自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

アファンの森6月 里山

2012年07月31日 | アファンの森
6月のアファンの森です

調査が終わって長野の駅に向かいます。途中の景色がなかなかすできです。これは手前に田圃があって、コナラやスギの木立があり、背後には雑木林が続く、典型的な里山の景観です。ここは段丘の上にあたるので、空が広く気持ちがいいです。

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アファンの森6月 悟り

2012年07月30日 | アファンの森
6月のアファンです。

葉っぱの上にアマガエルがいました。カエルは両生類で人との関係でいえば、ヘビよりも「遠縁」にあたるのですが、姿は驚くほど人に似ています。同じ哺乳類の多くのものよりも似ているくらいです。お腹のようすなどは幼児にほんとうによく似ています。このアマガエル君の場合、前屈みになっているので、お腹のあたりが両側にあふれているあたり、「熟年の」われわれには思い当たる感じです。このカエル君はなんだか瞑想でもしている風情でした。眼もまどろんだような、遠くをみつめ、なんだか悟りを開いたかのような感じでした。きっと「俺は葉っぱの色をしているから、誰も気づかないに違いない」とでも思っているのでしょう。

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アファン6月 旬の花

2012年07月29日 | アファンの森
6月のアファンです。

湿った林にギンリョウソウがたくさん咲いていました。葉緑素がないので不思議な感じです。白いのですが、半ば透明で、それがよけいにあやしい感じを醸し出すようです。


サイハイランをわりあいよく見ました。


花の中をのぞいてみたら意外に派手な紅色をしていました。


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アファン6月 ドングリ

2012年07月28日 | アファンの森
6月のアファンの森です。

ドングリはいたるとことにあるし、そこから芽生えたナラの赤ちゃんもよく目にするところです。今回、ひとつ掘り出してみました。地下10cmくらいにドングリがありました。春にみたときは地上でドングリの殻が割れて、中から赤っぽい「実」が見えていましたが、それらは「消えて」います。掘り出したものにドングリがついているということは去年の秋に落ちたドングリから出たものと思われます。
 このドングリはどうして地下に「もぐった」のだろう?地上にあったドングリは発芽しないのだろうか?あのドングリたちはどこへ行ってしまったのだろう?疑問はいろいろ湧きます。いずれもリスかネズミが関係していそうです。知らないことばかりです。

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アファンの森6月 タヌキ

2012年07月27日 | アファンの森
6月のアファンです。

S2さんは東京でタヌキを調べていますが、アファンの森でタヌキのため糞があったという情報があったので、探しに行きました。なかなかみつかりませんでしたが、ついにありました。第一発見者が見つけたところとは別にもう一カ所ありました。おもしろいことにクマノミズキ、ツルウメモドキなどが芽生えていました。タヌキが種子散布をしていることは確かなようです。


タヌキのため糞を調べる学生たち
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アファンの森6月 フクロウ

2012年07月26日 | アファンの森
Oさんは今回フクロウの雛のビデオモニターを見たくて来たのですが、実はこの序らが泊まった日は「留守」で前の日に巣立ったようでした。アファンの人たちは姿をみたようですが、私たちは見つけることができませんでした。またもどってくるのではないかと思っていましたが、そういうことはほとんどないようです。そういう訳で鳥好きのOさんとしては残念でしたが、調査の手伝いをしました。記録係をしていたらコミスジ(タテハチョウの仲間)が飛んで来て手にとまりました。5分以上とまったままだったようです。写真の手元にコミスジがいます。

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アファンの森6月 マムシグサ

2012年07月25日 | アファンの森
S1さんはマムシグサが虫媒花とされるが、ふつうの花とはようすが大いに違い、花筒の中で虫が死んでいるといわれますが、いったいどういう昆虫が来るのか、またこの仲間は性転換をするのですが、そういう生活史を具体的に調べたいということで調査を始めました。とても熱心に調べてくれています。



アファンには紫色で花が大きいマムシグサと緑色でスラリと背が高く「小顔」なのとあります。

 
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アファンの森6月 ササやぶ

2012年07月24日 | アファンの森
6月のアファンです。

この写真の意味は、アファンの森はこういうササやぶに被われていたということを示すことにあります。私たちにとってありがたいことは、あえてこういう群落を研究目的に残しておいてくれていることです。この下にはほとんどほかの植物が生えていません。4平方メートルに5種くらいがちょぼちょぼと生えているだけです。明るい林を作るということだけを優先するのであれば、全部でササ刈りをすればいいのですが、林の管理がいかに効果をもつかを示すにはこういう場所が残されていることが重要です。学生はスケール(大きさの比較対象)として入れました(本人たちは被写体と思っている)。



