年という形で区切りをつけるのはけじめがついてよいことでしょうが、あまりけじめのよくない私は時間はゆるゆると動いていくものであってほしいような気持ちがあります。時間という概念を持たなかった時代のヒトは毎日お腹をすかせて、狩りや果実集めをして生きていたはずです。秋になって実がなったり、黄葉をみて季節の変化を感じ、寒い冬が終わって明るくなるのは感じたに違いありませんが、それはゆっくりと移り変わるという感覚でとらえられていたはずです。文字や暦のない時代でも季節が巡ることは知っていたに違いありません。
私たちは知識として季節を、月を、時間を知り、時計を見て確認します。そういう「刻み」からして、今日が年の初めということになりますが、それを知らなかったヒトは春を年の初めと感じたと想像します。
年初に計画を立てるという習慣はきっと温帯のものだろうと思います。一年中暑い熱帯では、「よーし、今年こそ」という気はあまり起きません。それは季節が巡るという環境があって初めて生まれる感覚だと思います。
今年の4月から始まる年度は、私が大学人として最後の年度になります。これは重大事ですから、私としては有終の、、、、「美」というより、「平凡」にできたらよいと思います。そう、「有終の平凡」です。健康にめぐまれて自然の話を聞くという凡々たる毎日が一年間続くということのすばらしさをじっくりと噛みしめたいと思うのです。高山に登るとか、深海に潜るとか、あげくのはてに宇宙に飛び出すことを求めて、何を見るというのでしょう。ヒマラヤの高嶺から世界を見下ろしたからといって、自然のすばらしさを見たことにはなりません。そういう指向からは「もっと」というアクセルを踏み続ける欲望の渦に巻き込まれるだけです。自然をじっくり観察したいという心さえもてば、小さな庭にでも、通勤の路傍にでも、たくさんの胸をわくわくさせるような発見が溢れています。
私がそのことに気づくには、それなりの時間がかかりました。それは文字通り凡庸で退屈ともいえる日常が培ってくれたものです。私に才覚があって、次々と新しい展開のあるような大研究者だったら、あるいはそのことに気づけなかったかもしれず、そうであれば平凡に生まれついたことに感謝すべきなのかもしれません。たおやかな四季を過ごすこと、これが今年、私がしたいことです。
今年したい、あるいはしなければならないことがもうひとつあります。東日本大震災のことが風化しつつあります。私は震災後1000日が過ぎた今こそ、被災地のことを思い、微力を尽くしてなんらかの役に立ちたいと思います。日本のリーダーは多数の被災者のことを忘れ、経済だ、オリンピックだと浮かれています。私は彼の中にも不気味な不安がないはずはないと思います。しかしそれらには蓋をして、日の当たることだけをとりあげます。それが彼の資質なのか、ブレインがそうさせるのかの判断はつきません。ロナルド・レーガンと重なるようなところがありますが、私は年末に放映されたアメリカ史のドキュメントの中で、レーガンが政策を誤っていたことを正直に謝るのを見て驚きました。その態度はどこから来るかといえば、ヒューマニズムに照らしてということで、その根幹にあるのはキリスト教の教えです。そうでなければ、つまり議論の相手が人であれば、論破すればよい。政治のよしあしなど、百年後でなければわからない、今はこれが必要だという主張を通してもよいはずです。それはリングにあがったボクサーが戦うことであって、リングそのものを否定することではありません。このリングにあがり、フェアプレーをするということ、そのことは前提としてあるということです。レーガンは審判を殴るようなことをしたから、そのことは誰の目にも間違いだから、謝るしかなかったということです。
翻って原発を再稼働することはどうか。震災の復興の見通しもたたないのにオリンピックを誘致するとか、廃棄物の処理のことはまったくわからないのに、海外に原発技術を売ることはどうか。そういう流れを作ろうとする根底にあるものは何か。おそらく何もないでしょう。したがって誤っていたと思うかもしれないという懸念もありようがありません。レーガンにとってのキリスト教倫理のような、よって立つ価値基準がないからです。戦後の廃墟から立ち上がった時代の政治感覚を刷り込まれて、そうすることがよき政治家だと信じ込んでいるという程度でしょう。それは、リタイアした小泉元首相が今ごろになって原発の危険性を「何も教えてくれなかった」といっていることからも明らかです。経済に熱心であるのは通常は合理的な感覚をもつからですが、そうとはとても思えません。することのほとんどは感覚的で、ひとつひとつの言動のもつ効果の見積もりはまったく不正確です。
災害列島、地震列島に原発を持つのは危険すぎる――子供でもわかるその原理を「それでもしかたない」と言わしめるものに合理性があるとは思えません。正しい理論は明快なもので、多くの説明をしなければならないことは疑わしいものです。私たちはそのことを見極める知性をみがかなければいけないと思います。その上で自分ができることをしっかりと行いたいと思います。
