(承前)
ここで東北と関西の微妙さがある。「東京言葉とは違う」という一般論で言えば東北弁も関西弁も同じはずだが、東北弁は「訛る」と言われる。訛るという字は「言葉が変化する」だが、「体がなまる」というように、本来よりも「よくない」状態をいう。事実、戦前は言葉の「矯正」が行われた。そうして自分たちの使う言葉が汚いという価値観を植え付けられ、自分の心から発する言葉を恥じるように教育された。東北以外でも九州でも沖縄でも同じことがあったが、東北で特にそれが強く、上京して言葉を笑われて自殺した人さえある。だが、関西ではそれはなく、人によってはむしろ東京弁を「訛り」とは言わないまでも、下に見る意識の人さえいる。
さて、高校生の電話での会話だが、気仙沼の作者は関西の子の言葉を違うとは感じたが、訛ったとは思わず、現に「関西の響き」と表現した。「あの同じ子が違う言葉を使うようになっている」という気持ちには、「遠い人になってしまった」という寂しさのようなものがあっただろう。羨ましいような気持ちもあったかもしれない。別の作品にもあるように、復興は遅々として進まないという苦しさもあるが、それだけではない。「復興」した街はのっぺらぼうで、思い出もなければ、人の生活臭もない馴染めないものであるという苦しさもある。ある高校生はそれを「上書き保存」という実に新鮮で優れた表現をしていた。作者は自分はそこにとどまって生きていることに複雑な思いも感じたかもしれない。
作者は震災を物理的な破壊や行政の問題には全く触れることなく、ただの電話での短い会話で耳にした旧友の言葉にアクセントの微さな違いを描いたに過ぎない。そのことで、多感な十代の心の動きを表現し、聞いた私の中にあの震災の悲劇の奥行きと多様さについて考えさせてくれた。
その筆力に脱帽というほかない。
もしこのブログを読んだ人の中に、その歌を覚えている人があったら教えていただければ幸いです。
東日本大震災の特集番組で被災地の人の短歌を紹介していた。素晴らしい作品に唸らされた。韻文というのはこれほどに人の心を動かすのかと思った。
中でも次のような女子高校生の歌があった。うかつにもうたそのものを覚えていないのだが、大意は「小さい頃仲良しだった友達に久しぶりに電話したら、言葉に関西の言葉の響きがあった」というものだった。高校生は小学1年生の時に震災にあったのだという。仲の良かった友達は遠い関西に住むことになった。その友達には会っていないが、電話をしたら、電話の向こうの彼女の言葉に関西言葉の響きがあり、本人の説明によれば、その土地で生きていく決意を感じたということだった。
私は大学入学から40代まで仙台で過ごし、30代はシカの研究で岩手県に通い、地元の人と仲良くなった。仙台に長くいたので、東北の言葉にはかなり慣れていたが、岩手の海岸部の言葉はまた違い、初めは聞き取りにくかった。役場などでは標準語に「切り替え」をする人が多いのでわからないということはなかったが、ハンターはそのままなので、わからないこともよくあった。でも私は方言が好きなので、そういう会話も楽しかった。
私が想像するに、その子が聞いた関西言葉の響きというのは「元気だった?」を「元気やった?」というほどのものではなく、その「げんき」が東日本の「げ」が高く「ん」で下がるのではなく、逆に「ん」の方が高い「げんき」というようなことだったのではないか。音に敏感な作者はその違いを敏感に感じ取った。おそらく関西に行った方の子は自分の言葉が違ったことを意識していないのではないか。もちろん、引っ越した当初は「こんな言葉のところで暮らすのか」と当惑したはずだが、子供というのは適応力がある。真似をしながら、すぐに意識しないでその言葉を使うようになったはずだ。むしろ、気仙沼のその子との会話では関西弁を控えたのではないか。「生きていく決意」というのは多感な作者のやや過剰な解釈である可能性が大きいように思う。
ところで「無念」というのが「ill will」という言葉だった。私たちは学校でillは病気だと教わった。私の英会話経験は豊富とはいえないが、illを病気以外で聞いたことはない。こういう時に、英語のillというのは、病気と訳して大体はよいが、その範囲はちょっと違うのだということに気づく。
私は鳥取で育ったから、「しょっぱい」という言葉は使ったことがなく、「からい」というものだと思っていた。この「からい」は別の使い方があり、いたずらっ子を「この子はからい」と言った。これは正確には「しょうがからい」を略した言い方だが、「性格がきつい」ということからくる。そうすると、塩からいの「からい」と「性がからい」の「からい」の共通の意味として、平常でないこと、並々ならぬこと、穏やかざることなどを表現する言葉だということになる。
「こわい」も同様である。こわいは普通は「怖い」の意味だが、「髪がこわい」というし、硬いご飯を「おこわ」というが、あれは「こわめし」ということで、漢字では「強飯」と書く。ということは「こわい」はなめらか、やわらか、おだやかなどでないこと、心が恐ろしいと感じるようなこと、硬い髪、硬いご飯を示す言葉だということがわかる。
九州の言葉で「太か」というのも同様で、縦横の比率で「太い」というだけでなく、大きいこと、立派なことという意味で「太か家」とか「太か男」などと言うが、これなども、元々の太いと言う言葉にはそう言う意味があったからだと察する材料になる。
さて、illだが、メイ首相が愛する母国に対して首相として最善を尽くしたが、力不足、あるいは政治状況の不運で不本意にも辞職せざるを得なくなった。それが無念でないはずはないが、誇りと、本当に母国のためになろうとしたことの締めくくりとして、無念とは言いたくなく、自分がこの英国の首相という重責を担うという人生を思えば、むしろ誇らしいことだと言って辞めたかったのであろう。その「無念」と言うのがillということで、前向きとか建設的などのポジティブな意味の反対のことをillというのであろう。それが健康の場合、病気なのであろう。
以上は英語の辞書を調べてのことではなく、あるいは見当違いかもしれないが、言葉好きがつれづれに想像した。