応答と責任はつながらない。ことばのことだ。応答とはなんらかの働きかけがあったときのこたえといった意味であろう。責任とは自分の役割を果たすこと、あるいは果たすべきことのことであろう。これらはまったく別のことばだ。
米国のペンス副大統領の談話で「米海軍はこの仕事に責任がある」という言いまわしで最後に「response」と言った。Responseは応答、あるいは反応で、生物学ではたいへんよく使う。動物になんらかの働きかけをしたらどういう行動をとるか、それを反応という。米海軍がresponseを負うというのはresponsibilityがあるということで、responseすることができるということになる。だが私の中で応答responseと責任responsibilityは別の概念だった。
これがつながるということは、responseというのは動物が働きかけに対してとる行動というより、何かがあったときにきちんとすべきことをするといった意味合いがあるということであろう。なすべきこと、これは軍隊でいえば軍務、具体的には命令の遂行ということになるだろうが、その果たすべきことをresponseといい、それができることがresponsibility(response + ability)なのだろう。
このことから、中国で作られた概念の応答と責任は、英語圏で作られたresponseと微妙に違うということがわかった。「応答」ということばは相手があって、それに応じてこたえるということだが、responseは相手次第というより、自分のなかでなすべきことがあるという気がする。「責任」のほうは、重いことを任されるという感じで、義務的なもの、公的な立場でおこなうことという響きがある。Responseにそういう重苦しいようなニュアンスがあるかどうかはわからない。
私は小学校のころ漢字を教わったときに、「あつい」が熱いと暑いとを書き分けるのを知って当惑した。「はやい」の早いと速いもそうだ。「あつい」は温度が高いことだから、熱いと暑いを分けるほうが変だと思った。コックさんが厨房で料理をする鉄板は「熱く」てその部屋の気温が上がれば「暑い」というのはおかしいと思った。子供は耳でことばを覚え、それがどういう状況で使うかを体得していく。意味や用法を理解していたのに、それが違う文字で表現され、内容が違うことをあとで知ったことに当惑したのだ。
オウトウもセキニンも幼児期には使わないから、ことばもそれを使う状況も漢字を習うころからスタートする。だから「応」と「答」から受けるイメージから、働きかけに対するこたえと覚え、「責」と「任」から受けるイメージや「責任をとりなさい」のような用法から、自分勝手にはできない、重苦しいがしなければいけないことというふうにとらえて覚える。そうして覚えた、まったく違うと思っていたことばが、英語では同じところから出ているということを知り、ハッとする思いだった。