樹形のことを書いていて、木の大きさが写真ではわからないと書いた。ひとつには背景を空にしたことがある。比較するもの(スケール)がないから大きさがわからない。丸いボールの写真をとるとき、野球のボールとサッカーのボールなら模様でも違いがわかるが、のっぺらぼうのボールだとわからない。鉛筆などがおいてあるとそれがわかる。木の場合も家などがあればわかるのだが、空がバックだとわかりにくい。
しかし考えてみれば、わりにくいほうがむしろ自然なはずだ。スミレの花でもブナの大木でも数センチ四方の中に閉じこめるのだから、それで大きさがわかるのは、われわれが本物のスミレやブナの木の大きさについての「常識」があればこそであり、写真家や画家はそれを利用しているといえる。
その常識にとらわれていない子供は違うとらえかたをする。我が家の長女が3歳くらいのとき、動物園につれていった。彼女は生まれて初めてゾウを見たのだが、そのとき顔を真っ赤にした。どうやら、絵本でウサギもイヌもゾウも同じくらいの大きさだと思っていたらしい。絵本から入ったから、彼女にとってはそちらのほうが「常識」であり、実物のゾウは常識破りの大きさだったわけだ。
そういう意味で子供が絵を描くのはおもしろい。三女は保育所で働いているので子供についていろいろなことを教えてくれる。子供の中には大きな人を小さな紙の中になんか描けないという子がいるという。なるほどその通りではないか。しかし大人はそれを笑い、「こうして描くのだよ」と、有無を言わさず自分たちの「常識」を教え込む。この「常識」は縮小した上に三次元のものを二次元に置き換えるのだから一種の嘘であるに違いない。そかし子供は次第にそれを常識と思い、「うまいね」といってもらい、そのルールに従うようになる。教育とはそういうものかもしれない。
おもしろいことに、絵を描くことを「教えられた」年齢になった子、とくに絵が「うまい」子は、ネコの彫刻を作るときに、逆に当惑するという。そして教えられた「常識」にのっとって平坦な粘土でネコの平面図のようなものを作った上で、その脚を下に向けたという。初めから立体的な胴をつくり、脚を出すのではないらしい。もし子供に絵描きを教えないでいきなり立体的なネコを作らせたらどういうものを作るのだろうか。
写真は「真を」「写す」わけではなく、我々の常識を錯覚として利用しているにすぎない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/32/9a088a9772f40dd74006b9d63c2c23af.jpg)
1993.3.9 岩手県五葉山
しかし考えてみれば、わりにくいほうがむしろ自然なはずだ。スミレの花でもブナの大木でも数センチ四方の中に閉じこめるのだから、それで大きさがわかるのは、われわれが本物のスミレやブナの木の大きさについての「常識」があればこそであり、写真家や画家はそれを利用しているといえる。
その常識にとらわれていない子供は違うとらえかたをする。我が家の長女が3歳くらいのとき、動物園につれていった。彼女は生まれて初めてゾウを見たのだが、そのとき顔を真っ赤にした。どうやら、絵本でウサギもイヌもゾウも同じくらいの大きさだと思っていたらしい。絵本から入ったから、彼女にとってはそちらのほうが「常識」であり、実物のゾウは常識破りの大きさだったわけだ。
そういう意味で子供が絵を描くのはおもしろい。三女は保育所で働いているので子供についていろいろなことを教えてくれる。子供の中には大きな人を小さな紙の中になんか描けないという子がいるという。なるほどその通りではないか。しかし大人はそれを笑い、「こうして描くのだよ」と、有無を言わさず自分たちの「常識」を教え込む。この「常識」は縮小した上に三次元のものを二次元に置き換えるのだから一種の嘘であるに違いない。そかし子供は次第にそれを常識と思い、「うまいね」といってもらい、そのルールに従うようになる。教育とはそういうものかもしれない。
おもしろいことに、絵を描くことを「教えられた」年齢になった子、とくに絵が「うまい」子は、ネコの彫刻を作るときに、逆に当惑するという。そして教えられた「常識」にのっとって平坦な粘土でネコの平面図のようなものを作った上で、その脚を下に向けたという。初めから立体的な胴をつくり、脚を出すのではないらしい。もし子供に絵描きを教えないでいきなり立体的なネコを作らせたらどういうものを作るのだろうか。
写真は「真を」「写す」わけではなく、我々の常識を錯覚として利用しているにすぎない。
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1993.3.9 岩手県五葉山