私が受験した年、東大の入試がなかった。秀才は京大に流れたが、東北大にもいた。そういう学生はだいたいわかった。私は「こんないい大学に入れた」と感激していたのだが、彼らは「こんな大学に来てしまった」という雰囲気だった。事実、翌年東大を受験しなおして退学した者がいた。私が入学したのは理学部で、もちろん私は生物学だったが、同じクラスに数学や物理を専攻する者がいた。私は高校までは数学はそうできないほうではなかったが、それは問題のパターンを暗記するように覚えてあてはめるだけで、力技といえる解き方によるものだった。大学の数学ではその公式が複雑で暗記するのに苦労した。ところが、サッカーばかりしている友達が試験前でもあまり勉強する雰囲気がないので、きくと「ああ、公式は意味を考えれば作れるよ」というので唖然とした。そいつは訳のわからぬ公式をみながら「うーーん、きれいだ」などといっていた。
そういう訳で私は授業にぎりぎりついていき、かろうじて単位をとるという感じだった。だから、研究者になりたいという夢はあったが、「できることろまではやろう」と思っていた。それは絶対それしかないという自信がなかったから、いつかは撤退しないといけないかもしれないということで、その不安は払拭できないでいた。それは大きな黒い雨雲のように胸を占めていた。
さだまさしがバイオリンを諦める場面があるが、才能ある人のことを考え、自分は勝てないと感じてバイオリンをやめると決心した。もちろん、苦労して学費を出してくれている親にはいえない。だが、考えに考えて、勇気をもって親に伝えることにした。このシーンでは涙が出そうになった。私も同じ気持ちだったからだ。
だが、音楽と学問は違う。音楽は才能がすべてであろうが、私の選んだ生物学はーもちろん超一流の研究者に特別な才能がいらないわけはないがー、私程度のレベルであれば、努力でかなりカバーできる。私は確かに努力は惜しまなかった。というより、生き物を勉強することは楽しくてしかたないから、努力といっても、したくないことを無理してやるという努力ではない。時間をかけること、体を動かすこと、分析をすることなどをやりたくないと思ったことはない。そういうのを努力というなら、私はたいへんよく努力をした。そうしていたら、なんとか周りが評価してくれるようになり、道が開けた。周囲の人々がよかったという部分が大きい。
それに比べれば芸術家のきびしさは桁が違うのだと思う。番組をみていて「ようわかるぞ」とあの頃の言葉で声援を送る気持ちだった。