縁があってある中学校の卒業式に行きました。半世紀前のことを思い出しながら、子供たちのういういしい表情がまぶしかったです。今は送辞とはいわないで、「送ることば」というのですね、それがすばらしかった。自分のことばで無意味な褒め言葉にならず、上滑りにならない抑制があり、驚きました。3年生はすでにウルウルになっていました。
そのあとに歌がありました。3年生が一気に演壇にあがりました。そして男の子が前に出て、「ぼくの中に不安があるが、うれしさもある。安らぎもあるがいらだちもある。」と「ですます」ではなく「だ」で終わる短いことばを話しました。それから「
春に」という歌がはじまりました。ピアノの伴奏があり、わりとすぐに歌が始まりました。私は3メートルくらいの距離で聞いていたのですが、はっとしたことがあります。それは歌をうたう前に吸い込む息の音が聞こえたからです。そこでナマのもつ迫力を感じました。
谷川俊太郎の詩で、「この気持ちはなんだろう」ではじまり「よろこびだ、しかしかなしみでもある」「いらだちが、しかしやすだぎがある」「あこがれた、そしていかしがかくれている」といった歌詞が続きました。思春期の心のうごきがよく表現されていて、歌う子供たちは、そのことを歌いながら「そうだ」と感じてるふうでした。泣きそうな顔の女の子がいました。
歌が終わると、また別の子が出て来て、短いことばを語るのですが、それが歌のプレリュードになっていて、心に沁みました。「
大地讃頌」が始まりました。「大地を愛せよ、大地に生きる人の子ら、その立つ土に感謝せよ」私にはこの歌詞がフクシマの放射能汚染と重なって響きました。女の子たちは泣いていました。ふと見ると男の子の頬にも涙が流れていました。
次に「旅立ちの日に」という歌になりました。空に飛び立つイメージの歌で、称揚感がありました。人の気持ちはこういう歌詞とメロディーで高まるものですが、大きな声を出すと、胸の中にあるものが溢れるような気持ちがするものです。生徒たちは胸に抑えていたものが溢れ出ていました。
そして最後に司会から「全員合唱」とアナウンスがあると、在校生が起立しました。卒業生と向き合う形になります。それだけで感動的でしたが、そこでまた短いことばがありました。一人の子はマイクに立つ前から泣いていて、両親に「悪いと思いながらもひどいことを言ってしまってごめんなさい」、先生に向かって、「反発したのに最後まで見捨てないでみまもってくださって、ありがとうございました」と、涙ながらに、それでも懸命に最後まで言い切りました。そして、「
あなたに会えて」という歌がはじまり、最初に3年生が、そして在校生が歌い、最後には大合唱になりました。あの年頃ですから「会えた」のは後輩と先輩だけでなく、切ない思いを抱いた人のこともあることでしょう。声を出して泣いている子もいました。女の子は全員が泣いていました。こんなにすばらしい卒業式は自分のものを含めて経験したことがありません。
還暦をすぎると、涙腺が弱くなっていけません。