林が切れて明るくなったところに見かけない植物がありました。バイモという名前も変わったユリ科の植物で、全体に「ふつうでない」感じがあります。それは葉が細長く、先端のものはくりりと曲がりほかにあまりみかけない感じ、花が大きくてチューリップを逆さにしたような感じ、その花が外からみるとクリーム色だが、それだけでないと感じさせるもの、などなどからくるようです。中を覗いてみると恋紫色の斑紋があります。ま、訪花昆虫は花の中に入って吸蜜するのだから、花とすればお客さんにみえるインテリアに力を入れるのであって、私たちがみる側のほうが「裏」なわけです。
林が切れて明るくなったところに見かけない植物がありました。バイモという名前も変わったユリ科の植物で、全体に「ふつうでない」感じがあります。それは葉が細長く、先端のものはくりりと曲がりほかにあまりみかけない感じ、花が大きくてチューリップを逆さにしたような感じ、その花が外からみるとクリーム色だが、それだけでないと感じさせるもの、などなどからくるようです。中を覗いてみると恋紫色の斑紋があります。ま、訪花昆虫は花の中に入って吸蜜するのだから、花とすればお客さんにみえるインテリアに力を入れるのであって、私たちがみる側のほうが「裏」なわけです。
いくつかうれしい発見がありましたが、アマナはそのひとつです。春の短いあいだにだけ咲いて消えてしまうので、見逃す鳥もありました。印象は違うのですが、白っぽい葉とか、横あるいは下に向くところなど、カタクリなどと共通のものがあります。
3月21日は玉川上水の自然観察会をしました。今年は少し時間がとれそうだと思っていたところ、ちょうどよいタイミングで、玉川上水の調査の声をかけてもらいました。以前、玉川上水のすぐ近くに住んでいたこともあり、少し植物の調査をし、その後麻布大学にいってから学生を指導してタヌキの調査もしました。そんなこともあって、地元で自然観察活動をしているグループに声をかけてもらってシンポジウムに参加したことがあります。ゆるい交流をしていましたが、そのグループといっしょに活動をしている武蔵野美術大学の関野吉晴先生がプロジェクトとして玉川上水の生き物調査をすることになったので、手伝ってほしいと声をかけてもらいました。それで自然観察会をはじめ、その2回目をしました。
玉川上水駅から5kmほど東の鷹の台というところまでを歩きました。玉川上水駅から上流を見ると滔々と水が流れています。
玉川上水駅から5kmほど東の鷹の台というところまでを歩きました。玉川上水駅から上流を見ると滔々と水が流れています。
3月に入ると春らしい日差しになりました。玉川上水で見た冬芽です。名前がわからないものもあります。
この不明は葉が開けばわかりますが、まだ開いていないので、もう少し待たされそうです。
この不明は葉が開けばわかりますが、まだ開いていないので、もう少し待たされそうです。
用があって本郷に行きました。見かけない花があったので、近づいtえみるとオオイヌノフグリの白いものでした。あたりを見ましたが、水色のものはありませんでした。
新宿を通過したとき、歩道にネズミの死体がありました。ドブネズミで、内臓などはなくなっています。カラスが食べたのだと思われます。いやなものを見た気がしましたが、これもひとつの生涯のドラマです。なんでこんなものをブログにですって?自然は「いわゆる」きれいなものばかりではないということです。
その後、米子に帰りました。少年時代から高校生までを過ごした町ですからやはり、なつかしい。とくに大山の景色は意識のなかに焼き付いています。大山は富士山のようなどの角度でみてもほぼ同じ端正さはなく、見る角度によって形が大きく違います。でも私には米子からみる形が一番きれいにみえます。冬のあいだは曇り空で大山の姿も見えることは少ないですが、春になるとかすみながらも見えるようになります。その季節感もなつかしく感じられます。
今年は雪が少ないそうです。
今年は雪が少ないそうです。
母の実家は関金からさらに奥に入ります。子供の頃は毎年夏休みはここで過ごしました。楽しい思い出がたくさんあります。
