自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

吉田拓郎 1

2014年01月02日 | うた
正月なので自然から離れた話題をご容赦ください。

 「クリスマスの約束」のことを書きました。東北大学のことがなつかしくて話がそちらに流れてしまいましたが、最初の吉田拓郎とのセッションはすごいインパクトのあるものでした。私は拓郎はあまり好きではありません。なぜなら、全体に「いいかげん」だと思うからです。小田のような一貫性がない。初期には社会的なものも歌っていて、それが大人の価値観をぶちこわせというようなものでした。岡林などと大きく重なるものです。私たちがフォークソングを支持したのは、大人の価値観とは違うものを歌えるからでした。歌詞もメロディーもそうでした。しかし歌で社会が変わるわけはないとも思っていたから、反社会的な歌に重すぎる感じがあって、赤い鳥の民謡をとりあげる姿勢などにも共感しました。それがだんだん貧乏学生の日常を歌うような流れになって、なんだか湿ってきていやな感じがしてきました。そんなときに「結婚しようよ」が出て来て一世を風靡しました。私はあの歌を聴いて、今のことばでいえばチャラすぎると感じました。そして大ヒットしたことにも「売れるなら何でも作るのか」といったいいかげんさを感じたのです。
 でも拓郎の声の硬さ、メロディーのユニークさは歌好きとして好きにならずにはいられないものでした。「うさぎおいしかの山」のように一音に一文字をふりあてる歌が「常識」だったから、PPMの歌の楽譜を見たときはほんとうにびっくりしました。ひとつの単語が1音か2音で歌われていたからです。「これは根本的に違う」と思いました。PPMでそうだからボブ・ディランなどはとても歌えませんでした。「だから英語の歌はカッコいいんだ。とくにフォークやロックには日本語はダサすぎる」と思っていました。拓郎はその日本語の限界を軽々と超え、常識を打破しました(それがサザンやミスチルに影響したのは明らかでしょう)。でも、そうだから、合唱には不向きだったと思います。そういう、音符と字数を対応させないことにも拓郎の「いいかげんさ」を感じました。
 いいかげんさは嫌いだが、歌そのものと声はいい、拓郎は私にとってそういう存在でした。

 「両雄並び立たず」といいますが、小田和正のコンサートに吉田拓郎が来るというのはそういう感じです。でもとてもよかった。拓郎はやせていて、ギターをゆするにも力がないようで痛々しい感じもあったが、音程は確かで、だみ声も健在でした。ゲストの立場をわきまえ、去り際もダンディズムを保っていました。ハーモニーやカノン風のアレンジは小田の力量であり、大袈裟にいえばまったく違う魅力ある歌になっていました。
 小田が番組のあいだのコメントとして「あの拍手をきいて、<やった!>と思った」と語っていたが、まさにそういう迫力でした。それは拓郎の、歌だけでなく、会話の巧みさによって聴衆が魅了されていたからだと思いました。コンサートとはそのときの、その場の雰囲気でしかできない要素があって、だからCDなどでは味わえない感動があるのだと思います。数年前のクリスマスの約束でのキロロの「未来へ」がそうでした。

コメント
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