自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

兵庫での講演3

2016年10月31日 | 研究など research
最初は1泊のつもりだったのですが、うまくいかないことがわかったので2泊することにしました。講演が終わった昨夜は県の「長寿の郷」という宿泊施設に泊まることになりました。主催者の数人もいっしょに泊まるというので「懇親会」となりました。私が別棟で風呂に入ってもどったらなんだか笛の音がします。部屋に入るとひとりの人がケーナのような笛を吹いていました。するともう一人が「コカリナ」という太さはリコーダーくらいですが、長さが10cmほどしかない、木製の笛を取り出しました。


コカリナ


珍しいのでそれを回してちょっと吹いてみることになり、一人一人まわしました。私のところにも来たのでコカリナをためしてみました。指間隔がせまくて操作しづらい感じではありましたが、なんとかなりそうなので、「故郷」を吹いてみました。そうしたらケーナの人とコカリナの人も合奏してくれてなかなか楽しい時間になりました。ケーナの人がいいました。
「植物の響きがいいんですよね。これを自然の中で演(や)るといいんですよ。自然が好きだというのと、こういう楽器が好きだというのは通じるものがあるんですよね。」
我が意を得たりという感じです。私は科学者として自然をとらえようとしますが、その底には美しいものへの賛美のような気持ちがあります。見晴らしのよいところで夕方になって、空を見上げるとき、表現はできませんが、音楽が聞こえるという感覚があります。その自然との一体感を植物の笛を吹くことで実感するというのはとてもよくわかります。
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兵庫での講演2

2016年10月30日 | 研究など research
 それにしても、京都から養父までの遠かったこと。京都から福知山まで2時間、そこからさらに1時間ほどかかりました。時間でいえば品川から京都に行くよりはるかに長いのです。豊岡のほうに行きましたが、鳥取の景色と同じでなつかしかったです。

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兵庫県での講演

2016年10月29日 | 研究など research
29日に兵庫県の養父(やぶ)というところに招かれてシカの講演をしてきました。兵庫県はシカが非常に多く、駆除数も年間4万頭を上回っているほどです。そのため、森林も下生えが乏しくなり、深刻な状況だそうです。どうすればシカが減らせるかという話が主体でしたが、私は一般的なシカと植物の関係などの話を中心に「シカ問題を考える」(ヤマケイ新書)の内容を紹介しました。まとめの段階で「シカを減らすことは必要なことですが、しかし、減らすことが目的ではなく、ましてや殺したくて殺しているのではありません。そもそも私がシカを減らさないといけないと考えるのはシカが増えすぎて森林のバランスがそこなわれている。それを許容できるまでもどすのであって、それは森林に対する愛、生き物に対する敬意があってのことです。そこのことろが忘れられてシカを減らせばよいのだというのは正しくないと思うのです」という意味の発言をしました。大きくうなづく人がおられ、拍手がわきおこりました。
 私はこのことはとても大切なことだと思っています。いま、全国でシカが増えて駆除がおこなわれていますが、ときに私の懸念が現実味をおびているところがあります。山の状況を見ることもなく、机の上でシカの頭数を推定し、年間駆除目標を立てて、「実績」をあげることが目標になっている行政の職員はたくさんいます。そのことを猟友会関係の人が「天にツバすること」とたとえておられました。

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馬車道

2016年10月28日 | その他 others
横浜で会議があったのですが、「馬車道」という変わった名前の駅で下車しました。行くときは会議前なので駅をそそくさと通過しましたが、ちょっと気になったので、帰りはゆっくりとようすをみました。全体がレンガ壁でアンティークな感じで、その壁にくぼみがつくられ、その中に芸術品ではなく、機械とか大型の道具のようなものとか、門らしいものなど、いわば芸術とは無関係な工業系のモノが配置してありました。しかしそれがとても美しく感じられました。このアイデアをもち、実現した人はすばらしいセンスの持ち主だと思いました。


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バッグにデザイン

2016年10月27日 | その他 others
無地のバッグに動物の絵を描いてという娘のリクエストに答えて描きました。





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玉川上水 8/31 この穴は?

2016年10月26日 | 玉川上水


わかりにくい写真ですみません。林の下の暗いところなので、これがせいぜいというところでした。地面に穴があいていました。直径が1cmより少し小さいくらいです。これはセンチコガネが地下にあけたトンネルです。確認していませんが、物の本によると、地下に部屋をつくり、糞をまるめて卵を産んで幼虫を育てるとのことです。
 それはいいのですが、糞をしらべてタヌキの食べ物を調べようとしている私にはこまりもの、糞がなくなってしいまい、分析試料が確保できません。センサーカメラには糞をするタヌキが写っているのですから、まちがいなく糞はされたのに「ない」のです。
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玉川上水 8月31日

