自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

売るものはない

2022年12月03日 | ことば
人並みにワールドカップの結果に一喜一憂しています。さすがにブラジルには勝ち目がないだろうということと、早朝というか深夜というか、そういう時間でもあったので、寝ました。そうしたら6時前だったかカミさんが「勝っているみたいよ」というので慌ててテレビをつけたら、最後の最後、笛が鳴って控えの選手が喜んで選手の方にダッシュしていくところでした。
 勝ち試合は何度見てもいいものでチャンネルを回してみていましたが、岡田元監督がインタビューされる番組がありました。キャスターが
「日本では暗い話題が多い中で、久しぶりに明るい話題ですな」
というと岡ちゃんが
「私たちには売るものは何もありません」
どういう意味かなと思っていると
「でも夢を売ることはできるんです。」
と言い、続けて
「スポートは好きなものが好きでやっているというところがあるんですが、可能性に挑戦し、実現する、そのために努力して、可能性に賭ける、そういうことが多くの人を勇気づけることができるーそれを信じて頑張っているんですよ」
という意味のことを語っていました。
この人は強いチームを作るということの先に、「そもそもスポーツとは」ということを考えているのだと思いました。

 大越キャスターが
「ブラジル戦はどう思いますか?」
と聞いたときに反応もおもしろかったです。
「大越さん、先のことを考えちゃダメですよ。人生でも同じでしょう。目の前のことに全力で取り組間ないで先のことを考えてもしょうがないわけで・・」
爆笑になりましたが、大越さんの
「いやあすみません。叱ってもらってありがとうございました」
という大人の対応もいいものでした。

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あいてください

2022年10月01日 | ことば
時々歯医者に行って掃除をしてもらうが、そこで
「口を開(あ)いてください」
と言われる。東京ではこれが普通なのだろうか。そう言った人は同じ人なので少しはっきりしないが、以前別の人にも同じように言われたので、多くの人がそういうのではないかと思う。
 私は鳥取県の生まれ育ちなので、「第二国内語」として標準語を使うが、標準語と東京弁には少し違いがある。「ひ」が「し」になるという発音のこともあるが、例えば「今度」のことを「こんだ」という人がいるなどはその例だ。
 「開(あ)いてください」に違和感があるのは私の感覚では「開(あ)けてください」のはずだからで、そういう東京の人もいるはずだ。「開(あ)いて」というと開(あ)いた状態という感じで、「開(あ)ける」とは違う。「開(あ)いた口が塞がらない」は開(あ)けるのではなく、開(あ)いた状態になっていたということである。
 それにしても生物学者として思うのは、乳歯が永久歯に生え変わってその後ずっと同じ歯を使うわけだが、ヒトという動物が進化の中で獲得したのは最長50年ほどの寿命であり、歯はそのようにデザインされているはずで、80年も使うようにはできていないのではないか、ということだ。その意味では五十歳以上の人の歯は「想定外」の負荷に「こんなはずではなかった」とつらい思いをしているのだと思う。
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声を出す

2022年02月05日 | ことば
あまり人に言わないでいたことがある。必要がなかったからだが、言わなかったのには、ちょっとかっこ悪いような気持ちもあったからかもしれない。
 私は身を入れて文章を読むとき、声を出す癖がある。英語の論文でも気合を入れる必要があるものはそうする。多分、頭に入れると同時に自分の声が耳から入ることで理解が深まるのではないかと思う。
 今朝の朝日新聞の「天声人語」に童話「くまのパディントン」の訳者である松岡亮子さんが子供に本を読むときは部屋を暗くしてろうそくに灯をともすと紹介されていた。そうすると子供は何が始まるのかと瞳を輝かせるという。
 私は生物学者だから人を動物の一種であるヒトとしてとらえることが癖のようになっている。人は長いあいだ洞窟で暮らし、薪で暖をとって、その前で話をしてきたに違いない。その「効果」は想像力を刺激したはずだ。薄暗いところで話を聞くことが体に染み付いているのだろう。字がない長い時間そうしてきたのだから、ヒトのDNAにはそういうものが刻印されているはずだ。だから耳から聞かないで文章を理解するの読書というものが生じて、文字で内容が理解されるようになっても、耳から話を聞くことの方が脳に入りやすいのかもしれない。
 都市生活はそういうヒトとしての本来の生活の持つさまざまな原型と、その原型が必要とする効果からヒトを遠ざける。生まれてきた赤ん坊は洞窟時代のヒトの赤ん坊と同じだが、その直後からその時代にはなかった約束事の中で生きることになる。それで良いものもたくさんあるが、失ってはいけないものもたくさんある。そのことに私たちが気付いていないものも少なくないように思う。

