実があります。なぜ、こんなすばらしい土地が「限界」にならねばならないのか。
私は経済というものがちっともわかりません。働くということの基本は産み出すということで、一次産業がそれをするものであるはずです。産み出せば豊かになる。産み出すというのは自然から利用できる物を引き出すということです。だからこそ生命を産み出す神に感謝した。産み出したものを加工するのももちろん「働き」つまり「仕事」でしょう。でも、誰かが産み出したものを流通させることは「仕事」か。情報を流す工夫をすることは「仕事」か。何十年も毎日毎日畑に出て作物を作って、一生のあいだに作ったたくさんの作物からいくばくかのお金を得て暮らし、中には家の立て替えをするほどがんばる人もいる。社会はそうした努力に支えられてきたし、努力をした人がおおむねそれに応じた豊かさを手にして来ました。しかし情報流通の思いつきをしたあんちゃんや、伸びそうな企業の株を狙って買ったおばさんが、一晩でその何百倍も何万倍も儲け、そうした人がヒーローのようにもてはやされるというのは、どうにも理解ができず、納得もできません。少なくとも感覚としてわかりません。
多くの人が感じている、そういう「なんだかおかしい」感じがこの国ではますます大きくなり、どうにもならないところに来つつあるのではないか。以下のことはすこし飛躍がありますが、「なんだかおかしい」でつながります。
原発の犠牲者が苦しみ、津波を生き延びたのに自殺をする人がいます。一方で、加害者である東電は反省のようすはまるでなく、それに対するマスコミの甘さも眼に余ります。おかしいではありませんか。これだけの恐ろしい体験をし、大飯原発は活断層の上にあることがわかってなお、再稼働をしようとしているようです。夏にこれまでのライフスタイルを維持しようとすれば少し電力が足りないからというのが理由だといいます。正気の沙汰とは思えません。ごく常識的に考えれば、「日本列島は災害列島であり、原発は危険かもしれないと思いながらも、安全策をとり、豊かな電力を産んで来たので、生活もよくなった。これはよいことだと思って来た。しかし、それはとんでもない間違いだということがわかった。今後すべきことは、再発防止のために少し生活は以前にもどるが、国民の安全を守り、世界の放射能汚染を避けるためには、原発は稼働できません。電力使用抑制に協力してください。」となるはずです。
香港やモナコのように土地が狭いのではない、モンゴルのように木が育たないのではない、ヨーロッパのように地震が少ないのではない、アマゾンのように自然利用の歴史がないのではない、北朝鮮のように恐怖政治をしているのではない、世界のどこの国民よりも勤勉な人が多い、その国がどうしてこうもわけのわからない国になってゆくのか、どうにも納得ができません。