自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

8月28日の玉川上水1 カリガネソウ

2016年09月30日 | 玉川上水


 8月28日に玉川上水を通りかかったら、センニンソウがきれいに咲いていました。それを見に行ったら、目立たぬようすでカリガネソウも咲いていました。この植物は茎をおるととても不愉快な匂いがします。花はさわやかな薄紫色できれいです。なかなかこった作りで、花びらの横に広がった2枚をカリガネの翼にみたてたのでしょう。



最大の特徴は花の上にニョキッとのびた雄しべです。側面からみると花から完全に飛び出しているのがわかります。それでは雄しべの意味をなさないように思いますが、私が以前にこの花を観察していて意味がわかりました。マルハナバチが正面の模様をみて花に「着地」すると、その体重で花が下に下がります。そのとき、花と雄しべの構造の具合で、雄しべがグッと下に押し下げられます。すると雄しべの先端がハチの背中をペタンと叩くのです。ハチは吸蜜に夢中ですから、なんだか花が目をもっていて、自分に抱きついてくる馬鹿者の背中をみながらぽんと叩くようです。
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8月17日の玉川上水 ユリ科3種

2016年09月29日 | 玉川上水
その後、私は8月の前半をモンゴルに行きました。これについては報告を速報しました。帰国後8月の17日に玉川上水を歩きました。暑いは湿気はすごいわでうんざりする感じでした。花はあまりなく、たまたまですが、ユリ科3種が咲いていました。一番多かったのはヤブランでした。そのすぐわきに白い花があり、これはノシランです。
 津田塾大学に行ったら芝生にツルボが咲いていました。一見、それぞれ違うし、ユリの花とは似てもつかないという感じがしますが、ひとつひとつの花を見ると確かにユリ科の特徴があります。


ヤブラン 2016.9..30


ノシラン 2016.9..30




ツルボ 2016.9..30


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7月25日の玉川上水 3 カンパヌラ

2016年09月28日 | 玉川上水



ツリガネニンジン

ツリガネニンジンが咲いていました。私の中でツリガネニンジンはヨーロッパの教会の鐘というイメージがあります。というのは「鐘」の下は5つに分かれているのですが、これがツリガネニンジンでは外側に反り返っていて、いかにもヨーロッパ風だと感じるからです。でも、教会の鐘であるカンパヌラという名前をもつのはホタルブクロなどの仲間です。どちらもキキョウ科です。
 モンゴルで「あ、これはカンパヌラだ!」と思った花があったので調べたら日本のヤツシロソウに似ていました。ホタルブクロもヤツシロソウも、「鐘」の下の切れ込みはそのまま伸びていて巻き上がりません。私はヤツシロソウ自体には会ったことがありません。絶滅危惧種のようですが、モンゴルではたくさんあります。



モンゴルでみたカンパヌラ

 ツリガネニンジンの属名はアデノフォラといい、「腺がある」という意味で、蕊の形のことらしく、あまりおもしろくありません。葉もきれいというか、端正な雰囲気があって、一箇所から放射状に出ます。




ツリガネニンジンの葉


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7月25日の玉川上水 2

2016年09月27日 | 玉川上水




タカトウダイ 2016.7.25

トウダイグサという仲間があります。東大草ではありません。灯台を海で船に光を出すものという意味なら違います。燈台と灯台は同じで、どちらの字でもいいのですが、もともとは部屋にろうそくを立てるための台でした。その巨大なものが海の灯台というわけです。
 トウダイグサの中にも何種類もあり、これはその1種で、スラリと背が高いので高灯台草ということです。花がかわっていて、小さくてわかりにくいのですが、上の写真のような形をしていて、これが灯台に似ているというわけです。変わっているのは、受粉して雌しべが大きくなると子房の重さで横向きになることです(下の写真)。
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7月25日の玉川上水1

2016年09月26日 | 玉川上水
この、のろのろのブログは9月が終わろうとしているのにまだ7月の報告をしています。季節感としては大違いで7月下旬は「暑い、暑い」とちょっと野外にでるのがためらわれるくらいの暑さになっていた頃で、このところのときに肌寒さを感じるのとは大違いです。本来は季節感をお届けすべきものですが、なにごとも不器用なのでご容赦を。のろのろではあるが、飽きることなく続けるというのが私の持ち味かなと勝手な正当化をしています。
 さて記録は7月25日の玉川上水で、卒業したもと学生たちと散歩した1週間あとです。




キツネノカミソリ



シラヤマギク



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地名

2016年09月25日 | ことば
平成の大合併は行政上の必要なことだったのかもしれないが、地名を変えるのはやめてもらいたい。田無が西東京など「やめてほしい」と思っていた。それはどちらかといえば、「古いものはよい」、「なんとなく響きがよい」といった感覚だった。
 最近、沼津にすむようになった人がいっていた。
「あそこはもともと沼のあったところだから、雨が降ると水浸しになるんです。不動産屋にアパートを探してもらったんだけど、「洲」という地名のところはあやしいと思ってやめたんです。そうしたらこの前の台風のときに水浸しになって、やめてよかったと思いました。」
そして決まり文句、
「豊洲はやめたほうがいいですよね」
地下水位が高いから、すぐに水が溢れるだろう。汚染された土壌には有害物質が出てくるに違いない。それをポンプで処理するなどいっているが、そんな小手先のことで解決するとはとても思えない。
 地名は「古いものはよい」、「なんとなく響きがよい」だけでなく、実生活にとっても重要な情報を示している。
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7月22日 アファンの森 3