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いそがしい 2

2022年01月19日 | ことば
 私は大学を退職して無職だから「いなければならない」ことはない。やりたいことはたくさんあるから、ぼーっとしていることはない。朝起きてから寝るまで、論文を書くためにデータ整理をしたり、文献を読んだり、文章を書いたり、タヌキの糞分析をしたり、鳥の解剖をしたり、種子集めをしたり、果実を集めて標本を作って撮影したり、スケッチをしたり、ブログを書いたりと次から次にこなしている。これは「忙しい」というのだろうか?一定の時間の中でたくさんのことをするのを忙しいというのであれば、間違いなくそれに該当するが、これは生業(なりわい)としての仕事ではない。ということは忙しいというのは、やりたくもないことをしなければならない状態を言うのではないか。自分が楽しんでするのは忙しいこと(business)ではないとすると、私は忙しくない。
やりたくもないことをお金のためとか、義務としてしなければならない場合は、勝手に止めるわけにはいかない。だが、私は自分でやっているからいつでもやめることができる。これを考えると私は全く忙しくない。

 こういうのは道楽というのだろうか?現役を退いた爺さんが盆栽を楽しむなどは典型的な道楽だが、それには暇つぶしの響きがある。私は暇つぶしなどしていないから道楽ともいえない。

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いそがしい 1

2022年01月18日 | ことば
「忙しい」という言葉は言うまでもなく「急ぐ」と同じところから出ているはずだ。漢字で書くと違う意味のように思うが、「いそがしい」と「いそぐ」は同根に違いない。「再び」は「二」と「度(たび)」だし、「嫁ぐ」は「戸」「継ぐ」である。では忙しいとはどういう状態かというと、すべき内容がたくさんあって時間が足りないというのが代表的なものであろう。混んでいるコンビニのレジの人などは「忙しい」人だ。忙しい人が働いていないのが「休み」だ。休みの時は何もしなくていいから気持ちも楽だ。いつも何もしなくていい人は「暇」という。

 一方「急ぐ」の方は例えば別の場所に行くときに短時間で行くのを「急ぐ」というし、同じ作業を短時間で仕上げるのも「急ぐ」という。「いそいそ」はそういう状態の表現だ。
 英語で忙しいはbusyだ。日本語と同じ、急いで仕事をしたり、短時間にたくさんの仕事をする人をHe is busyという。そういう人の代表がbusiness manであろう。ということはビジネスは忙しいことか。一方で、電話が塞がっているのもbusyという。これは日本語では「忙しい」とは言わない。ということは忙しいとbusyは大体似ているが、英語では余裕がなくて他のものが入り込む余地がない状態をbusyというようだ。

 つづく 
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この前

2020年12月23日 | ことば
ふと小学生の頃のことを思い出しました。3年生くらいのことです。国語のテストで「この前というのはどのくらい前のことか」という意味の問題がありました。
 そのしばらく前に終戦記念日のラジオ放送があったので、今思えばこれは二学期のテストだったと思います。そのラジオで天皇陛下が「この前の戦いで・・・」と語られました。私は「この前」は数日から数週間くらい前のことだと思っていたので、この言葉が印象に残っていました。それで、テストの答えに
「この前とは、あることがあって、次のことがおきたまでのことで、何年も前のこともある」と答えました。しばらくして返ってきた答案はペケ(西日本ではバツのことをペケという)でした。私は「先生が間違っている」と思いました。

このことを大人になってから父に話したら、
「その時のことは覚えとる」
と言ったので驚きました。そして続けて言いました。
「お前はそのことがよほど悔しかったらしく、泣いとった」
というのでさらに驚きました。私は大人から我慢強いとか、おっとりしているとよく言われ、痛いことでは滅多に泣かなかったし、自分でもおっとりした子供だったと思うので、そんなことで泣いたというのは意外でした。その先生にはもう少し考えて欲しかったと思いますが、しかし私はこの頃から、こういうことをきっかけに、先生のいうことは正しいとは限らないと思うようになったと思います。
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ジェントル

2020年05月15日 | ことば
子供の頃、ジェントルマンとは紳士のことだと教わった。紳士というのは社会的地位が高く、礼儀正しい人で、イメージとしてはイギリスの燕尾服を着て、シルクハットをかぶる人であった。
 中学生になって英語の時間にgentleとは「優しい」という意味だと聞いて、「あ、そうか、礼儀正しさということではないのか」と思った。そういう「少しのズレ」はままあることだ。
 
