あきれたことにまだ歌が続きます。
中島みゆきの「ファイト」の中に
うっかり燃やしたことにして やっぱり燃やせんかったこの切符
という歌詞があります。今日はこのことについて。
地方から都会に出た者にとって、汽車(東京の人は電車といいますが、少なくとも山陰では電車はチンチン電車で、ふつうの列車は汽車という)の切符というのは独特の感覚があります。それも今風の名刺サイズではなく、たて3cm、横5cmほどの小さなもので厚みがありました。私は仙台から米子までの切符を買うとき、ちょっと胸がどきどきしました。なくしたら大変なことですから。当時は18時間かかりました。
もっとも仙台は私にとっては都会ですが、地方都市ですから、地方と都会という意味ではちょっと違います。
米子にいたとき「出雲」という夜行列車があり、それは東京行きでした。当時の東京はすてきな都市で、都市にあるよさはたくさんあって、都市に避けがたくある悪さはあまりありませんでした。しゃれていて文化的で誰もがあこがれる町でした。「出雲」を見るまなざしには「ああ、これに乗れば東京にいけるのだ」「この汽車は東京につながっているんだ」という思いがありました。
同じ中島みゆきに「ホームにて」という歌があります。これもよくわからないところがあり、そこが私の想像力を刺激してくれて惹かれるのですが、たとえば次のような歌詞があります。
ふるさとは 走り続けた ホームの果て
叩き続けた 窓ガラスの果て
そして手のひらに残るのは白い煙と乗車券
涙の数、ため息の数、溜まってゆく空色のキップ
ネオンライトでは燃やせないふるさと行きの乗車券
都会での孤独感、本当にほっとできる収まりのなさ、そういったものは若者にはつらいものです。いろいろな思いで都会に出た、あるいは出てしまった若者は、「やっぱり考えが足りなかったかな」「威勢のいいことを言ってでてきたけど、自分には無理みたい」と感じながら、ふるさと行きの切符を買ってはみたが、でも乗る直前になって「いや、やっぱりやめとこう」と逡巡する。詩人としての中島みゆきはその思いを「空色のキップ」ということばに凝縮します。あの硬めで今のペラペラと違うキップはうすい水色をしていました。それを改札バサミで切るので切り痕がありました。私は歌がこの部分にさしかかるとき、「空色のキップ」が目に浮かんで学生時代の味と匂いの混じったような感覚が蘇るのを覚えます。
心細い異郷と家族やなつかしい友達のいるふるさとつなぐ空色のキップ。汽車に乗ってしまえば楽になるがそれは敗北だ。当時の若者にはそういう思いがありました。
チューリップに「ああ、だから今夜だけは君を抱いていたい」という印象的なフレーズの歌があります。「心の旅」といいます。これに続くのは「ああ、明日の今頃は僕は汽車の中」という歌詞です。財津和夫は福岡ですから、九州から山陽本線に乗って東京に行くわけですが、当時は山陽新幹線はありません。長い旅のはずです。ふるさとで休みをすごした若者が高校時代のガールフレンドに会って楽しい時間を過ごし、あしたはあの東京に行く。もう切符は買っている。東京には夢を求めて行くのだが、でも東京の暮らしはつらいんだ。その思いは歌詞にはありませんが、「明日の今頃は僕は汽車の中」に思いが詰め込まれています。
昭和の40年から50年くらい、地方から都会に出るという轟々たる流れがあり、そのことを当然とする空気がありました。人にとって生まれ育った土地で大人になり、生涯を過ごすことが一番幸せであるはずなのに、そうさせない空気がありました。そうして、気がつけば親が亡くなり、自分は都会での生活しか知らない人間になり、子供が育ち、ふるさとに帰ろうにも帰れなくなってしまいました。ふるさとに暮らせない根無し草がどこか「これでよかったのかな」という思いを抱きながら人生の夕暮れを迎えています。
さあて、年末年始の惚けた放談はこれくらいにして、また平凡な自然観察にもどりましょう。
