このところ、いやなことが続けてあった。
しばらく前だが、ある日のニュースで原発再稼働の話があり、何を考えているのだと不愉快に思っていた直後、政府がカジノを作ろうとしていると報じたので、がんこおやじは頭に来た。阿部首相というのは、一体何を考えているのだ。おそらく背後にブレーンがいて、お金が動くことが国が豊かなことだと教えるのだろう、原発を海外に売ることでも、カジノで人生破壊者が生まれることでも、ともかく金が動けば「豊かに」なると教えられ、そのように思い込んでいるのだろう。こういう人間が国のリーダーであることの悲しさよ。
広島の土砂災害は衝撃的なものだった。私は大きな要因は、あの地形の場所を宅地にした行政責任と、それを可能にした不動産業の動きにあったと思うが、ともかく大きな悲劇が起きた。被災者は「限界だ」といっていた。そうであろうと思う。だが、私は同時に思う。福島にはこの限界生活を3年も強いられている人が数万人あるいはそれ以上もいるということを。また今回数十人の命が失われたが、福島では今年だけでもそれに匹敵する人が自殺したということを。
そのことについて、妻を亡くした人が裁判を起こし、勝訴したことは溜飲を下げるものがあったが、その裁判に関する東電の言い分に、その奥さんに対する記述があり、その自殺は「個体の脆弱さによる」とあったという。その文章の前には「多くの人が耐えているのに」という意味の記述もあった。要するに自分たちが多数の人の人生を破壊しておきながら、それを他人ごとのようにとらえ、そういう人は耐えるのが当然なのに、その女性は「個体の」脆弱さによって勝手に死んだというのだ。これほどひどい言い草があるだろうか。
こうしたことを思うにつけ、私は「おてんとうさま」ということばを思う。私たちが子供のころ、お年寄りはよく「おてんとうさまが見ているから」と言ったものだ。人をごまかしてもおてんとうさまはだまされないよ、ということだ。裁判などは人が作った規則に則して勝敗をつけることで、犯罪を裁くものである。だが、私たちはそういうレベルではない、もう少し程度のよい基準で生きている。「ちょっとよくないけど、誰でもしていることだから、ま、いいか、いや、まずいかもも」という迷いは法律的には問題はないが、「おてんとうさま」が許してくれなさそうなことだと控える。でも、規則に抵触しなくても、人は目をつぶってくれることでも「おてんとうさま」が許さないこともある。
私は確信がある。東電のしていることは「おてんとうさま」は決して許さないと。
そのことでいえば、もうひとつあった。昨日のニュースで盲導犬が何者かに刃物で傷付けられたという。盲導犬は啼かないように訓練されているから、痛さを耐えてだまっていたのだと。そのニュースを聞いて、私はあやうく涙が出そうになった。このところ、歳のせいで涙腺がゆるんでしまったが、このときは悲しみによる涙が、怒りによって抑制されたような感覚だった。
東電は「個体の脆弱さ」という表現をしたが、盲導犬の傷害は「器物損壊」の疑いだという。どう考えても言葉使いや法律の適用が違うだろう。器物損壊とは何事か。目の不自由な人のためにいっしょうけんめい働いている犬にやさしくすべきところを、あろうことか傷つけた馬鹿者を罰するということだろう。その盲導犬を「器物」、傷つけたことを「損壊」とは何を考えているのだ。こういうことは「おてんとうさま」に裁いてもらわないことには、とても腑に落ちない。がんこおやじの感覚には納得できないことが多すぎる。
おてんとうさま、やさしいのはありがたいですが、ときどきはビシッと叱ってやってください。
しばらく前だが、ある日のニュースで原発再稼働の話があり、何を考えているのだと不愉快に思っていた直後、政府がカジノを作ろうとしていると報じたので、がんこおやじは頭に来た。阿部首相というのは、一体何を考えているのだ。おそらく背後にブレーンがいて、お金が動くことが国が豊かなことだと教えるのだろう、原発を海外に売ることでも、カジノで人生破壊者が生まれることでも、ともかく金が動けば「豊かに」なると教えられ、そのように思い込んでいるのだろう。こういう人間が国のリーダーであることの悲しさよ。
広島の土砂災害は衝撃的なものだった。私は大きな要因は、あの地形の場所を宅地にした行政責任と、それを可能にした不動産業の動きにあったと思うが、ともかく大きな悲劇が起きた。被災者は「限界だ」といっていた。そうであろうと思う。だが、私は同時に思う。福島にはこの限界生活を3年も強いられている人が数万人あるいはそれ以上もいるということを。また今回数十人の命が失われたが、福島では今年だけでもそれに匹敵する人が自殺したということを。
そのことについて、妻を亡くした人が裁判を起こし、勝訴したことは溜飲を下げるものがあったが、その裁判に関する東電の言い分に、その奥さんに対する記述があり、その自殺は「個体の脆弱さによる」とあったという。その文章の前には「多くの人が耐えているのに」という意味の記述もあった。要するに自分たちが多数の人の人生を破壊しておきながら、それを他人ごとのようにとらえ、そういう人は耐えるのが当然なのに、その女性は「個体の」脆弱さによって勝手に死んだというのだ。これほどひどい言い草があるだろうか。
こうしたことを思うにつけ、私は「おてんとうさま」ということばを思う。私たちが子供のころ、お年寄りはよく「おてんとうさまが見ているから」と言ったものだ。人をごまかしてもおてんとうさまはだまされないよ、ということだ。裁判などは人が作った規則に則して勝敗をつけることで、犯罪を裁くものである。だが、私たちはそういうレベルではない、もう少し程度のよい基準で生きている。「ちょっとよくないけど、誰でもしていることだから、ま、いいか、いや、まずいかもも」という迷いは法律的には問題はないが、「おてんとうさま」が許してくれなさそうなことだと控える。でも、規則に抵触しなくても、人は目をつぶってくれることでも「おてんとうさま」が許さないこともある。
私は確信がある。東電のしていることは「おてんとうさま」は決して許さないと。
そのことでいえば、もうひとつあった。昨日のニュースで盲導犬が何者かに刃物で傷付けられたという。盲導犬は啼かないように訓練されているから、痛さを耐えてだまっていたのだと。そのニュースを聞いて、私はあやうく涙が出そうになった。このところ、歳のせいで涙腺がゆるんでしまったが、このときは悲しみによる涙が、怒りによって抑制されたような感覚だった。
東電は「個体の脆弱さ」という表現をしたが、盲導犬の傷害は「器物損壊」の疑いだという。どう考えても言葉使いや法律の適用が違うだろう。器物損壊とは何事か。目の不自由な人のためにいっしょうけんめい働いている犬にやさしくすべきところを、あろうことか傷つけた馬鹿者を罰するということだろう。その盲導犬を「器物」、傷つけたことを「損壊」とは何を考えているのだ。こういうことは「おてんとうさま」に裁いてもらわないことには、とても腑に落ちない。がんこおやじの感覚には納得できないことが多すぎる。
おてんとうさま、やさしいのはありがたいですが、ときどきはビシッと叱ってやってください。