 コロナ騒ぎでニュージーランドのアーダーン首相のことを取り上げていた。ニュージーランドではコロナに対していち早く厳格な対策を取り、徹底して水際作戦をとり、感染を抑制した。首相はその都度国民にメッセージを送ったが、その時「Be strong,  gentle(強くなりましょう、でも優しくね)」とい言っていた。こちら
 強いということは力があり、勇気があり、敵と戦って勝利できることだから、しばしば粗暴で破壊的なことと連動する。つまり強いことはしばしば優しくないことである。戦争のような状況ではそれらが一体化する。
 だが、コロナとの戦いは戦争ではない。「強くなろう」だけでは弱者に冷淡になることと連動しがちだから、そのことを想定して、強いと同時に優しくなろうと訴えたのである。そのことが国民の共感を得た。そしてコロナ抑制につながった。医療学的な対策も必要であるが、こうした心のあり方もまた大きいことである。
 翻ってこの国のリーダーはどうであろうか。洞察力が悲しいほどに欠落し、意味のない言葉を並べるだけだ。これだけの失策を重ねながら、結果としてよかったことだけを羅列し、それを自分がしたかのように語り(みなさまのご協力で効果があったと、感謝をしていたが、誰も首相のためにしたなどと思っていない)、そこにはどうやら自己陶酔的な響きさえある。「しっかり対応する」「痛いほどわかる」「躊躇なく果敢に実行する」・・・数え上げればキリがない。それでいて2枚のマスクのことには触れることもない。
 
 若い頃、CWニコルさんとテレビ番組作りで岩手県のシカ調査地で初めて一緒に仕事をした。取材はうまくいった。その夜、大船渡という町で小さなホテルに泊まったが、食堂が開いてなかったので、町の食堂に入った。メニューが限られていて、カレーライスを食べることになった。食べ終わった時、ニコルさんがウェートレスに「美味しかった、ありがとう」と優しく言ったのが印象的だった。有名なニコルさんだから、横柄でないにしても、田舎の食堂の人を相手にしなくても何の不思議もない。だが、ニコルさんはそうではなかった。私は「ああ、これがジェントルマンだ」と思った。
 
 言葉はそれだけでは力を持たない。本当に不思議なことだが、その人の人柄が伴えば平凡な言葉でも心に響くが、そうでなければどんな装飾した言葉でも虚しく響く。「ジェントル」からそういうことを連想した。
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被災地の高校生の歌 2

2020年03月08日 | ことば

(承前)

 ここで東北と関西の微妙さがある。「東京言葉とは違う」という一般論で言えば東北弁も関西弁も同じはずだが、東北弁は「訛る」と言われる。訛るという字は「言葉が変化する」だが、「体がなまる」というように、本来よりも「よくない」状態をいう。事実、戦前は言葉の「矯正」が行われた。そうして自分たちの使う言葉が汚いという価値観を植え付けられ、自分の心から発する言葉を恥じるように教育された。東北以外でも九州でも沖縄でも同じことがあったが、東北で特にそれが強く、上京して言葉を笑われて自殺した人さえある。だが、関西ではそれはなく、人によってはむしろ東京弁を「訛り」とは言わないまでも、下に見る意識の人さえいる。

 さて、高校生の電話での会話だが、気仙沼の作者は関西の子の言葉を違うとは感じたが、訛ったとは思わず、現に「関西の響き」と表現した。「あの同じ子が違う言葉を使うようになっている」という気持ちには、「遠い人になってしまった」という寂しさのようなものがあっただろう。羨ましいような気持ちもあったかもしれない。別の作品にもあるように、復興は遅々として進まないという苦しさもあるが、それだけではない。「復興」した街はのっぺらぼうで、思い出もなければ、人の生活臭もない馴染めないものであるという苦しさもある。ある高校生はそれを「上書き保存」という実に新鮮で優れた表現をしていた。作者は自分はそこにとどまって生きていることに複雑な思いも感じたかもしれない。

 作者は震災を物理的な破壊や行政の問題には全く触れることなく、ただの電話での短い会話で耳にした旧友の言葉にアクセントの微さな違いを描いたに過ぎない。そのことで、多感な十代の心の動きを表現し、聞いた私の中にあの震災の悲劇の奥行きと多様さについて考えさせてくれた。

 その筆力に脱帽というほかない。

 

 もしこのブログを読んだ人の中に、その歌を覚えている人があったら教えていただければ幸いです。

 