2016年09月24日 | アファンの森


センチコガネ 2016.7.22

キノコが人が蹴ったのかと思われるような割れ方をしていたので、近づいてみたらセンチコガネが食べていました。糞とキノコでは匂いが全然違いますが、でもどこかに通じるようなものもあります。糞虫が糞以外の何を食べているかなんて、ほとんどわかっていません。
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7月22日 アファンの森 2

2016年09月23日 | アファンの森

チダケサシ


ヌスビトハギ


ヒヨドリバナ

乙女高原にはヨツバヒヨドリしかなく、アファンにはヒヨドリバナしかないのは不思議です。
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7月22日 アファンの森

2016年09月22日 | アファンの森



オオルリソウ 2016.7.22

7月22日にはアファンの森に行きました。何年も通っているので出会う植物を確認するということが多いのですが、今回はみかけない植物を見ました。オオルリソウというムラサキ科の植物で、高尾などでヤマルリソウをよくみかけますが、これは見た覚えがありません。ワスレナグサなどの仲間であまり大きくないものが多いのですが、これは1mくらいの高さがありました。
 果実はトゲトゲがあり、動物の体について広がるものと思われます。

そのほか、これまでにも見た季節の花を見ました。


クサレダマ 2016.7.22


オオウバユリ 2016.7.22




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知ってました?

2016年09月21日 | ことば
私はヘソが曲がっていて、いわゆるベストセラーには飛びつきません。流行はほとんどが一過性でその場限りになることが多いのと、人の動きをみて自分の判断なしに乗せられる自分が許せないという気持ちがあるからでしょうか。よくわかりませんが、とにかくそうしてきました。ただし、ほとぼりがさめてから本当によいかどうかを確認することはあります。
 大野晋に「日本語の年輪」という作品があり、「日本語練習帳」がベストセラーなので、例によって読まないできましたが、最近よみました。これがおもしろい。
 「おビール」というのはおかしい、カタカナ語に「お」をつけるなんて。私もそう思います。でも「おいしい」がもともとは「いしい」で、これを丁寧に言って、「おきれい」のように「お」をつけたのだそうです。知ってました?その関連で「・・と思う」と「・・と思われる」はどう違うかと問う。敬語は「お」をつけるとか「れる、られる」をつけるというような機械的なことでなく、自分の発することばが誰に対するもので、その人の関係によって変化させないといけない心理がことばに表出されるという視点に立つと、「思う」は自分の判断だが「思われる」は客観的状況が私をそう思わせる、つまり私は傲慢に「思ったり」はしませんという気持ちを伝えたい表現なのだという。なーるほど。よく若者が「これは個人的な意見ですが」となんだか予防線を張るなと感じますが、あれなども「私は私見が正しいと主張するわけではありません」という謙虚さをアピールしているつもりなのでしょうか。意見など個人的なものに決まっているのだから、それに個人的見解であるとただしがきをするのはおかしい、と思う私はKYと見られるのでしょう。この著者は、敬語ひとつとってもこういうおもしろい説明をしてくれます。
 「おしゃれ」は「しゃれこうべ」とつながる。こうべは頭、「しゃれ」は「され」で、風雨に「さらされ」て肉がなくなり、骨だけになったことをいう。だから?と思うが、角がとれてひっかかりがないことを「しゃれ」といい、世慣れていることであり、垢抜けていることなのだそうです。「へえ」です。
 とにかく著者はことばの知識がすごく、「かなし」「かわい」はいつごろからどういう意味で使われてきたと縦横無尽に出てきます。そしてその時代背景とことばが連携していることを、納得できる形で説きます。だから、知識がたくさんの本かというとそうではありません。一貫しているのは論理の大切さということです。
 ことばの専門家だから、ことばこそ大事だというのが当然なのですが、著者はそうは言わない。そのことを知って、私はこの人を本物だと思いました。本当にその道を極めた人が、それを大事だというのはあたりまえ、それをそうでないというのには超越したものを感じます。
 私がこの本でもっとも気にいったのは「なめらか」の部分です。著者はテレビの司会者のなめらかさをまねる学生を不愉快だと感じるといいます。このあたり頑固オヤジの私に似ています。「なめらか」は「なめし」とつながります。これはぬるぬるとすべるという感じで、折り目正しさがなく、相手に対して不誠実だといいます。私は田舎者なので、自分がよく知りもしないことを、あたかも自分のことばであるかのように話す都会育ちの若者の「なめらかさ」に同じように不誠実を感じます。逆に、自分のことばを探しながら、方言交じりに訥々と、しかし心と発することばに乖離がないように語ろうとする地方出身の若者に好感をもちます。
 この部分の末尾に、著者は記します。「私はうわべのなめらかさよりも、もっと大切なものがあるように思えてならない。深い理解力などから、おのずと生まれてくる質実な、しっかりした誠意にあらわれというようなものを、私は大切にしたいと思う。」ことばの大家がことばより理解、誠意が重要だというすごさ。
 この本は昭和41年に出ています。その頃の先生が私たちの世代に対して感じていたことだと思うと、それがまたおもしろい。大野先生がポケモンGOのことを聞いたら、憤ることはしないで、哀しそうにうつむくような気がします。
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