このブログにはすでに2、3回書いたかもしれない。コナラの新芽が好きだ。産毛が生えている。銀色を帯びているので、ひとつひとつでは感じないが林全体が銀色を帯びる。いや林を見れば黄緑色である。しかしクレヨンの黄緑色とはあきらかに違う。私たちはなんとなく見たものを既存の概念にあてはめる。「それは黄緑色という色だよ、覚えてね」と教えられて。だいたいそれでよい。角ばっていても、右下がりでも「山」という字は「山と呼ばれる盛り上がった地形」を意味し、みんなに共有される。それでよい。だが、クレヨンの黄緑と実際のコナラ林の「黄緑」を違うと感じる人はいるはずだ。しかし、それを呼ぶ名がない。「およそ黄緑」とするしかない。そしていつのまにか「黄緑」に収まってしまう。もっと大雑把には「緑」にさえなってしまうこともある。だが、私はその違いを問題にする気持ちをもっていたいと思う。「黄緑」とまるめられてしまうコナラ林の色に銀色を読み取る感覚を失いたくない。思えば長さで1ミリ以下、太さは何ミクロンというような微毛が山全体の色を決めるということは、なんと驚くべきことで、なんとすばらしいことだろう。
若い頃からそんなことを思って来た。歳をとり、娘が妊娠して、孫を産んでくれた。お腹の中で育つ生命、産まれてきて懸命にお乳を飲み、ぷっくりと太り、手足を動かし、這うようになる、そうした幼い命をみる歓びに恵まれた今、春が来てコナラの新芽を見ると、また違う感動をもってながめるようになった。
コナラの新芽 2010.5.5 那須
若い頃からそんなことを思って来た。歳をとり、娘が妊娠して、孫を産んでくれた。お腹の中で育つ生命、産まれてきて懸命にお乳を飲み、ぷっくりと太り、手足を動かし、這うようになる、そうした幼い命をみる歓びに恵まれた今、春が来てコナラの新芽を見ると、また違う感動をもってながめるようになった。
コナラの新芽 2010.5.5 那須