今年もできれば自然のすばらしさを伝えるような本を書きたいと思います。そのことも含めて身の丈を見きわめながら、穏やかな一年にしたいと思います。そうそう、このブログを続けること、そのこと自体が平凡な日々があることのよい証しのように思われます。おつきあいをよろしくお願いいたします。
私たちは知識として季節を、月を、時間を知り、時計を見て確認します。そういう「刻み」からして、今日が年の初めということになりますが、それを知らなかったヒトは春を年の初めと感じたと想像します。
年初に計画を立てるという習慣はきっと温帯のものだろうと思います。一年中暑い熱帯では、「よーし、今年こそ」という気はあまり起きません。それは季節が巡るという環境があって初めて生まれる感覚だと思います。
今年の4月から始まる年度は、私が大学人として最後の年度になります。これは重大事ですから、私としては有終の、、、、「美」というより、「平凡」にできたらよいと思います。そう、「有終の平凡」です。健康にめぐまれて自然の話を聞くという凡々たる毎日が一年間続くということのすばらしさをじっくりと噛みしめたいと思うのです。高山に登るとか、深海に潜るとか、あげくのはてに宇宙に飛び出すことを求めて、何を見るというのでしょう。ヒマラヤの高嶺から世界を見下ろしたからといって、自然のすばらしさを見たことにはなりません。そういう指向からは「もっと」というアクセルを踏み続ける欲望の渦に巻き込まれるだけです。自然をじっくり観察したいという心さえもてば、小さな庭にでも、通勤の路傍にでも、たくさんの胸をわくわくさせるような発見が溢れています。
私がそのことに気づくには、それなりの時間がかかりました。それは文字通り凡庸で退屈ともいえる日常が培ってくれたものです。私に才覚があって、次々と新しい展開のあるような大研究者だったら、あるいはそのことに気づけなかったかもしれず、そうであれば平凡に生まれついたことに感謝すべきなのかもしれません。たおやかな四季を過ごすこと、これが今年、私がしたいことです。
今年したい、あるいはしなければならないことがもうひとつあります。東日本大震災のことが風化しつつあります。私は震災後1000日が過ぎた今こそ、被災地のことを思い、微力を尽くしてなんらかの役に立ちたいと思います。日本のリーダーは多数の被災者のことを忘れ、経済だ、オリンピックだと浮かれています。私は彼の中にも不気味な不安がないはずはないと思います。しかしそれらには蓋をして、日の当たることだけをとりあげます。それが彼の資質なのか、ブレインがそうさせるのかの判断はつきません。ロナルド・レーガンと重なるようなところがありますが、私は年末に放映されたアメリカ史のドキュメントの中で、レーガンが政策を誤っていたことを正直に謝るのを見て驚きました。その態度はどこから来るかといえば、ヒューマニズムに照らしてということで、その根幹にあるのはキリスト教の教えです。そうでなければ、つまり議論の相手が人であれば、論破すればよい。政治のよしあしなど、百年後でなければわからない、今はこれが必要だという主張を通してもよいはずです。それはリングにあがったボクサーが戦うことであって、リングそのものを否定することではありません。このリングにあがり、フェアプレーをするということ、そのことは前提としてあるということです。レーガンは審判を殴るようなことをしたから、そのことは誰の目にも間違いだから、謝るしかなかったということです。
翻って原発を再稼働することはどうか。震災の復興の見通しもたたないのにオリンピックを誘致するとか、廃棄物の処理のことはまったくわからないのに、海外に原発技術を売ることはどうか。そういう流れを作ろうとする根底にあるものは何か。おそらく何もないでしょう。したがって誤っていたと思うかもしれないという懸念もありようがありません。レーガンにとってのキリスト教倫理のような、よって立つ価値基準がないからです。戦後の廃墟から立ち上がった時代の政治感覚を刷り込まれて、そうすることがよき政治家だと信じ込んでいるという程度でしょう。それは、リタイアした小泉元首相が今ごろになって原発の危険性を「何も教えてくれなかった」といっていることからも明らかです。経済に熱心であるのは通常は合理的な感覚をもつからですが、そうとはとても思えません。することのほとんどは感覚的で、ひとつひとつの言動のもつ効果の見積もりはまったく不正確です。
災害列島、地震列島に原発を持つのは危険すぎる――子供でもわかるその原理を「それでもしかたない」と言わしめるものに合理性があるとは思えません。正しい理論は明快なもので、多くの説明をしなければならないことは疑わしいものです。私たちはそのことを見極める知性をみがかなければいけないと思います。その上で自分ができることをしっかりと行いたいと思います。
今年もできれば自然のすばらしさを伝えるような本を書きたいと思います。そのことも含めて身の丈を見きわめながら、穏やかな一年にしたいと思います。そうそう、このブログを続けること、そのこと自体が平凡な日々があることのよい証しのように思われます。おつきあいをよろしくお願いいたします。