自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

風に思う5d

2009年01月31日 | 自然 nature
「風のようにうたが流れていた」という歌は最近のもので、20代に洋楽にあこがれた我々の世代のことをテーマにしている。

 出会いも、別れも、知らぬままに、流れる歌を聴いていた

ひとつひとつの歌詞とメロディーが、ほかのアーティストにはない響きをもっている。
 自分をもち、周りに妥協しない姿勢はすがすがしい。私もささやかながら自分自身の価値観をもち、時代に流されることなく頑固親父でいようと思う。
「小田さん、がんばろうぜ!」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に思う5c

2009年01月30日 | 自然 nature
 「風のように」という歌も私が最も好きなもののひとつだ。研究がうまくいかなくて落ち込んでいるときなどに、「ここから先へはもう進めないと くじけそうになるときは いつでも君のことを思い出し 歩きはじめる」「誇りある道を 歩いて行く、どんなときも、たとえいつか、ひとりだけになってしまうとしても」「高く高く 信じるままに 秋の空にように」という歌詞がどれだけ勇気づけてくれたことか。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に思う5b

2009年01月29日 | 自然 nature
 確か「さよなら」がヒットしたとき、会社は同じ路線で追加ヒットを期待したという。それまで鳴かず飛ばずだったのだから、ふつうであれば飛びつくはずだが、小田はそうしなかった。そして作った歌がなんと「生まれ来る子供たちのために」という、絶対ヒットしそうもない歌だった。その歌詞の中には「この国の明日をまた思う」「子供たちを護り給え」といったものがあり、最後は「勇気を与えたまえ」と、まるで賛美歌のようだ。小田はそのことについて、「注目されたときにこそ、自分の作りたい歌を作る」といいきる。当時(今でもそうだが)歌は恋情を歌うものばかりだった。だがこの歌は日本の国を、そして自分たちの後の世代のことをテーマにしている。愚かなほどの頑固さといってよいだろう。私は小田のそういうところが好きだ。
 「広い空よ 僕らは 今どこにいる」という歌詞に風ということばはないが、私はそこに風を感じる。下の写真はその気分に近い。そういえば小田の歌には風ということばがよく出てくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に思う5a

2009年01月28日 | 自然 nature
 小田和正といえば今や日本を代表するミュージシャンの一人だろう。そうなってしまったという言い方はおかしいが、私はオフコースの時代からのファンで、東北大学にいたときに同じ教室で授業を聞いた可能性がある。もちろん当時は知るよしもないが、学年が少し重なる。いくつかの小さなヒットがあり、だんだんメジャーになってきた。鼻っ柱の強いところがあるから、40代くらいまでは周囲をはね返すようなところがあったが、だんだんに角が取れて、自分の欲するところをストレートに表現するようになってきたように思う。ファン歴が長いだけに、「知る人ぞ知る」存在であってほしかったという我が儘な気持ちも生じる。ま、それはどうでもよい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に思う4c

2009年01月26日 | 自然 nature
 まったくの約束事なしに「あのかぜを字に書きなさい」と言われたとき、あなたならどうするだろう。風は見えない。たしかにあるのに見えない。「寒い」や「義」などを文字にするのはずっと後のことだとして、木や水はわりあい初期にできたはずで、風はそれらに近いもの、つまり身のまわりにあって、会話にもよくのぼるものだったと思う。私なら巻雲のように斜め線を3本くらい書くかもしれない。
 「かぜ」を「風」という文字で表現した人は天才であったに違いない。私は「風」という漢字を、漢字の中で一番好きかもしれない。凧という字は具象と思われる、風はそれと似た字だから、そのあとに生まれたのだろうか。そうではないような気がする。凧などできるはるか前から「かぜ」は必要なことばだったはずだからだ。それはともかく、私たちには「風」という字から確かに空気の動きを感じる。見えないのだから似ているもなにもないのだが、「風」という字は「かぜ」にふさわしい。不思議だが納得。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に思う4b

2009年01月25日 | 自然 nature
 それが人間の一番古い「作品」かどうかわからないが、ともかくヒトは石や木などに何かを残した。末永く残そうと思ったのではないだろうが、なにか(私の会議中のように)描きたい衝動を覚えたのだと思う。そういうことが繰り返され、中には芸術派家肌の人もいて、より洗練され、具体的な動物や植物だけではなく、抽象的なものは概念的なものも「描く」ようになったかもしれない。エジプトの文字などはそういうものだったとどこかに書いてあったように記憶する。その段階の文字は具象抽象が混在していたのだろうが、中国では文字が意味を表すようになり、アルファベットに続く文字系列では音を表すようになった。これは文字の運命を分ける大ごとだったはずだ。私たちは表意文字の世界に生きている。


ウランバートル東部 2006.7
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に思う4a

2009年01月24日 | 自然 nature
 生物に関心をもつ人間なら、たいていは生き物の姿が理屈ぬきに好きなのではないかと思う。私は絵(というほどのものではないが)を描くのが好きで、会議中に無意識に向かいのおもしろい顔の先生(失礼!)を描いてしまって、「その書類は置いて行ってください」といわれて、あわてて消したりすることがある。個性を強調し、不要なものをどこまで削げるかで、ときには「傑作」もできる。
 当然、動植物画には特に関心がある。19世紀くらいには実にすばらしい細密画がある。生物学は日進月歩だが、生物画という点ではその質は戦後あきらかに退歩した。
 精緻さという点では生物学的な解剖図などは目をみはるようなものがある。ただ、目を釘付けにされるというか、言葉で表現できない感動を覚えるのは、名もなき石器時代のハンターが描いた動物画だ。ラスコーのものなどが有名だが、インドネシアやモンゴルにもある。どうして、ああもすばらしいのだろうかと思う。経過した時間が万年を越えているのだから、それだけで奇跡のようなことだ。しかし、そういう要素をすべて排除しても、あの動物のもつ躍動感や生命力は文句なくすばらしい。