この写真の奥左が亡くなった叔父で、右へ母、祖母、叔母で、子供達は姉といとこたちです。前の左から2人目が私です。
これは同い齢のいとこです。小学1、2年のときだと思います。
その叔父は実直で、働き者でしたが、器用な人でもありました。私もいとこも工作とか絵を描くことが好きなほうです。前から聞いていたことですが、この叔父のおじいさんは宮大工で、家にある龍の彫り物はその人が作ったものだそうです。
今回、その墓をみたら、側面にその人のことが書いてありました。
文久元年三月八日被命因伯太守池田御用大工三郡棟梁明治十三年三月十七日被命大社教大世話係ヲ
文久元年(1861年)3月8日に因幡と伯耆の太守である池田家の御用大工棟梁を命ぜられ、明治13年(1880年)3月17日に大社教の世話係を命ぜらる。
ということのようです。大社というのは出雲大社のことで、山陰地方で大社というのはきわめて厳かな響きがあります。島根県で国体があったとき、知事の挨拶のときはすわって雑談をしていた人たちが千家さん(この地方の人は代謝の宮司様を敬愛をこめてこう呼ぶ)の挨拶になったら起立して静まり返ったといいます。だから、これは墓石に記録するに値することだったのでしょう。それにしても、こんな山奥の人がどうして選ばれたのかわかりませんが、実力が鳴り響いていたのかもしれません。いとこと「血筋かもしれないな」と話しました。
この写真の奥左が亡くなった叔父で、右へ母、祖母、叔母で、子供達は姉といとこたちです。前の左から2人目が私です。
これは同い齢のいとこです。小学1、2年のときだと思います。
その叔父は実直で、働き者でしたが、器用な人でもありました。私もいとこも工作とか絵を描くことが好きなほうです。前から聞いていたことですが、この叔父のおじいさんは宮大工で、家にある龍の彫り物はその人が作ったものだそうです。
今回、その墓をみたら、側面にその人のことが書いてありました。
文久元年三月八日被命因伯太守池田御用大工三郡棟梁明治十三年三月十七日被命大社教大世話係ヲ
文久元年(1861年)3月8日に因幡と伯耆の太守である池田家の御用大工棟梁を命ぜられ、明治13年(1880年)3月17日に大社教の世話係を命ぜらる。
ということのようです。大社というのは出雲大社のことで、山陰地方で大社というのはきわめて厳かな響きがあります。島根県で国体があったとき、知事の挨拶のときはすわって雑談をしていた人たちが千家さん(この地方の人は代謝の宮司様を敬愛をこめてこう呼ぶ)の挨拶になったら起立して静まり返ったといいます。だから、これは墓石に記録するに値することだったのでしょう。それにしても、こんな山奥の人がどうして選ばれたのかわかりませんが、実力が鳴り響いていたのかもしれません。いとこと「血筋かもしれないな」と話しました。
私たち夫婦は鳥取県の西の端の米子で育ちましたが、私は生まれは中部の倉吉、関金は倉吉から中国山地のほうに入ったところにあります。法事に行くのに米子から倉吉経由で関金に行きましたが、その途中の景色がとてもすてきでした。丘が続き、落ち着いていて、なにか大陸のどこかみたいな感じもありました。
母が亡くなり、少し時間が経ったので、今月はじめに遺骨を鳥取県にある父の墓に納骨してきました。翌日は叔父の3回忌がありました。子供の頃にかわいがってもらった親戚の人にほんとうに久しぶりに会いました。世代交代なのだと思わないでいられませんでした。
関金という山奥の小さな町に泊まりました。これはこの地方の山村の典型的な景観だと思います。常緑樹がわりあい多く、屋根は茶色でつやつやしています。石見地方で作られるので石州瓦とよばれます。子供の頃は意識していなかったのですが、懐かしく感じます。こういう景観が私の意識の底に映されていたのだと思います。
関金という山奥の小さな町に泊まりました。これはこの地方の山村の典型的な景観だと思います。常緑樹がわりあい多く、屋根は茶色でつやつやしています。石見地方で作られるので石州瓦とよばれます。子供の頃は意識していなかったのですが、懐かしく感じます。こういう景観が私の意識の底に映されていたのだと思います。