2016年10月25日 | 玉川上水
津田塾大学の芝生にツルボが咲いていて、昆虫が来ていました。



ヤマトシジミ ハムシの1種
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タヌキの糞

2016年10月24日 | 研究など research
陛下のタヌキのことを続けました。うまく気持ちが表現できないのですが、なんといいますかねえ、タヌキの糞を集め続けている私としては、ときどき「なんでこんなことを続けているのかなあ」とか「こんなことをしてる人なんていないだろうなあ」と自分自身にあきれるような気持ちになることがあるのです。
 私の両親は、私が子供のころ、こういうことをする私を暖かく見守ってくれていたと思います。小石やネジなどを拾ってきて、小箱に入れているのをみて「あら、いいものが集まったねえ」などと言っていました。借家暮らしだったのに、青虫を飼って、サナギになる前に壁を登っていく軌跡を鉛筆でなぞって何本もの線を引きましたが、止めることはありませんでした。
 それだけのせいということもありませんが、歳をとってタヌキの糞を集めるような人間ができたわけです。そういうことをしている人はこの日本に何人かはいるかもしれないが、何年も続ける人はいないと思っていました。それが、こともあろうに天皇陛下が・・・・。とても不思議な感じです。
 そのタヌキの糞ですが、タメフン場にセンサーカメラをおいておくと、こういう写真が写ります。


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皇居のタヌキの糞と陛下(7)昭和天皇

2016年10月23日 | 研究など research
 さらに付け加えれば、私はどうしても裕仁昭和天皇のことを思ってしまう。裕仁天皇も生き物がお好きだった。しかし昭和という時代はこの国が戦争に突き進んだ時代であり、裕仁天皇がタヌキの糞をお調べになることを許さない時代だった。そのことを思えば、人の運命を思わずにはいられない。明仁陛下は類いまれな純粋さで自分の求める生き物への好奇心を持ち続けられ、ご高齢になられても、なおそれを実行された。それは明仁陛下であるからこそ成し得たことであるに違いないが、しかし、平和な70余年がなければ、実現されなかったことでもあると思う。この論文に接して、そういうことも思った。
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皇居のタヌキの糞と陛下(6)役に立つ研究

2016年10月22日 | 研究など research
 冒頭にふれたように、生物学は素朴な博物誌の時代を経て、厳密な実証性と高度な機器を使う精緻なものになった。また論理性の展開により、個々の種を見るのではなく大きい系を把握する視点ももたらされた。しかし、どのように形を変えてもその根源にあるのは対象を知りたいという好奇心にあることは変わることはない。とくに自分が住む場所の地形や鉱物や動植物を知りたいというのはわれわれの本能的な欲求ではないだろうか。しかし、そのことを私たちは現実の生活の中で置き忘れがちである。そのことを、天皇陛下は皇居のタヌキの糞を分析するという直球勝負で遂行された。
 共著であるこの論文の執筆過程を私は知らないが、かなりの部分を専門家がお手伝いしたことは想像される。しかし筆頭著者として最終的な責任は陛下が持たれるわけであり、最終原稿を読まれて、これは書かない、これを追加してほしいと言われることはあったに違いない。科学論文としてできあがった序に何の不足もないが、願わくば、この研究をどういうお気持ちで始められ、続けられたかを聞けたらどんなにかすばらしいことだろうと思った。
 冒頭にこの論文の価値や意義を問う声があることを書いた。それはひとつには「役に立つ研究」という価値観から発せられるものであろう。あるいは類稀れなものは価値があるが、ありふれたものは価値が小さいという発想によるものであろう。だが、タヌキの糞分析はそのどちらでもない。狭い意味で世の中に役に立つわけではないし、珍しいものでもない。これを調べさせたのは、素朴な知的好奇心そのものである。同じことをしている私は、タヌキを含むすべての命には等しく価値があり、それぞれが懸命に生きていることから感じる、敬意に似た思いがある。そういう考えからすれば、珍しいものは大切にするが、ありふれたものは顧みないという姿勢に批判的な気持ちがある。陛下にそういうお気持ちがあったかどうかは知る由もないが、私には、陛下もすべての生物に対する等しい価値を見出されているように思える。
 この論文について考えてきた。天皇陛下にとっては、原生自然の貴重な生物を研究されることも可能であろうが、そうではなく、日本列島にありふれたタヌキを選ばれた。それは生き物に対する博愛的な姿勢によるものであろう。そしてそれを正確に長期的に分析するという科学的姿勢で遂行され、論文を完成された。翻って、今の日本社会は経済を最優先し、効率こそが重要であるとし、しばしば利己的になり、自分に有利なものを優先し、そうでないものを軽んずる。この論文はすべての点でこれらとは対極的なものである。もし、そのことの意味を考え、この社会の在り方について立ち止まって考える契機になるとすれば、これほど「役に立つ」ことはないだろう。私にはこの論文には、そういう広く、深い意味があるように思える。
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