中島みゆきの「ファイト」の中に
うっかり燃やしたことにして やっぱり燃やせんかったこの切符
という歌詞があります。今日はこのことについて。
地方から都会に出た者にとって、汽車(東京の人は電車といいますが、少なくとも山陰では電車はチンチン電車で、ふつうの列車は汽車という)の切符というのは独特の感覚があります。それも今風の名刺サイズではなく、たて3cm、横5cmほどの小さなもので厚みがありました。私は仙台から米子までの切符を買うとき、ちょっと胸がどきどきしました。なくしたら大変なことですから。当時は18時間かかりました。
もっとも仙台は私にとっては都会ですが、地方都市ですから、地方と都会という意味ではちょっと違います。
米子にいたとき「出雲」という夜行列車があり、それは東京行きでした。当時の東京はすてきな都市で、都市にあるよさはたくさんあって、都市に避けがたくある悪さはあまりありませんでした。しゃれていて文化的で誰もがあこがれる町でした。「出雲」を見るまなざしには「ああ、これに乗れば東京にいけるのだ」「この汽車は東京につながっているんだ」という思いがありました。
同じ中島みゆきに「ホームにて」という歌があります。これもよくわからないところがあり、そこが私の想像力を刺激してくれて惹かれるのですが、たとえば次のような歌詞があります。
ふるさとは 走り続けた ホームの果て
叩き続けた 窓ガラスの果て
そして手のひらに残るのは白い煙と乗車券
涙の数、ため息の数、溜まってゆく空色のキップ
ネオンライトでは燃やせないふるさと行きの乗車券
都会での孤独感、本当にほっとできる収まりのなさ、そういったものは若者にはつらいものです。いろいろな思いで都会に出た、あるいは出てしまった若者は、「やっぱり考えが足りなかったかな」「威勢のいいことを言ってでてきたけど、自分には無理みたい」と感じながら、ふるさと行きの切符を買ってはみたが、でも乗る直前になって「いや、やっぱりやめとこう」と逡巡する。詩人としての中島みゆきはその思いを「空色のキップ」ということばに凝縮します。あの硬めで今のペラペラと違うキップはうすい水色をしていました。それを改札バサミで切るので切り痕がありました。私は歌がこの部分にさしかかるとき、「空色のキップ」が目に浮かんで学生時代の味と匂いの混じったような感覚が蘇るのを覚えます。
心細い異郷と家族やなつかしい友達のいるふるさとつなぐ空色のキップ。汽車に乗ってしまえば楽になるがそれは敗北だ。当時の若者にはそういう思いがありました。
チューリップに「ああ、だから今夜だけは君を抱いていたい」という印象的なフレーズの歌があります。「心の旅」といいます。これに続くのは「ああ、明日の今頃は僕は汽車の中」という歌詞です。財津和夫は福岡ですから、九州から山陽本線に乗って東京に行くわけですが、当時は山陽新幹線はありません。長い旅のはずです。ふるさとで休みをすごした若者が高校時代のガールフレンドに会って楽しい時間を過ごし、あしたはあの東京に行く。もう切符は買っている。東京には夢を求めて行くのだが、でも東京の暮らしはつらいんだ。その思いは歌詞にはありませんが、「明日の今頃は僕は汽車の中」に思いが詰め込まれています。
昭和の40年から50年くらい、地方から都会に出るという轟々たる流れがあり、そのことを当然とする空気がありました。人にとって生まれ育った土地で大人になり、生涯を過ごすことが一番幸せであるはずなのに、そうさせない空気がありました。そうして、気がつけば親が亡くなり、自分は都会での生活しか知らない人間になり、子供が育ち、ふるさとに帰ろうにも帰れなくなってしまいました。ふるさとに暮らせない根無し草がどこか「これでよかったのかな」という思いを抱きながら人生の夕暮れを迎えています。
さあて、年末年始の惚けた放談はこれくらいにして、また平凡な自然観察にもどりましょう。