私たちが訪問したのはモンゴルの北のほうで、地形に比較的起伏があります。その意味では「モンゴル的」ではないといえるかもしれません。なにせこの国には360°地平線というところもありますから。山といっても日本の山のようにそそり立つのではなく、なだらかな丘のような地形ですが、それが連なって幾重にも見えます。そこに夕日があたると長い影が伸びます。私はどうもこういう景色に弱くて、うまくことばにできないのですが、山並みの重なりにどういうわけか時間が加わります。中世くらいのモンゴルの生活が連想され、こうした空間の中に人々の営みがあり、そうした時間の流れの延長にいま、この時間があるのだといえばいいか。そうした歴史が眼前の景色の中に見えるような気がするのです。
また、別の思いもあります。今は東京を出れば翌日には来ることができますが、わずか50年前であれば、ここまで来るのにどれだけたいへんであったか。私の中には若い頃に繰り返し読んだヘディンの探検記や今西錦司の記録などがあって、そういう時代の探検に対するあこがれが強くあります。モンゴルのこうした景色を見ると、そうしたたいへんな時代の、しかしそうでなければ体験しえない異国情緒への憧憬が胸中に湧き上がります。
こういう景色を眺めているとき、私のなかには確かに音楽が響いています。夕焼け雲をみているときもそうです。それは楽譜に表現できないものですが、音楽家はそれができるのだな、などと想像します。そのことがうらやましいとは思いませんが。
また、別の思いもあります。今は東京を出れば翌日には来ることができますが、わずか50年前であれば、ここまで来るのにどれだけたいへんであったか。私の中には若い頃に繰り返し読んだヘディンの探検記や今西錦司の記録などがあって、そういう時代の探検に対するあこがれが強くあります。モンゴルのこうした景色を見ると、そうしたたいへんな時代の、しかしそうでなければ体験しえない異国情緒への憧憬が胸中に湧き上がります。
こういう景色を眺めているとき、私のなかには確かに音楽が響いています。夕焼け雲をみているときもそうです。それは楽譜に表現できないものですが、音楽家はそれができるのだな、などと想像します。そのことがうらやましいとは思いませんが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/0b/0909de178a2c4319d66652103af3cdac.jpg)
17日に雲のことを書きました。全体として見ていた雲ですが、ズームのレンズで覗いているとアップにもなります。そうすると自分がその雲の近くにいるようで、不思議な気持ちになります。そこは白い空間でまぶしいほどに明るい。なにかゴーッというような音がしていそうです。同じ日に写した別の写真は白いはずの雲がむしろ暗くて、雲のないところ(といっても別の雲があるのですが)は明るく、暗い雲に微妙な陰影がついています。こちらはドーッという音がしそうです。何を根拠にですって?直感です、直感。雲が白であればこそ、どんな色もすなおに映すことができる。光のあたり具体でたちどころに攻守を、つまり陰陽を変化させるダイナミズム。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/ec/f26e9ae04b12908fb6d1d634370d814d.jpg)
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