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被災地の高校生の歌

2020年03月07日 | ことば

東日本大震災の特集番組で被災地の人の短歌を紹介していた。素晴らしい作品に唸らされた。韻文というのはこれほどに人の心を動かすのかと思った。

 中でも次のような女子高校生の歌があった。うかつにもうたそのものを覚えていないのだが、大意は「小さい頃仲良しだった友達に久しぶりに電話したら、言葉に関西の言葉の響きがあった」というものだった。高校生は小学1年生の時に震災にあったのだという。仲の良かった友達は遠い関西に住むことになった。その友達には会っていないが、電話をしたら、電話の向こうの彼女の言葉に関西言葉の響きがあり、本人の説明によれば、その土地で生きていく決意を感じたということだった。

 私は大学入学から40代まで仙台で過ごし、30代はシカの研究で岩手県に通い、地元の人と仲良くなった。仙台に長くいたので、東北の言葉にはかなり慣れていたが、岩手の海岸部の言葉はまた違い、初めは聞き取りにくかった。役場などでは標準語に「切り替え」をする人が多いのでわからないということはなかったが、ハンターはそのままなので、わからないこともよくあった。でも私は方言が好きなので、そういう会話も楽しかった。

 私が想像するに、その子が聞いた関西言葉の響きというのは「元気だった?」を「元気やった?」というほどのものではなく、その「げんき」が東日本の「げ」が高く「ん」で下がるのではなく、逆に「ん」の方が高い「げんき」というようなことだったのではないか。音に敏感な作者はその違いを敏感に感じ取った。おそらく関西に行った方の子は自分の言葉が違ったことを意識していないのではないか。もちろん、引っ越した当初は「こんな言葉のところで暮らすのか」と当惑したはずだが、子供というのは適応力がある。真似をしながら、すぐに意識しないでその言葉を使うようになったはずだ。むしろ、気仙沼のその子との会話では関西弁を控えたのではないか。「生きていく決意」というのは多感な作者のやや過剰な解釈である可能性が大きいように思う。

 

続く

 

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ill

2019年05月26日 | ことば
イギリスのメイ首相が辞任表明をした。「強い女」の印象があり、サッチャーを連想させるところがあったが、流石に比較するには力量が違いすぎたことは否めない。正確には覚えていないが、「私が辞める無念ではなく、愛するこの国のために尽力できたことに感謝してのことだ」という意味の言葉を語った。英語だとthis country I loveとなり、最後の最後に「私の愛する」という言葉が来るから感動的でもあり、ご本人も感情を抑えられなかったようだ。
 ところで「無念」というのが「ill will」という言葉だった。私たちは学校でillは病気だと教わった。私の英会話経験は豊富とはいえないが、illを病気以外で聞いたことはない。こういう時に、英語のillというのは、病気と訳して大体はよいが、その範囲はちょっと違うのだということに気づく。
 私は鳥取で育ったから、「しょっぱい」という言葉は使ったことがなく、「からい」というものだと思っていた。この「からい」は別の使い方があり、いたずらっ子を「この子はからい」と言った。これは正確には「しょうがからい」を略した言い方だが、「性格がきつい」ということからくる。そうすると、塩からいの「からい」と「性がからい」の「からい」の共通の意味として、平常でないこと、並々ならぬこと、穏やかざることなどを表現する言葉だということになる。
 「こわい」も同様である。こわいは普通は「怖い」の意味だが、「髪がこわい」というし、硬いご飯を「おこわ」というが、あれは「こわめし」ということで、漢字では「強飯」と書く。ということは「こわい」はなめらか、やわらか、おだやかなどでないこと、心が恐ろしいと感じるようなこと、硬い髪、硬いご飯を示す言葉だということがわかる。
 九州の言葉で「太か」というのも同様で、縦横の比率で「太い」というだけでなく、大きいこと、立派なことという意味で「太か家」とか「太か男」などと言うが、これなども、元々の太いと言う言葉にはそう言う意味があったからだと察する材料になる。
 さて、illだが、メイ首相が愛する母国に対して首相として最善を尽くしたが、力不足、あるいは政治状況の不運で不本意にも辞職せざるを得なくなった。それが無念でないはずはないが、誇りと、本当に母国のためになろうとしたことの締めくくりとして、無念とは言いたくなく、自分がこの英国の首相という重責を担うという人生を思えば、むしろ誇らしいことだと言って辞めたかったのであろう。その「無念」と言うのがillということで、前向きとか建設的などのポジティブな意味の反対のことをillというのであろう。それが健康の場合、病気なのであろう。
 以上は英語の辞書を調べてのことではなく、あるいは見当違いかもしれないが、言葉好きがつれづれに想像した。
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