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アファンの森6月 3年生

2012年07月23日 | アファンの森
6月中旬にアファンの森に行きました。今回は3年生の指導でした。一人はマムシグサの訪花昆虫を調べることにしました。もうひとりはリスとクルミの関係ですが、今回は休みました。タヌキのため糞情報があったので、東京でタヌキを調べようとしている3年生が参加しました。それからフクロウが巣箱につけたモニターで見えるというので鳥好きの一人も参加しました。調査をはじめたばかりなのでこれからという感じですが、楽しげでした。





学生は「ゲストハウス」というこの小さな小屋に泊まります。
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哀しみ 高尾山トンネル裁判に思う

2012年07月22日 | 自然 nature
高尾山にトンネルを通す工事に反対する運動が敗訴したという。貴重な自然ではあるが、住民の利便性のほうを優先すべきだというのが判決趣旨らしい。これだけ自然を破壊し、それはよくないということはもうわかっていたのではなかったのか。
 私は山陰のいなかで育ち、仙台で大人になり、四十歳を過ぎてから東京に来た。東京の自然のなさは覚悟していたから、残された自然は東北の自然にくらべてみすぼらしいという印象があった。だが、実際に暮らしてみて感じたのは、「ある意味で、東京のほうが自然を守ろうとしている」ということだった。仙台では意外と大胆に郊外の森林が伐採されたり、丘が宅地化のために削られるということがある。それでもまだ周りにいくらでも残っているから、という感じがある。その自然に比べれば東京の残っている自然は貧弱なものだが、たぶんそうであるから、これだけは残さないといけないという気持ちがあるように感じた。それを知って「失ってその価値に気づくということがあるのだろう」と思った。自分たちは戦後の経済復興の時代に自然を食い物にして利便性を享受してきた、だけどこれ以上は破壊してはいけない、残った自然はささやかでも最後の砦として残してゆこう、そういうことだと思ってきた。
 高尾山は山陰に育った私にとってさえ特別な存在だった。思えばおかしなことなのだが、私は豊かな自然の中に暮らしながら、高尾山にあこがれていた。小学生のころに「小学++年生」という雑誌と「++年の学習」というのを読んでいた。そうすると必ず「高尾山に行くとこんな昆虫がいます」と書いてあって、中央線という電車に乗って行くとたくさん昆虫が捕れると書いてあったからだ。私は高尾山とはどんな山だろうとあれこれ想像して胸をときめかせていた。
 東京に来て、高尾山に行ってみたが、冷ややかな気持ちでいた。「いくら知名度が高くても、たかが東京の小さな山だ、たいしたことはない」という思いがあった。実際そうだったのだが、そうでもないこともあった。高尾山よりも東側の平坦値と比べると、確かに格段にスミレの種類が多い。徐々にではなく劇的に植物相が豊かになるのだ。
 東京は自然の犠牲の上に繁栄し、それだけに残った自然を大切にしている、その代表である高尾山はさらに特別である、その高尾山にこともあろうにトンネルを通そうとしている。これは流れとして、「これまでの繁栄至上主義を見直して高尾山だけは残そう」となるべきであろう。だが、そうならなかった。高尾山の保護団体が都民を代表しているとはいえないにしても、都道府県レベルの意見が国レベルでつぶされるという例のひとつなのであろう。国を動かすのも人である。この国ではこういう判断をする人たちが国を動かしているのである。
 それにしても、と私は思う。こういう愚かな判決であろうと、それに抵抗した人がいたことは記録に残る。その良心は日本の自然保護シーンに記憶されるであろう。だが、高尾山にすむ動物やそれを支える植物たちは何も知らないで今日も懸命に生きているだけである。意見の違う相手に「多数民の利便のほうが優先される」と言って勝ち誇るのはひとつの約束事としてありえることかもしれない。だが、もの言わず懸命に生きる動植物の生命を、宣戦布告もしないで奪うことに正義は見いだせない。自分がその傲慢な側にいるという事実が動かしようのないことがつらい。虫でも花でもいい、助けてくれと語ってくれればまだましなのだが、そうしてくれず、そのまま消滅してゆくのが哀しい。
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