昨日、NHKテレビで東日本大震災のことを放送していた。石巻市の大川小学校のことをとりあげていた。子供を失った親の心の苦しみと、保身をはかる学校、教育委員会の不義を訴えることがメッセージであるようだった。
番組の核の部分は重すぎて簡単にコメントはできそうもない。ただ、子供を失った人が、いつも聞こえていた子供たちの声が聞こえなくなって寂しいということばは胸に響いた。これは各地で感じることではないだろうか。私たちが子供の頃は、それこそどこにでも子供がいて、寒い冬の日でも「子供は風の子」と言われて、外で遊ぶように言われた。だから、空き地などでは子供の声がにぎやかに聞こえたものだが、いま公園で遊ぶ子供が少ない。都会でもそうだから、田舎ではさらに寂しいのではなかろうか。明るい声を聞かせてくれる子供はほんとうに宝物だと思う。
ところが、東京では幼稚園や保育園の近くの住民が子供の声がうるさいと抗議をすることが多くなっているという。ある報道番組で紹介されていたのは老人であったが、おそらく若い頃には自分の子供がお世話になったはずである。子供がない老人だったとしても、自分が子供のときに大きな声を出して遊んだはずである。あまりの身勝手に、がんこおやじは腹が立つ。
ただ、少し頭を冷やして考えると、腹を立てる相手というより、むしろ気の毒だという気がする。子供の声を騒音としか聞こえないという感覚は人として不幸そのものであろう。本当かどうか知らないが、欧米人はセミの声が騒音としか聞こえないそうだ。秋の虫の声もそうらしい。私は生物学者として、同じヒトという種の中でそういう違いがあるかどうかいぶかしく思うが、どうもそうらしい。ヒトという種が持続するためには、子供をかわいいと感じる遺伝子がなければならない。そういう遺伝子をもつ集団と、子供を粗末にする集団があれば、前者のほうが繁栄するのは自明のことである。もちろん、ヒトはほかの動物と違う。道徳や倫理が文化として発達し、それがヒトの行動を大きく規制する。ふつうはそのことが子供を大切にすることを強化したはずである。
その意味で、自分が子供の頃、あるいは親となってお世話になったことを忘れて、勝手に子供の声がうるさいという人は、単に身勝手というよりも、ヒトとして持つべき感覚が持てなくなっていると見るべきであろう。そういう心理や感覚がなぜ生まれたかは解明すべき重要な課題だと思う。
ま、がんこおやじとしては、そういうことは専門家にまかすとし、バカなことをいうのはほどほどにしろといいたい。そんな身勝手な主張をして得た「静かな環境」など、まったく人間味のないものであるに違いない。子供の声が聞けなくなったつらさを抱える人たちは何と感じることだろう。