入道雲 2008.8 モンゴル、ブルガン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に思う3b

2009年01月23日 | 自然 nature
 そういう意味で、「カゼをひく」ということばを日本人はどういう感覚で表現したのだろう。風をひっぱる、つまり秋になって風が冷たくなり、その風を吸い込むように受け止めることを「カゼをひく」といったのではないだろうか。ついでながら、「ひく」ということばもおもしろい。「曳く」「挽く」「退く」「轢く」「弾く」まだまだあるが、これらに共通するのは何だろう。「ひく」は基本的に「おす」の反対の動きで、自分にものを近づけることだろう。だから船やコーヒーミルを手前に動かすのが「曳く」「挽く」となる。「退く」は相手との位置関係を自分が手前に下がることで遠ざけるということだろう。そのほかはよくわからないが、たぶん臼を挽くなどから、圧力をかけることを「ひく」というようになり、それが「轢く」になったのかもしれない。また、そういう器具に力をかけることが「弾く」になったのかもしれない。
 ともかく、日本語はおおざっぱで、ちょうど箸があればナイフにフォークにもスプーンにもなり、目的別にいちいち物を作らないような、私にいわせれば「よさ」がある。
 少し横道にそれた。本題の「カゼをひく」は「風を自分の中に引き込む」ことらしい。そう思えばなかなか詩的な表現ではないか。英語ではcatch coldというわけだが、「冷気を捉える」ということだろう。勝負をすることはあるまいが、日本語のほうがよほどいいように思う。こうなるとほかの言葉では「カゼをひく」を何というのか興味が湧いてくる。そこいらに詳しい人が教えてくださるとありがたいのですが。


飛行機雲 2008.7 モンゴル、ブルガン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に思う3a

2009年01月22日 | 自然 nature
 「カゼをひく」という。漢字で書くと「風邪を引く」ので、「邪悪な病気に罹る」ということになるが、この漢字というのがくせ者だと私はよく思う。八百屋さんなどに手書きで「玉子あります」とあって、これは「卵」のまちがいというが、なにが間違いなのだろう。「ニワトリ」も「庭鳥」がまちがいで、正しくは「鶏」とされる。私はこの「まちがい」とされるものに大切なものが含まれていると思う。タマのようにまるくて、かわいいものを「タマゴ」といい、それを表現するには「玉」と「子」がふさわしいと感じるから「間違える」のだ。山でなく庭にいる鳥、つまり家禽の代表を「庭鳥」というのは自然なことなのに、インテリは「お前らは知らんけど、中国ではこれは卵、鶏と書くのだよ、これが正しいのに、無知な奴らは困ったものだ」といいたいのだろう。だが、そういう「教養」は大切なものを見逃しがちだ。
 これらは具体的に目に見えるものだから、「間違い」に気づきやすいが、「志」などは目に見えない。やまと言葉ではもちろん「心」と「指す」だろうし、「描く」も「絵」「書く」だろう。「耕す」などは区別がむずかしいが、私はこれは「田を返す」だと思う。風邪を引くの「邪」など、「よこしまな」と読むほうがむずかしく、「横縞」(たぶん正しい心は縦だというイメージがあって、そうなっていない心は体に対して横を向いているといたイメージなのだろう)なのだろうが、そう書けば間違いとされる。こういうことは無数にある。だから、字を知らない子供のように、やまと言葉をそのまま音でとらえてみるのは、とても大切なことだと思う。


モンゴル、ブルガンの夕方 2008.7
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に思う2

2009年01月21日 | 自然 nature
 小学校の高学年のときに、風は気圧の違いで生じる物理現象だと聞いてなんだかがっかりした記憶がある。ラファエロの絵などにある風の神は「フーッ」と息を吹いて風を起こしているし、俵屋宗達だったか、風神も風の入った袋を開いて風を起こしている。人には風はそういうものと感じられる。
 「春一番」ということばもどういうわけか楽しい感じがある。「台風イッカ」をうちの娘は「台風一家」と信じていた。それを嗤う私も、子供のときに「台風の目が近づいています」というラジオを聞いて、どんな巨大な目玉が近づいてくるのか、怖いもの見たさに空をながめていた。
 突風で傘が壊れてしまって棒のようになったり、バケツが風に飛ばされたり、台風現場のレポーターが吹き飛ばされそうになったり、実際に帽子が飛んだりするのをみると、どういうわけかなんだかおかしく、ときにうれしくさえなるのはどういう訳だろう。余談をいえば、若い頃は春一番で若い女性がスカートの裾をおさえるのをすてきだと感じたものだ(いまもだろうって?はい、そうです。ごめんなさい)。ともかく、風のしわざは気圧の差で起きる物理現象だとはわかっていても、どうにも、もっと何か生き物のしわざのような感じがするのです。


モンゴル、ブルガン 2008.7
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする